21. 風の変わる朝
ルクは、静かに朝食を終えた。
皿の上に残る最後のパンの欠片を、口に含む。
柔らかな食感が舌に残るが、味はもう意識に届いていなかった。
気づけば、彼の内側には、うっすらとしたざわめきが満ちていた。
――やはり、何かがおかしい。
朝食の最中から感じていた、あの微かな“ゆらぎ”が、形を持ちはじめている。
目の奥で揺れていた光。わずかに長引く瞬き。いつもよりやけに機嫌の良い口調。
セリアが“何かを企んでいる”ときにだけ現れる、あの前兆。
箸を静かに置いた瞬間だった。
目の前のセリアが、ぱんっと両手を打ち鳴らした。
空気が小さく跳ね、その笑顔がさらに弾ける。
「はいっ! ここで発表です!」
……やっぱりだ。
その宣言に、ルクの肩がわずかに強張る。
嫌な予感が、確信に変わる瞬間だった。
セリアの目がきらきらと輝いていた。
それは“悪戯が成功しそうな子供の目”であり――“嵐を前にした魔女の目”だった。
「ルクは、学校に通ってもらいます!」
そして、セリアの笑みには、何かを“仕掛けた”者だけが見せる、ほんの一瞬の誇らしさがあった。
一拍の静寂。
ルクは、瞬きを忘れていた。
……今、なんと言った?
「……学校?」
口をついて出た声は、思ったよりも低かった。
思考が追いつかず、ただ反射的に言葉をなぞっただけだった。
セリアは、頷いた。笑顔は満面のまま。
「そうです! 学ぶ場です! 人と交流し、知識を深め、自立への第一歩です!」
朗らかで、晴れやかな声音。
けれど、ルクの胸には、冷たい風が吹き抜けたような気がした。
“外の世界”という言葉が、形も持たぬ不安を伴って迫ってくる。
眉をひそめ、視線をずらす。
「……村の子供たちが通っている、あの……小屋みたいなところか?」
思い出すのは、木造の簡素な建物。
数人の子供が集まり、時折、先生らしき大人が絵を描かせていた場所だ。
ルクも、村の手伝いで何度か顔を出したことがある。
だがセリアは、すぐさま首を横に振った。
「ちがいまーす!」
声まで弾んでいた。無邪気そのものの否定だった。
「ルクが行くのは、もっともっと難しくて、本格的で、ちゃんとした“外の”学校です!」
――外の、学校。
その言葉が、ゆっくりと脳内に染み込んでくる。
“外”――それは、あの森の外。
セリアと共に過ごした“内側の世界”とは対極の、未知の場所。
今、自分はそこへ踏み出そうとしている。
ルクは、そっと息を吐いた。
何も変わらないはずの朝。
陽の光は変わらずあたたかく、土の匂いも、漂うスープの香りも、いつもと同じだった。
けれど、どこか、微かに風の質が変わったような気がした。
その理由も、正体もわからないまま、ルクはセリアの口元に自然と目を向けた。
セリアは、いつの間にか大きな紙を机の上に広げていた。
「……これ、地図か?」
広げられた紙を見て、ルクは思わず声を漏らした。
地図自体は何度か見たことがある。
セリアがその場でささっと描いた、手描きの簡素なものだ。
けれど、今目の前にあるそれは――明らかに違った。
紙はしっかりとした羊皮紙で、精密に描き込まれた線や文字が並んでいる。
初めて見るものだった。こんなものが家にあったのかと、ルクは内心で目を丸くする。
「はいっ、じゃじゃーん! これはこの大陸の地図です!」
セリアは得意げに紙の上を指でなぞり、ある一点をぴたりと指差した。
「えーっと、ここが今のあたりで、ルクが行くのは……ここっ!」
指先が示すのは、帝国から遠く東方に位置する場所――大陸の端に近いようにも見える。
「ここが『学園国家セリオネア』! 大陸中の生徒が集まる、学園でありながら独立した中立国なんです!」
「すごいですよ〜、この世のすべての知識がこの学園には集まってます!」
セリアは、きらきらとした目で語り続ける。
「入るのはけっこう簡単なんですが、卒業するのは……ちょっぴり難しいかも?」
小声で「ちょっぴり」と言ったくせに、次の言葉ははっきりと――
「でも! 卒業しないと、怒りますからねっ?」
「俺に必要か? ……セリアが教えてくれればいい」
静かにそう返すルクに、セリアはぴしっと指を立てて言い切った。
「必要です! 私が教えられることなんて、もうとっくに教え尽くしました!」
言葉には力があった。どこか、少しだけ寂しさも混じっていた。
「ここを卒業すれば、どの国のどんな仕事にも就けます! 私は……ルクに、大きな世界で“やりたいこと”を見つけてほしいんです!」
瞳は真剣だった。
けれどすぐに、その表情はぱっと砕けた笑顔に変わった。
「それにですね、手続き、けっこう大変だったので……もう行ってもらわないと困ります!」
