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20. 笑顔の奥の瞳

 視線を上げる。

 朝の空は、限りなく澄んでいて、どこまでも遠かった。

 薄雲が流れ、風が通り抜けるたび、葉のざわめきがかすかな音を立てる。


 ――この地で過ごして、もう四年になる。


 畑を耕し、食事を作り、人と挨拶を交わし、季節の移ろいを感じる日々。

 最初は、ひとつひとつがぎこちなく、ただ“こなしている”にすぎなかった行為。

 それがいつしか、当たり前のように身につき、日々の流れのなかに自然と溶け込んでいった。


 けれど、そんな今も――あの頃のことを思い出す。


 あの頃は、“初めて”という言葉で埋め尽くされていた。


 人と目を合わせること。

 誰かに名前を呼ばれること。

 誰かの手を借りること。

 微笑みに、どう返せばいいのかも分からなかった。


 命を奪うことに、迷いはなかった。

 正しさも間違いもなく、ただ命じられるままに動くだけだった。

 感情は、切り離されていた。

 言葉に意味があることさえ、当時の自分には遠い話だった。


 そんな自分を――セリアは、拒まなかった。


 怒鳴らず、嘆かず、見限りもせず。

 何度拒絶されても、何度無反応でも、諦めずに向き合い続けてくれた。

 ひとつずつ、何かを手渡すように。

 その手の温もりが、いつしか心の奥に届いていた。


 あの頃から、今の自分は――どれくらい、変わったのだろうか。


 答えは分からない。


 けれど。


 あのときの自分は、やっぱり“歪んでいた”と、今なら思える。


 そう思えること自体が、きっと――変化なのだ。


「ルクー!」


 柔らかく風に乗って、澄んだ声が届いた。

 思考の流れが、ふわりとほどける。

 まるで浮遊していた意識が、そっと現実へ引き戻されるようだった。


 その声には聞き慣れた響きがあった。

 日々の中で幾度となく耳にしてきた、穏やかで、どこか楽しげな声音。


 けれど今朝のその呼びかけは、ほんのわずかに――そう、ごくわずかにだけ、

 胸の奥をくすぐるような、あたたかさを帯びていた。


 ルクは小さく息を吐き、静かに目を閉じてから返した。


「……ああ」


 その一言には、かつてのような迷いも、冷たさもなかった。

 ただ自然に、心の底から返ってきた声だった。


 顔を上げ、家の方へと歩き出す。

 踏みしめる足元には、今朝耕したばかりの柔らかな土。

 空は高く、空気は澄んでいて、ひとつひとつの風景が、まるで祝福のように目に映った。


 かつての自分なら――この呼び声にも、背を向けていただろう。

 誰かのために歩く意味など見出せず、ただ黙って無視したかもしれない。


 けれど今はちがう。


 あの声に、足が向かう。


 それは義務でも、命令でもなく――“応えたい”という想いが、確かにそこにあった。


 ゆっくりと。

 けれど確かな足取りで。


 彼は“今”という日々の中を、静かに歩き始めた。


「朝ごはんできましたよー! じゃーん!」


 弾けるような声が、家の中に明るく響き渡る。

 扉をくぐると、ほんのり香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

 焼きたてのパンの甘い香りと、湯気の立ち上るスープの優しい匂い――

 そのどちらもが、今日という朝を特別なものに感じさせてくれる。


 食卓の上には、いつもの質素な朝食とはまるで違う光景が広がっていた。

 こんがりと焼かれたパンはきつね色に輝き、皿の中央には色とりどりの野菜が煮込まれたスープが湯気を立てている。

 ふわりと膨らんだ半熟卵の上には、香草がさりげなく添えられ、隣には熟れた果物が彩りを添えていた。


「誕生日スペシャルバージョンです! おめでとうございます!」


 セリアは胸を張って、目を輝かせながらそう告げた。

 嬉しさを隠そうともしないその笑顔は、どこか子供のような無邪気さと、何とも言えない温もりを帯びている。


 ルクは無言のまま、視線を朝食の一皿一皿へと滑らせた。


「朝から、すごいな」


 ぽつりと漏れた言葉は、驚きと少しばかりの照れが混じったものだった。


「ふふ、夜ごはんも期待しててね?」


 セリアはいたずらっぽく微笑みながら、ルクの前にスープ皿をそっと置いた。


 銀色の髪が、光を受けてふわりと揺れた。

 彼女の輪郭は、出会ったあの日からまるで止まったままだった。

 その髪も、微笑も、声の調子も――時が彼女を避け、そっと脇を通り過ぎたようにさえ思えた。


 ……綺麗だな、と。

 何の前触れもなく、ふと、そんな感情が胸をよぎった。


