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23.見えなくなるまで

 翌朝。


 村の外れに、一台の馬車が停まっていた。


 木の幌にはまだ朝露が残り、陽光を弾いて小さく光っている。

 車輪の下では、湿った土がやわらかく沈み、馬の吐く息が白く揺れていた。


 どうやら、何日も前から、どこかの集落経由で巡回してくるように手配されていたらしい。

 セリアの、あいかわらず抜かりない段取りだった。


 御者の男は無口で、もう準備は整っていると言わんばかりに手綱を握っている。

 馬車の背には、いくつかの荷と食料の包み。どれも必要最低限。質素な木箱と布袋がひとつずつ、静かに積まれていた。


 細工のない車輪が、露に濡れた地面にしずかに沈み込んでいる。

 すべてが、出発を待つ静寂の中にあった。


 ルクは、しばらくのあいだ、その馬車の脇でじっと立っていた。


 何を考えているのか、自分でも分からないまま。

 ただ、足元にある小石や土の感触を、なぜか意識しながら立ち尽くしていた。


 やがて、無意識に村を振り返る。


 ――ここに来たのは、偶然だった。


 偶然だったのかもしれない。

 けれどあの時の出会いは、どこか奇跡のように思えた。


「いつの間にか、ずいぶんと長くいたな」


 ぽつりと、小さく、誰に向けるでもなく呟いた。


 背後に気配を感じる。


 セリアがいた。


 いつもと変わらぬ服装。変わらぬ笑み。

 けれど、その目元には、拭いきれない光が宿っていた。


「……ほら、おいで!」


 唐突に、セリアがそう言った。


 少し離れた場所に立っていた彼女が、ぱたぱたと駆け寄ってくる。

 “おいで”と言いつつ、自分から近づいてくるのが、いかにも彼女らしい。


 ルクは、反射的に両腕を差し出す。

 そしてその腕の中へ、セリアはためらいなく飛び込んできた。


「うわぁ……もうこんなに大きくなっちゃって……」


 軽く宙に浮いた身体。


 両腕がしっかりとルクの背に回ると、思ったよりも力強くしがみついてきた。

 そのまま、しばらく何も言わなかった。


 ただ、胸元に頬を寄せて、目を閉じ――じっと、静かに抱きしめていた。


 胸の奥に、微かな震えが伝わる。


 それが彼女の鼓動なのか、呼吸なのか、それとも別のものか――ルクには、分からなかった。


「……昔はね、こーんなだったのに」


 ようやく口を開いたセリアは、自分の腰のあたりに片手を添える。


 ルクは無言のまま視線を落とす。


 セリアは笑いながら、今度は自分の首元を指差した。


「ほんとは、ここくらいだったかも。ね? あのとき……あなたを森から連れてきた日」


 懐かしそうに目を細める。


 そのまつげの先で、光を受けて小さな水滴がきらめいた。


 やがて、セリアはしがみついていた手をそっとほどく。


 ルクの腕から降りた足が、地面の草をわずかに揺らした。


 名残惜しそうに一歩下がると、ひとつ、小さく息を吐いた。


「ちょっと、頭を下げてくれる?」


 ルクが首をかしげると、セリアはすぐに補足した。


「……こう。こっちに、軽く突き出すように」


 言われるままに動くと、彼女はポケットから小さな布包みを取り出す。


 布にくるまれていたのは、銀の鎖が絡まった、細く繊細なネックレスだった。


「はい。これで……うん、大丈夫」


 細い指先が、ルクの首元にかかる。


 鎖をかけ、位置を調整しながら、セリアの目がそっと彼の胸元へと落ちた。


 銀のペンダントトップが、胸元でわずかに揺れている。


 円形の銀細工の中に、二つの獣と、それを貫くように交差する剣の意匠。

 細かな彫りが施され、形そのものに何らかの意味が宿っているかのようだった。


 ルクは、その紋様に見覚えがなかった。

 けれど、なぜか視線が引き寄せられた。


「これはね――お守りだよ」


 セリアの声は、どこか遠くを見つめるような響きだった。


「あなたがこれから先、どんな困難に出会っても。ちゃんと、ちゃんと乗り越えられますようにって、そういう願いを込めて」


 そっと胸元に手を添えたあと、やわらかく微笑む。


「だから……絶対に、肌身離さず持っていてね」


 ルクは、一瞬だけ目を伏せ、そして静かに頷いた。


 セリアは、笑った。


 それはいつも通りの、優しい笑みだった。

 けれどその目は、どこか潤んで見えた。


「……絶対に、なくしちゃダメだよ?」


 その声には、祈りにも似た想いが、そっと滲んでいた。


 ルクが軽く頷き、ネックレスの感触を確かめるように指先でなぞった、そのとき――


「……ルク。名残惜しいのは分かるけど、出発しちまうぞ?」


 背後から届いた声に、ルクは肩越しに振り返った。


 馬車の影から、ひょっこりと一人の男が姿を現す。


 金と黒が混ざった虎毛のような髪。クセ毛の乱れをそのままに、肩にかかる長さで束ねられている。

