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2.九十二番

 通路を抜けた先には、試合前の控え室と呼ばれる石造りの部屋がある。


 だが、“控える”という言葉が示すような余裕も、落ち着きも、この部屋には存在しなかった。

 ただ、死ぬ前に装備を整えるための“最終地点”──それだけの意味しか持たない、屠殺場のような空間。


 室内は薄暗い。窓はひとつもなく、代わりに壁の上部に空いた通気口から、どこか遠くの鉄の焼ける匂いが染み込んでくる。

 壁面には、過去の血飛沫が乾いて黒ずみ、幾重もの擦過傷が爪痕のように残されていた。壁には何かの靴の跡がこびりついている。それは、死にたくなくて暴れた誰かが、壁を蹴って抵抗した痕だろう。


 床には、踏み潰された肉片のような赤黒い塊が乾いてこびりつき、所々に白いもの――歯や骨のかけらのようなものが散っていた。おそらく試合で死んだ遺体をこの部屋に運んだのだろう。

 目地には武器の破片や焦げた皮膚片、砕けた爪、衣服の切れ端が詰まり、石板の間からは濁った液体が滲んでいる。


 鉄と血と脂、さらに焦げた毛髪のような匂いが空気を満たしていた。鼻孔にこびりつくその臭気の奥には、何かが腐ったような甘酸っぱさも混じっていた。おそらく、それは誰にも回収されることのなかった内臓の残滓だ。


