19.名前を呼ばれた日
顔を洗い、日課のように畑へ向かう。
まだ朝の空気はひんやりとしていて、肌を撫でる風には、夜の余韻がわずかに残っている。
足元の土は朝露を吸い込み、歩くたびに柔らかな感触が靴越しに伝わってきた。
畑に立ち、屈んで葉の一枚一枚を確かめる。
水やりの具合はどうか、虫の痕跡はないか、陽の当たり具合は。
いつしか手は自然と動くようになっていた。最初は何もわからず、言われるままにやっていただけだったのに――。
ふと、顔を上げる。
空は澄み切って高く、流れる雲が、どこか心の輪郭と重なって見えた。
その視界の端、道端で遊ぶ子供たちの姿が目に入った。
手を振っている。こちらに向かって、何度も。
ルクは一瞬、どう返すべきか迷った。
けれど次の瞬間、ゆっくりと手を上げ、小さく振り返す。
――こんな日常が、自分に訪れるとは思っていなかった。
命を奪うだけの場で、言葉を交わすこともなかった過去。
その頃の自分にとって、誰かに手を振るなどという行為は、まるで“異世界”のようなものだった。
けれど今はそれが日常だった。
――思えば、村の人々に受け入れられたのは、暮らし始めて二年目の半ばだっただろうか。
最初の頃は、皆、無関心だった。
それは冷たいというよりも――ただ、深く踏み込もうとしない、静かな距離だった。
ルク自身も、それを望んでいた。
誰かと関わりたいと思ったこともなければ、踏み込まれたいとも思わなかった。
目が合えば、村人たちは静かに会釈をしてくれた。だが、そこから先へ進もうとはしない。
無愛想で、無表情で、必要以上に言葉を発さない青年。そんなルクに、誰もわざわざ声をかけようとは思わなかったのだ。
今になって思えば――それでも、まだ“優しい”反応だったのだろう。
もし、セリアがいなければ。
この村に一人きりで現れていたなら、誰もがきっと、もっと明確に警戒したに違いない。
だが、セリアはこの地で、確かな信頼を得ていた。
“あのセリアさんが連れてきた子”――その一言で、彼に向けられる視線の温度は、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。
そうして、誰にも干渉されないまま、淡々と日々は過ぎていった。
そんな毎日も、ある日を境に――少しずつ、変わっていった。
それは、あまりにも唐突だった。
朝食を終え、ルクが席を立とうとした、その瞬間だった。
「街のみんなと交流してみましょう!」
弾んだ声が響いた。
セリアの瞳は期待にきらめき、両手には朝の食器を持ったまま。
まるで何かの大発見でもしたような顔で、彼女は堂々と言い放っていた。
ルクは、一瞬だけ硬直した。
予兆も、伏線も、説明もない。あまりにも突然すぎて、思考が追いつかなかった。
「……なぜ」
ようやく絞り出したその言葉も、彼女の勢いには到底届かない。
「そろそろ、いい頃合いかと!」
自信満々にうなずくセリアに、ルクは深く息を吐くしかなかった。
ちなみに――セリアは、今でもこの場所を「辺境都市ラスカリエ」と呼んでいる。
どこからどう見ても、“村”だった。
小さな畑と石造りの家々、獣道のような道と、手掘りの井戸。
帝都の片隅でさえ、これよりずっと“都市”だったと断言できる。
以前、それを素直に口にしたことがある。
「ここは村じゃないか?」と。
すると、彼女はまるで世界の終わりでも聞いたかのように顔を曇らせ、ぷくりと頬をふくらませてこう言ったのだ。
「都市です!」
語気は強く、だが涙が混じりそうなほど本気だった。
それ以来、ルクは“村”という単語を、極力使わないようにしている。
セリアの機嫌がどうこうではなく、彼女の中にある何か“譲れないもの”に、触れてはいけない気がしたからだった。
「……興味ない」
食器を片付けながら、ルクは短くそう答えた。
面倒だ、という感情があったわけではない。ただ単に、“必要性を感じなかった”のだ。
しかし、向かいに立つセリアは、ふるふると首を振った。
「ダメです! 私としか話してなかったら、社交性が身につかないでしょう! ほら、立って立って!」
空になった皿を抱えたまま、彼女は器用に身を乗り出してくる。
明るく、そして微妙に容赦がない。
ルクが椅子に座り直そうとすれば、その背を押すように手を伸ばしてくる。
「……別に困ってない」
「困ってからじゃ遅いんです!」
「困るようなこと、ない」
「あるんです!」
押しの強さは、相も変わらずだった。
あまりに一方的なやり取りに、ルクはわずかに眉をひそめた。
彼にとって“交流”という言葉は、どこか遠くの世界の話のようで、まるで霧の中にある。
けれど、目の前の彼女は、その霧の向こうから確かに手を伸ばしてきていた。