 以前の自分にはなかった感性だった。

 目の前のものを“美しい”と思う心。誰かの笑顔に心が揺れるということ。

 そんな人間らしい反応を持てるようになったのも――すべては、彼女が教えてくれた。


 ふと、そんな彼女を見つめながら、ルクは考えた。


 ――セリアはいくつなのだろう。


 出会ってからずっと変わらないその美しさを見ていると、年齢という概念自体が、どこか現実味を失っていくようだった。

 確かに昔、一度だけ聞いたことがある。まだこの家で暮らし始めたばかりの頃だった。


「20歳です!」


 そのとき、セリアは満面の笑顔でそう答えた。

 肩にかかる銀の髪が陽光を受けてきらめき、まるで冗談のように明るく、まっすぐな声だった。

 それを聞いて、ルクはただ「そうか」と小さく頷いただけだった。

 年齢というものに深く関心を持ったことがなかったから、それ以上は何も考えなかった。


 だが、それから三年が過ぎたある日。

 セリアの誕生日に、ルクは真面目な顔で言ったのだ。


「……23歳の誕生日、おめでとう」


 そのときも、特に深い意味はなかった。

 ただ彼なりに、感謝と祝いの気持ちを込めた――それだけだった。


 けれど。


「20歳です!」


 セリアは、きっぱりと即答した。

 笑顔のまま、躊躇いもなく、まるでそれが唯一の正解で当たり前であると言わんばかりに。


 ルクは一瞬、言葉を詰まらせた。

 確かに、出会ったときに「20歳」と言っていた。

 あれから三年が経っている。だから今は23歳だろう。

 セリアの教育のおかげでとっくに算数はできるようになっていた。


 つい口を開きかけた瞬間。


 セリアが、ふと微笑んだ。


 その笑みは柔らかく、どこまでも穏やかで、けれど――その奥に、説明のつかない“気配”があった。


 触れてはいけないものに、触れようとしている。

 そんな、背筋に小さな冷気が走るような直感。


 ルクは、静かに口を閉じた。

 何かを理解したわけではなかった。だが、そうすべきだと、強く思った。


 後日、ふとした折に村の老婆が言ったことがある。


「いいかい、ルクちゃん。女の人に年齢の話は、してはならんのよ。命にかかわることもあるからねぇ」


 冗談めかして笑ったその声には、どこか真実味があった。

 ルクはただ、深く頷いた。


 そして二度と――セリアの年齢については、口にしないと決めた。


 ルクは、出された朝食を静かに口に運んでいた。


 パンはふわふわで、ひと噛みごとに、ほんのりとした甘い香りが鼻へ抜けていく。

 スープは口当たりが優しく、根菜の柔らかな歯触りと、じっくり煮込まれた旨味が舌の上に染み渡っていく。

 卵料理には細やかな手間がかかっていて、半熟の黄身がとろりと溶ける瞬間、ほのかなバターの香りが広がった。


 ――ただ、生きるために喉に流し込んでいた日々があった。


 味も香りも感じず、温度さえ気にしたこともなかったあの頃。

 食事とは“摂取”であり、“任務前の準備”でしかなかった。


 今の彼は違う。ただ“美味しい”と感じていた。

 理由も言葉も必要なく、そこにあるものを味わうという、たったそれだけのことが――心を満たしていた。


 向かいに座るセリアは、その様子を嬉しそうに眺めていた。


「ふふっ……いい食べっぷりですねぇ」


 穏やかな声だった。

 その言葉に特別な意味はなく、ただ、見守るような響きだった。


 言葉に出さずとも、笑顔が全てを語っていた。

 満足そうに目を細めて、ほんの少しだけ上体を前に傾けながら、ルクの一挙一動を目に焼きつけるように見つめている。


 彼女の瞳は――あの頃と何も変わらない。


 けれど。


 ルクは、ふと、違和感のようなものを覚えた。


 一瞬だけ視線がぶつかった。

 セリアは変わらぬ微笑みを浮かべていたが、その奥に――何か、ほんの微細な“ゆらぎ”のようなものが見えた気がした。


 それは目の奥に沈む光のようなもの。

 あるいは、笑顔の輪郭に浮かぶ、まだ言葉にならない何か。


 それが不快なものではなかった。

 むしろ、ルクの中に芽生えた“直感”に近い。


 ――ああ、まただ。


 また、セリアは何かを思い巡らせている。

 それが何かは分からない。ただ、確かに“何かが始まる気配”だけが、そこにあった。




1日1投稿にしたいんですけど今のパートを早く終わらせちゃいたいのとそろそろ時間に余裕のある期間が終わりそうなのでそれまでは21時投稿を固定して他は余力があればあげるって感じにしたいな〜と

今書くの楽しいーってノッてる時期なんですよ

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