 部屋の隅には、武器が乱雑に立てかけられている。

 剣、槍、斧、棍棒、短剣。どれも使い捨て同然の安物で、まともな手入れすらされていない。


 刃こぼれのある剣。柄が割れて布でぐるぐる巻きにされた斧。血が乾き、褐色に固まった槍先。

 すべてが、誰かを殺すか、あるいは殺される直前まで使われた“死の残骸”だった。


 それは“武器”ではなく、“回収された道具”だった。

 命を奪うためだけに、また別の手に渡る。そうして再び、血を吸う。


 少年はその無数の死の道具の前に立ち、数秒だけ視線を滑らせた。

 それは品定めというより、儀式のようだった。必要なものがあるか。扱えるものがあるか。それだけの確認。


 目は流れるように各武器を撫でる。ひとつひとつをじっくり見るのではなく、過去の記憶と感覚で、形と重さを頭の中でなぞっていく。

 長年の経験が、刃の傾き、柄の腐蝕具合、金属の質まで、視覚と感覚のわずかなズレから見抜いていく。


 彼の中で、“武器を選ぶ”という行為に時間は不要だった。


 やがて、彼の手が止まる。

 伸ばされた指が選んだのは、壁際に立てかけられた一本の大剣だった。


 刃は幅広で、長さは彼の肩口から地面近くにまで達する。

 鍔には無数の凹みが刻まれ、黒ずんだ刃はどこか煤けたように鈍く光っていた。

 柄は布を巻かれた簡素なもの。所々に乾いた血がこびりつき、脂が染み込んでいる。

 持ち上げると、手に吸いつくような粘着感が残った。


 少年はそれを片手で軽々と持ち上げ、静かに構えをとった。

 手首と肩で重さを測り、腰で受け、肘で制御する。

 ほんの数秒で、刃の重心と柄の偏り、揺れの癖まで掌握する。


 そして、何の感慨もなく、それを肩に担ぐ。


 選んだ理由は、なかった。

 今日は、なんとなくこれだった。

 強いて言えば力任せに叩き斬りたい気分だった。

 ただ、それだけ。


 昔は片手剣ばかりを使っていた。


 軽く、扱いやすく、手の延長として振るえる道具だった。

 最短の動作で殺すには、それが一番だった。

 速さ、精度、再現性――すべてが勝利のために設計され、使い込まれてきた。


 けれど、同じ武器を何度も繰り返し握るうちに、ある日ふと、その意味が消えた。


 「勝つ」ことが目的でなくなったのだ。

 勝つのは当然だった。

 殺すのも、呼吸するのと変わらない。

 飽きていた。

 心のどこかが、もう“勝利”を求めていなかった。


 だから今は、ただ“気分”で武器を変える。

 その日の重さ。その日の音。その日の手触り。

 今日が“大剣”だったというだけだ。


 少年は壁に背を預け、大剣を担いだまま、ゆっくりと目を閉じた。


 精神を沈めるためではない。

 何かを考えているわけでもなかった。


 そこにいる。

 ただそれだけのことを、自分自身に確認する時間。


 世界の音が少しずつ遠のく。

 目を閉じれば、空間が静かになるのではない。

 世界が“不要なもの”に沈黙していくのだ。


 やがて、鉄が軋む音が鳴った。


 ギイ……と、湿った重たい金属音。

 誰かが扉を開けたのだ。


 だが、声はかからない。


 呼ぶ必要がなかった。

 誰も命じない。誰も急かさない。

 彼が、ただ出ていけば、それでいい。


 少年は目を開け、静かに一歩を踏み出した。


 担がれた大剣が、肩の骨に重さを乗せる。

 足元の石板が、ほんの少し沈むような気がした。


 彼の歩みは、速くも遅くもない。


 控え室から伸びる通路は、洞窟のように暗く、冷たかった。


 光はない。

 それでも、少年の歩みは寸分の乱れもなく続く。


 肩で担いだ大剣は、音を立てずに身体と同化していた。

 重さも、金属の冷たさも、もはや感覚の中に存在していなかった。


 遠くから、何かが響いてくる。


 最初は、腹の底に伝わる“振動”だった。

 地鳴りのように、低く、重く、うねりのように波を打っていた。


 それが、やがて“音”になる。


 ざわめき。

 叫び。

 咆哮。

 断末魔のような笑い声。


 通路の奥から、それが波となって押し寄せてくる。


 少年は、息をひとつ吐いた。

 それは緊張でも、気合でもない。

 呼吸のひとつに過ぎなかった。


 目の奥が、わずかに光を宿す。

 それは熱ではない。凍てついた硝子のように冷たく、透き通っていた。


 通路の先が、明るくなる。


 足を進めるごとに、熱気が押し寄せてくる。


 それは空気の密度の変化だった。

 汗と酒と香水と煙と唾液。

 人間の内部から噴き出したあらゆるものが、空気を構成していた。


 その匂いは、内臓の裏に刺さるように重く粘り、まとわりついた。

 皮膚に触れるだけで、感覚が濁る。

 それでも少年の呼吸は一定のまま。

 熱気に汗すら滲ませず、ただ淡々と、歩みを進めていた。


 やがて、視界が開ける。


 少年は、円形のコロッセオの中へと踏み込んだ。


 ぐるりと取り囲む観客席は、灰色の石壁に縁取られ、何層にも重なってそびえ立っている。

 そのすべてが、ひとつの中心――この“闘技場”を見下ろしていた。


 砂の地面。乾いた血。砕けた骨。潰れた肉片。

 命の名残がすでにそこかしこに染みつき、地面そのものが“死”を吸い込んでいた。


 観客席が、咆哮する。


「来たぞ! 来たぞッ!!」

「92番だッ!」

「無敗のバケモノだァァッ!!」


 数千を超える観客が、一斉に喚き、叫び、跳ね上がる。

 男たちは高価なワインの瓶を叩き割り、女たちは仮面の下で舌を這わせながら、すでに誰かの死を祝福していた。


 香水と汗が混ざった生暖かい空気。

 太った貴族たちは、金糸で縫われた服を着ていながら、口角に涎を浮かべていた。

 身綺麗な顔の奥で、目だけがぎらつき、濁っていた。

 男たちは椅子に腰かけたまま、品定めするように少年を眺め、女たちは絹の扇を打ちながら濡れた唇を噛む。


 金。欲。狂気。退屈。渇望。


 すべてが、少年の一歩に反応して吠えた。

 彼は何もしていない。まだ何も始まっていない。

 だがその“存在”が、群衆を燃え上がらせていた。


「首を飛ばせェェッ!!」

「腸を引きずり出せ! 喉からケツまで裂け!」

「こっちまで血を飛ばしてくれえええ! 九十二番、殺せえええ!」


 金を振り回す男が、涎を飛ばして喚く。

 その足元には、皿に投げ捨てられた半分食べかけの肉が落ちていた。

 仮面をつけた女が、香水の匂いを纏わせながら目を細める。

「前の試合はつまらなかったの。あんなの、ただ血を流して倒れただけ。けれど、92番なら……ふふふ」


 椅子に座ったまま、身を乗り出して手を振る子どももいた。

 その手には賭け札が握られている。母親らしき女が横で微笑みながら囁いた。

「よく見て。これが“娯楽”よ。命はね、高く賭けるほど面白くなるの」


 他の者は、すでに興奮しすぎて、口元を押さえながら何かを堪えている。

 表面上は整った衣服、上等な毛皮、手入れされた髪や香り。

 だがその一枚下には、野獣のような本能と興奮が隠しきれず滲み出していた。


 誰もが、“殺し”を求めている。

 目の前で命が砕ける瞬間を。

 血が噴き出す様を。

 悲鳴と絶命の境を、ただ娯楽として欲していた。


 だが、その中心に立つ少年だけが――沈黙のままだった。


 歓声も罵声も、まるで届いていないかのように、彼の目は変わらない。

 見ているのは“観客”ではない。

 この空間のどこでもない。

 ただ、“次に起こる死”の方角を見つめている。


 その瞳は冷たく、しかし光を宿していた。


 硝子のように冷たいその光は、熱を持たない。

 けれど、見返す者の内側を刺し、裂き、凍えさせるような透明さだった。


 少年は、ただ定められた位置へと歩き、立ち止まる。


 その背筋は伸びている。

 肩の上に、大剣の重みが乗っている。

 呼吸は乱れていない。

 周囲の熱狂とは正反対の、“静謐”が、彼の全身を包んでいた。


 コロッセオは狂っている。

 観客も、制度も、仕組みも、何もかもが腐り果て、獣の王国と化していた。

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