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24. 知の門をくぐる者たち

 学園国家セリオネア――その広大な敷地に、今日だけはいつもと違う気配が満ちていた。


 空気がざわついていた。

 開門を待つ人々の衣擦れ、足音、馬車の軋む音が、どこか緊張を孕んでいた。

 あちこちで交わされるざわめきが、冷えた朝の空にほどけてゆく。


 今日は入学式。

 大陸中から集まった、新たな生徒たちが、この地に足を踏み入れる日だった。


 白壁の学舎が朝日に光り、中庭には花壇の手入れを終えたばかりの湿った土が匂い立っていた。

 土の匂いに、朝摘みのハーブの香りが微かに混じる。


 重厚な鐘楼の陰から、見上げるような天幕が張られ、その下には式典の準備が進められていた。

 仄かに漂うインクと羊皮紙の匂い。

 運び込まれる制服の箱には、金糸で縫われた各国の紋章が規則正しく並んでいる。


 セリオネア――

 遥か昔、時の帝国の皇帝によって築かれたとされるこの学園は、やがて帝権の外へと自立し、独立国家としての道を歩んだ。


 軍も行政も持たぬ。だがこの学園を通じて、あらゆる国がつながる。

 それは一国ではなく、“交差点”だった。


 今では各国が自らの未来を託すように子弟を送り込む、いわば“人材の市場”のような存在であり――


 卒業生の多くが、各国の軍部や政庁に籍を置いている。

 ここでの成績や人脈が、そのまま将来を左右すると言っても過言ではなかった。


 だからこそ、生徒のほとんどは貴族の子息か、大商家の跡継ぎ。

 高価な革靴が石畳を踏む音が響き、染め上げられた制服が朝日に映える。


 “才能があれば、身分を問わない”。

 今では、それも看板だけの言葉にすぎなかった。


 自力で入学できる平民の子など、ほとんどいない。

 十八で成人とされ、働かねばならぬ者たちに、この学園で過ごす時間は残されていなかった。


 わずかに存在する平民の生徒たちは、例外なく“後ろ盾”を持っていた。貴族の目に留まった剣の才、魔法の素質、あるいは芸術の技。いずれにせよ、卒業と同時にその家へ仕えるという“契約”を背負って、ここにいるのだった。