 上背があり、旅慣れた革の装い。肩の鞄には、雑多な道具と包帯の端が覗いていた。


「……カイル?」


 ルクが名を呼ぶと、男――カイルは片手を挙げて、いつも通りの飄々とした笑みを浮かべた。


 セリアを見る。


 彼女は、まるでイタズラが成功した子どものように笑っていた。

 口元はにっこりと綻び、目元にはきらりと光るものがあった。

 喜びと寂しさと、そしてちょっぴり得意気な――すべてが入り混じった、いかにも“セリアらしい”顔だった。


「カイルも、入学するんだよ?」


 言葉の端に、わずかな間があった。

 けれどそれは、戸惑いではない。次の言葉を楽しんでいるような、確信めいた間だった。


「あとね、馬車の中にセレも乗ってる」


 ルクはほんのわずか、眉を動かした。


 セリアはその反応を見て、ふふっと声を立てて笑う。


「だって、ルク一人だと――絶対迷子になるもん!」


 笑いながら、両手を腰に当てる。

 けれどその仕草もどこか、無邪気というより、愛おしさのにじむ“叱咤”のようだった。


「もう、信じられないくらい方向音痴なんだから。まここで?って場所で迷子になるんだもん。どう進めば分かるのに、って場所でね。あれ、ある意味才能だよ?」


 口調は軽やかだったが、その言葉の向こうには、たくさんの“思い出”が詰まっていた。

 森の道、村の畦道、小川の手前。何度も見送った背中を、何度も探しに行った時間を――セリアは、すべて知っている。


「だからね、お友達と、行っておいで」


 やわらかく微笑んで、セリアはそう言った。


 ――お友達。


 その言葉が、どこか遠くから届いたように感じられた。

 胸の奥で、微かに何かが引っかかる。


 カイルとセレは……その言葉で呼んでいいのだろうか。


 数年前のことを思い出す。

 ある日、セリアが「お友達を作りましょう」と言って、村の同世代の子どもたちを何人か家に呼んだ。

 その中に、カイルとセレがいた。


 あれは、セリアが用意した“きっかけ”だった。


 気づけば彼らとは、畑で並んで働く日もあり、火の周りで黙って座る夜もあった。

 特別な言葉を交わしたわけではない。だが、何度も顔を合わせるうちに、少しずつ距離は変わっていった。


 けれど、それを“友達”と呼んでいいのかは、まだ分からない。

 ただひとつ言えるのは――

 その言葉に、強く否を感じなかったことだった。


「ほら、そろそろバイバイだよ。行ってらっしゃい」


 セリアが、両手を広げるようにして言った。


 その声には笑みがあったが、どこか押し殺したような柔らかさが混じっていた。

 見送るために微笑む者の、それでも別れが寂しいと知っている者の声音だった。


「……行ってきます」


 ルクは一言だけ答えて、名残惜しさを胸に収めるように、馬車の乗り口に手をかけた。

 足をかけ、軋む板を踏みしめてゆっくりと中へ入る。


 車内には静けさが満ちていた。


 セリアが言っていた通り、一人の少女が座席に腰掛け、膝の上に分厚い書物を広げていた。


 セレ――セレフィナ・ノルゼリア。


 その髪は、まるで夜明け前の空のようだった。

 青に淡く銀が混ざり合い、光の角度によって冷ややかにも、やさしくも見える。

 読書の邪魔だったのか耳にかけられた髪がさらりと揺れ、横顔にかかる影が凛とした輪郭を描いていた。


 アイスブルーの瞳が、真剣な光を宿して文字を追っている。

 澄みきった湖面のようなその瞳は、読み進めるごとにわずかに動き、まるで言葉を飲み込むようにページに没入していた。


 その姿は静謐で、どこか研ぎ澄まされていた。

 セリアとはまるで違う――柔らかさよりも、静けさが先に立つ、美しさだった。


 やがて、セレはふっと気配に気づいたように、顔を上げる。


「ルク。遅かったね? もうすぐ出発だよ」


 瞳がゆっくりと瞬き、淡く微笑む。

 その声音には、感情を過度に乗せない、けれど確かな親しみがあった。


 ルクは無言で頷き、セレの隣へ腰を下ろした。


 向かいの席では、カイルがすでに背もたれに体を預けていた。

 腕を組んで、窓に背を預け、目を閉じる寸前のような無造作な姿勢。


 しばらくして――車輪がゆっくりと動き出した。


 ぎい、と木の軋む音がして、馬車が石畳を踏みしめる。

 窓の外が、少しずつ流れてゆく。


 ルクは立ち上がり、木枠の小窓を開けた。


 朝の風が頬をかすめる。

 外には、セリアが両手を大きく広げて手を振っていた。


 その姿は小さくなりながらも、ずっと笑っていた。

 ルクは、そっと手を振り返す。


 ――見えなくなるまで。


 地平にその姿が溶けてゆくまで、ルクは、窓辺に立ち尽くしていた。


二人のキャラの作り込みにめちゃくちゃ時間かかっちゃいました。

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