さらっと、とんでもないことを言う。
――いつの間に、そんなことを。
いつの間にか、セリアはまた彼の知らぬところで、何かを“準備”していたらしい。
ルクは、ほんの少しだけ黙った。
反論できないわけではなかった。けれど――彼女が一度言い出したことを曲げられた試しがなかった。
それは、長く共に過ごしてきた中で、痛いほどに知っている。
だから、ほんのわずかに眉を寄せ、静かに息を吐いた。
「……わかった。でも、セリアも一緒に行こう」
ぽつりと、そんな言葉がこぼれた。
その瞬間、セリアの手が止まり、空気が微かに張り詰めた。
その顔に浮かんだのは、驚き――そして、すぐに切なさを滲ませた笑みだった。
「ふふっ……いい加減、親離れの時期なのです」
一瞬、口元は笑っていた。だがその目の奥には、微かに沈んだ影が揺れていた。
それが何の感情か、ルクにはわからなかった――ただ、胸の奥がすこしだけ締めつけられるようだった。
「私はここで、ルクの帰りをちゃんと待ってますよ。でも、簡単に帰ってきたら……家に入れてあげませんからね?」
言葉は軽く、けれど目はまっすぐだった。
ルクは、わざとらしく大きなため息をついた。
椅子の背にもたれ、天井を見上げるようにして、ぼそりと告げる。
「……わかったよ。行ってくる」
その言葉に、セリアは少しだけ瞬きをして、意外そうに小首をかしげた。
「案外、聞き分けがいいですね? もっとこう……“行きたくない!”って駄々をこねると思ってました」
ルクは眉をひそめ、じっと彼女を見つめた。
ほんの少しだけ、恨めしげな視線を滲ませて――
「……駄々をこねたら、無しになるのか?」
問いかけは真顔で、だがその奥には皮肉が混じっていた。
セリアは一瞬きょとんとしてから、すぐに口元をほころばせた。
「ふふっ。それはあり得ませんね?」
晴れやかな笑顔のまま、きっぱりと断言する。
ルクは肩をすくめ、静かに言い返した。
「なら、駄々をこねるだけ無駄だ」
ふたりの間に、穏やかな静寂が落ちた。
朝の陽射しが、窓から柔らかく差し込んでくる。
「……ところで、いつ出発なんだ?」
思いついたように、ルクは何気なく尋ねた。
食後の余韻がまだ残る空気の中、何かのついでのように投げかけた言葉――だったはずなのに。
「ん? 明日ですよ?」
セリアはさらりと答えた。まるでカラスの色は黒ですとでも言うかのように当たり前でしょ?と言ってるようだった。
「けっこう遠いですからね〜、早めに出発しないと入学式に間に合わないので!」
明るく、軽やかに。
……その瞬間、ルクは固まった。
明日?
ほんのわずかの間を置いて、彼の目に本気の驚愕が宿る。
全身の血の気が一気に引いていくのを、自分でもはっきりと感じた。
明日って――明日? 本当に明日?
「……いや、おい。もっと早く言えよ」
数秒の沈黙。
すぐには返せる言葉が見つからなかった。まるで胸の奥を冷水で満たされたような、妙な静けさが広がる。
言葉に僅かに棘が混じる。
だが、セリアはきょとんとした顔を浮かべたままだ。
「だから前日に言ったんですよ?」
「遅すぎるだろうが……」
思わず頭を抱える。
何の準備もしていない。というか、何を準備すればいいのかすら分からない。
荷物は? 服は? 道中の食料? 金? 地図? 心構え?
……本当に、明日?
「無理だ。出発できるわけがない」
思わずそう口走ると、セリアはまたにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です! 必要なものは先に送っておきました。ルクが到着するより先に届いていますよ」
あっけらかんと、そんなことを言うセリアに、ルクは言葉を失う。
――先に送った? いつの間に。
昨日今日の話ではない。かなり前から、そうとうな準備をしていたはずだ。
今の今まで気づかせなかった徹底ぶりに、ルクはただ呆れるしかなかった。
……いや、ここまで来るともはや、自分が気づかなかったのが悪いような気さえしてくる。
「でもですね、渡したいものがたくさんあるので……ちょっと待ってくださいね」
言うなり、セリアは立ち上がって台所の奥へと向かう。
何やらごそごそと物音がして、しばらくすると――
「よいしょっ……」
両手いっぱいに何かを抱えて、満面の笑顔で戻ってきた。
すごく迷ったんですよ。
もともと学園なんて登場させるつもりじゃなかったので。でもじっくりまず学園編を挟んで世界観を作り上げていった方がいいかな?と思って
でももうほのぼのとしないから離脱しないで!
あっタグ追加しなきゃ