 それでも、今日という日は特別だった。

 様々な事情を背負った者たちが、思い思いの“未来”を夢見て、この門をくぐろうとしている。


 ――ここは、選ばれた理想と、押しつけられた現実が交わる場。

 誰もが自由を謳うが、誰もが平等ではない、矛盾した楽園だった。



 午前の鐘が、広場に響き渡った。


 空を仰ぐように建つ鐘楼の上、古びた金属の音が三度、重く鳴る。

 鈍い音は朝靄を震わせ、石畳を踏みしめる足音すらかき消してゆく。

 まるで、この場に集まった全員の鼓動を一瞬止めさせるかのように。


 学園国家セリオネアの中心、正門広場。


 千年以上前に築かれたとされるその門は、重厚な鉄と魔法障壁によって守られ、表面には幾重にも英雄の紋章が刻まれていた。

 最も古い意匠はすでに判別できず、ただ風化した線だけが、忘れ去られた時代の重みを物語っている。


 門の奥には巨大な回廊と、石造りの礼拝堂のような講堂。整えられた芝と、長く張り出した列柱の影。

 そのすべてが、荘厳で静謐な気配をたたえていた。


 この日は、かつてないほどの重みを帯びていた。


 様々な事情を背負った者たちが、思い思いの“未来”を夢見て、この門をくぐろうとしている。

 ――ここは、理想と現実の交差点。

 名前だけの平等と、本物の格差が同居する、矛盾した楽園だった。


 式典はやがて広場から講堂へと舞台を移す。


 巨大な扉が音もなく開かれ、整然と列を成した生徒たちが、教師たちの誘導のもとに中へと進んでゆく。

 講堂の天井は高く、アーチ状の梁に沿って色とりどりのステンドグラスが並んでいた。

 朝の光がその模様を床に落とし、石の床に無数の色彩を描き出していた。


 生徒たちは中央に設けられた長椅子へと誘導され、やがて全員が着席する。

 その空気は静かで、張り詰めていて、まるで宗教的な儀式の始まりのようだった。


 そして、演壇の中央――

 厳かな魔法紋の浮かぶその中心に、ひとりの男が静かに現れた。


 深い群青の長衣をまとい、銀灰の髪を短く整えた姿。

 その動きはひどく緩やかでありながら、まるで時の流れそのものを制したかのように、広場の空気がぴたりと静まった。


 ゼノラス・クレイド。

 この学園国家セリオネアを統べる校長であり、政治、戦術、教育、すべての分野において抜群の指導力を誇る人物だった。


 ――彼は、理想と矛盾の狭間に立つ者。


 静かに顔を上げたとき、その瞳が広場をゆっくりと横断する。

 灰を混ぜたような濃い青の瞳には、氷のような冷たさと、人間の炎のような温度が同居していた。


 しばしの沈黙の後、彼の低く落ち着いた声が、語りかけるように広場全体へと響いた。


「ようこそ、若き賢者たちよ。諸君は今、“知の門”をくぐった」


 その声は、まるで耳元で囁かれるかのように近く、そして不思議と全員の胸に直接届くようだった。


 ごく自然な語り口でありながら、その言葉の一つひとつには、鋭さと深さがあった。


「ここは、真理を追い、理想を描き、己の限界を見極める場である。――だが同時に、“現実”に晒される場所でもある」


「この学園は、太古の時代に築かれ、いまや各国の要を担う者たちを数多く育んできた。

 だが、諸君には問おう。名門の出か、平民の出か、魔法士か剣士か――そうした肩書が、真に“価値”と呼べるものか?」


 誰も答えない。否、答えられない。

 それを見越したように、ゼノラスはゆっくりと微笑を浮かべる。


「我らが掲げるのは“平等”の理念だ。だがそれは、誰かが与えるものではない。己で勝ち取り、証明するものだ」


 その声が、風のように静かに、そして確かに場を満たしていく。

 生徒たちの間に、緊張が走る。ある者は顔を上げ、ある者は拳を握りしめた。


「ここに集った諸君は、それぞれの“未来”を背負い、この地へと足を踏み入れた者たちだ」


 ゼノラスの声音は落ち着いていたが、その一語一句は、場の空気をじりじりと緊張させる力を持っていた。


「たとえば、帝国より来た“黒耀の姫騎士”。

 最強の称号を受け継ぎ、生まれながらに剣を掲げる者。

 だが――血と誉れだけが、その強さを支えているわけではない」


 前列に立つ少女が、まるで凪のように静かな視線を演壇へと向けていた。

 高く結い上げられた黒髪が、朝の微風にかすかに揺れた。


「また、南方の地より歩み来た、“静穏の守護騎士”。

 武門の誉れ高き家に生まれ、もっとも静かで、もっとも繊細な魂を持つ者。

 真の強さとは、剣の重さではなく、己の弱さとどう向き合うかにある」


 その青年は肩をすくめるでもなく、ただ真っすぐに立っていた。

 手は軽く拳を握りしめている。鍛え上げられた指が、それを物語っていた。


「西南の王国から来た、“紫紺の貴石”。

 幼き頃より魔力に祝福され、誰よりも高く、華やかに育った少女。

 だが――真に価値を持つ石とは、磨かれずして輝きはしない」


 濃紺のローブが揺れる。

 魔石をあしらった髪飾りが陽を受けてきらめき、黄金の瞳がわずかに細められた。


「そして、名も肩書も持たぬ者たちもいる。

 遠く離れた村から、あるいは誰にも知られずに、ただ一つの望みを抱えてこの地に辿り着いた者たちが」


「貴族であれ、平民であれ――その意志がここに届いたのなら、我々は等しく迎え入れよう」


 その言葉が、風のように広がり、広場を優しく撫でていく。

 誰の心にも、何かがそっと触れた。


「あるいは、いま静かに座る無名の誰かが、百年後には英雄と呼ばれているかもしれない。

 未来は、決して予言ではない。だが希望とは、まだ知られていない名のことである」


「――ようこそ、セリオネアへ」


 そして彼は、ゆっくりと演壇を下りる。

 それが、入学式の幕開けを告げる合図となった。


 ざわめきが、波のように広がっていった。


 式の進行を知らせる鐘が再び打ち鳴らされ、生徒たちは徐々に列を解かれていく。

 張り詰めていた空気が、解き放たれた弦のように緩み始めた。


 数人の生徒たちが、顔を見合わせ、微かに頷き合う。

 小さく拳を握り締めた少年。制服の裾を整えながら、何かを決意するように瞳を上げた少女。

 名を知られる貴族も、無名の平民も、その言葉に心のどこかを揺らされていた。


 ――まるで、今この瞬間から何かが始まると、そう思えるように。


 ルクは群れの中にいた。けれど、群れとは溶け合っていなかった。

 ただそこに、“ある”という事実だけが静かに立っていた。


 講堂に満ちるざわめきは、耳の奥でくぐもり、膜を隔てたように遠い。

 陽光がステンドグラスを通して床を染めていても、そこに色の意味はなかった。


 視線は前へと向いている。だが、その焦点はどこにも結ばれていない。

 顔に宿るのは、沈黙ではなく、何も宿らない“空白”。


 あの演説が語ったものが、理想だったのか、希望だったのか。

 そんな問いすら、きっと彼の中には生まれていなかった。


 空気の重みだけが、わずかに彼の頬を撫でる。

 それすらも、まるで誰か別の人間が感じているかのように――。

新キャラだらけで設定を作り込むのにものすごく時間がかかった……

そして予約投稿できてなかった……

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