否応なしに、強引に――けれど、決して傷つけることはしない優しさで。
結局、ルクは押し問答を終わらせるように、そっと立ち上がった。
従った、というよりは――ただ、抗う意味を見失ったような、そんな感覚だった。
――それから数日、ルクは村人たちの仕事を手伝うようになった。
朝は鶏小屋の掃除から始まり、畑の畝を鍬で整え、時には重たい荷車を押すこともあった。
家屋のひさしを直したり、井戸の石蓋を持ち上げたりと、力仕事は特に重宝された。
作業を通じて汗を流すことは、かつての彼にとって“意味”を持たなかった。だが今は、ほんの少しだけ、心が落ち着く感覚を覚える。
最初はただ、セリアに言われたから動いていただけだった。
けれど、仕事の流れを覚え、動きが自然になるにつれ――体の方が先に動くようになっていた。
村人たちは、当初こそ遠巻きだった。
無口で、笑わず、どこか人間味の希薄な青年。
そんな彼が、ある日突然、黙って畑に鍬を入れていたのだから、無理もない。
声をかける者もなく、ただちらりと様子を見るだけ。
その沈黙を、ルクは気にすることもなかった。
けれど、ある日。
収穫したジャガイモの入った籠を運んでいたとき、背後から声が飛んできた。
「おお、兄ちゃん助かるなあ!」
振り返ると、赤ら顔の農夫が、破顔して手を振っていた。
ルクは少しだけきょとんとし、それから黙って小さく頷いた。
別の日、太い柱材を肩に担いでいたときも。
「そんなに力あるのか! すごいなあ!」
目を丸くした若者が、ぽんとルクの背を叩いた。
驚いたルクが一瞬だけ動きを止めると、その若者は「あっ、ごめんごめん」と笑って走り去っていった。
ルクは何も言わなかった。
けれど――その背中を、ほんの少しだけ、振り返って見つめていた。
そんなやりとりが、少しずつ積み重なっていった。
あいさつの声が増え、干した野菜の余りを手渡されることもあった。
角を曲がれば「おつかれさん」と声が飛んでくる。
焼きたてのパンや、甘い干し果物。手製の布巾や、たまには土産話までも。
――気づけば、彼はそこに“在る”ことを、誰もが自然に受け入れていた。
ある日、道端で石を蹴って遊んでいた小さな男の子が、ふとルクの姿を見つけて、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「おにーちゃん、なまえなんていうの?」
一瞬の静寂が落ちた。
少年の問いはあまりにも無垢で、まるで心の奥に直接触れたようだった。
振り返る間もないほどの唐突な問いだった。
少年の瞳はまっすぐで、疑いも打算もない。ただ純粋な“知りたい”という気持ちだけがそこにあった。
ルクは、ほんの一瞬――呼吸を忘れたように、動きを止めた。
名前、というものに、彼は深く意識を向けたことがなかった。
自分が“誰か”であることを誰かに告げる必要など、これまでの人生にはなかったのだ。
“九十二番”。それがかつて彼を呼ぶ唯一の符号であり、存在のすべてだった。
ルクは、少年の問いにどう答えるべきか迷った。
このルクと言う名は、自分のものなのか――それとも、セリアが与えた“借り物”なのか。
その迷いの隙間に、明るく透き通った声が割り込んできた。
「ルク、です!」
声の主はセリアだった。
家の前からこちらを見ていたらしく、笑顔を浮かべながら手をひらひら振っている。
「この子、ルクっていうんですよ〜」
男の子は満足げに大きく頷いた。
「ルクおにーちゃん!」
そう言って、何度も名前を口にしながら駆けていった。
小さな足がぱたぱたと砂埃を巻き上げ、やがて角を曲がって消える。
ルクは、ぽかんとその背中を見つめていた。
――名前を、呼ばれた。
それだけのことが、こんなにも体の奥に響いてくるとは、思っていなかった。
胸の奥が、じんわりと温かくなる感覚。
何かが静かに、確かに、ほぐれていくような不思議な感覚。
たった二文字。けれど、それはまぎれもなく、自分を示す“音”だった。
自分という存在が、誰かの言葉に宿り、誰かの記憶に残る。
名前を呼ばれる――それは、自分が「ここにいていい」と認められたような感覚だった。
こんなにも嬉しく、こんなにも温かいものだったとは、思ってもいなかった。
そして、ふと気づく。
村の風景が、変わっていた。
石垣の苔、洗濯物の揺れる音、土の匂い。
あらゆるものが、以前よりも柔らかく、自分に馴染んでいる気がした。
いつの間にか、風景の一部のように――この村の中に、“ルク”という居場所が根を下ろしていた。
そのことに、彼自身がいちばん、驚いていた。
最後の編集中に投稿してしまって焦りました……
そしてどんどん粒度が粗くなってる気がして書き直したら1話で終わる予定が3話目に突入…




