18.静かな四年間
セリアと暮らすようになって、四年が経った。
ルクは十八歳になっていた。
……もっとも、本当の誕生日はわからない。
だから彼は、セリアと出会った日を“誕生日”としている。
誕生日というものに意味を感じていなかった。
だが――セリアが、どうしても譲らなかった。
「誕生日っていうのは、“今日まで生きてきた”って祝う日なんです。理由なんて、それで十分ですよ」
そんな言葉を、ふわりとした笑顔と一緒に聞かされたのを、ルクは覚えている。
だから彼は、あの日を誕生日と呼ぶようになった。
時が経つのは、思った以上に早かった。
ルクが初めて剣を握ったのは、幼い頃だった。
違法な地下コロッセオ。鉄の匂い、叫び声、焼けた肉の臭い。
本格的に“試合”に出されたのは十歳の頃だった。
そこから十四歳で召喚されるまで、彼は毎日を“死合”の中で過ごしてきた。
殺すか、殺されるか。その連続。
眠りの中でも油断できず、食事には毒がないか疑い、背中を壁につけてしか眠れなかった。
そして今――その“死の四年間”と、等しいだけの時を、この穏やかな地で生きてきた。
武器ではなく、鍬を握って。
誰かの命を奪うのではなく、日々の暮らしを積み重ねながら。
かつてと同じ“時間”でありながら、その意味はまるで違っていた。
生き延びるための時間ではない。“生きるための時間”だった。
ふと、セリアと暮らすことになった“あの日”を思い返す。
あれは突然のことだった。
まるで決定事項のように、一方的に宣言されて――正直、困惑したのを覚えている。
「……なんて?」
「だから、ルクはこれから私と一緒に暮らすんですよ?」
にこっと、自然体のままセリアが言った。
あまりにも穏やかで、まるで“散歩に行きましょう”くらいの軽さだった。
何の躊躇もないその声に、ルクは一瞬だけ、言葉を失った。
思考が空白に沈み――けれど、それもほんの数秒。すぐにいつもの無表情に戻る。
「……なぜ」
「え?」
「食事は受け取った。それ以上の約束はない」
「うーん……たしかに。でも、じゃあこれからどうするんです?」
「国外に出る」
「ふふ、それって意味あります? ここ、もうほぼ国外みたいな場所ですし」
少し冗談めかして、セリアが笑う。
冗談とも本気ともつかない――けれど、不思議と心を逆撫でしない、不快にならない笑いだった。
むしろ、それはどこか、ほんの少しだけ“安堵”に近いものをもたらしていた。
「それに……ルクって、全然常識が足りてないじゃないですか」
「常識?」
「はい。魔物の肉を焼いたり、自分の名前がないとか……もう、びっくりしましたよ」
肩をすくめながら笑うその姿は、どこか呆れた姉のようでもあり――けれど、それ以上に“気にかける者”のあたたかさが滲んでいた。
だがそのとき、ふとした瞬間に、彼女の目がわずかに揺れたように見えた。
笑顔のままだった。けれど、その奥に一瞬だけ影が走ったような――気のせいかもしれないが、妙に記憶に残った。
「だから、教えてあげます。ちゃんと暮らし方とか、言葉とか、人との付き合い方とか……ああ、あと食べ物の味の違いとか!」
「……」
「私は、料理はできますし、魔法もちょっと使えますし、えっと……たぶん優しいです〜」
ふわりとした笑顔とともに言われたその言葉に、敵意も義務も感じなかった。
けれどその目の奥には――なぜか言葉では言い表せない、掴みきれない何かが揺れていた。
彼女自身にも、その正体はきっと分かっていないのだろう。けれど確かに、そこにあった。
「……別に。俺は……何も決めてない」
ルクは視線をそらしながら、ぽつりと呟いた。
「それなら、ここで一緒に暮らすのも“あり”ですよ。毎日美味しいご飯つきです」
そう言って、セリアはいたずらっぽく微笑んだ。
――そのときの自分が、なぜ頷いたのかは、今でもわからない。
ただ、あのとき確かに、
心の奥底に、言葉にならない“何か”が――ほんのかすかに、揺れた気がしたのだ。
そして、ルクはセリアと暮らすことになった。
それは、まるで違う世界に足を踏み入れるような日々だった。
何も起きないことが、逆に不安だった。
“ただの暮らし”がこんなにも静かで、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。
思い返せば、奇妙なことばかりだった。
決して戦場ではないのに、常に気を張っていた。
目を閉じると、遠くで誰かの足音がするような気がした。
そして、そんな暮らしが始まって間もないころ――
思い出すのは、またひとつの出来事だ。
セリアとの日々は――ルクにとって、落ち着かないものだった。
戦うわけでも、走るわけでもない。
誰かに追われることも、見張られることもなかった。
日が昇り、鳥が鳴き、風が抜ける。そのすべてが穏やかで、静かで――だが、息苦しかった。
寝床では、背後を壁につけないと眠れなかった。身体が勝手にそう動いた。
“暮らす”ということが、これほどまでに難しいとは思わなかった。
そんなある日、まだ暮らし始めて間もない頃。
突然、セリアが朗らかに言い放った。
「ルクに、常識を教えましょう!」
どこか楽しそうに、まるで“今日の天気がいいですね”くらいの調子で。
それから始まったのは、セリア式の“家庭教育”だった。
挨拶、食事のマナー、洗濯、言葉遣い、人との距離感――
果ては手紙の書き方や、鍋の焦げの落とし方まで。
けれど彼女は、怒らない。叱らない。
間違えても、できなくても、責めるような言葉は一度もなかった。
「違います〜、でも惜しいです」
「今のちょっと惜しいかもですね」
「また明日やりましょうね」
笑って、繰り返して、それでも飽きずに根気よく続けた。
ルクは最初、言われるままに動いていた。
心を込めることも、意味を考えることもなかった。
ただ、“そうしろと言われたから”、そうしていただけだった。
だけど――ある日。
ほんの何気ない瞬間に、口をついて出た言葉があった。
「ありがとう」
それを言った直後――わずかに、場の空気が変わった気がした。
それは感情がこもっていないように無機質に発せられた。
けれどそれは、ルク自身が自分の意思で発せられた、初めての言葉だった。
その瞬間、セリアは目を丸くした。
一瞬きょとんとして――すぐに、ふわりと笑った。
やわらかく、ほどけるように、嬉しさを噛みしめるように。
けれどその笑顔の奥に、ほんのわずかに――光がにじんで見えた。
……あのとき、自分は何も感じなかった。
ただなんとなく言ってみた。それだけだった。
それでも、なぜか胸の奥が、ほんのわずかにざわついた。
そしてまた別の記憶を思い出す。
人としての心に、まだ何ひとつ手が届いていなかった頃のことを。
セリアと暮らし始めて、初めて迎えた夏の終わり――
朝晩の風が少し涼しくなり始め、陽の角度がわずかに低くなった頃。
ルクにとって、“季節の移ろい”というものは、かつて存在しなかった概念だった。
薄暗い檻に春も夏もなかった。ただ、生きるか死ぬか。それだけ。
その日――庭先から、慌ただしい声が響いた。
「わ、ちょっと……畑が……!」
セリアの声だった。
慌てた様子が珍しく、ルクはすぐに立ち上がった。
裏手の畑へと駆ける。土の匂いと、ざわめく葉の音が入り混じっていた。
そこには、数頭の鹿がいた。
まだ若い個体だったが、数が多い。
彼らはのびやかに跳ね、野菜の上を無邪気に踏み荒らしていた。
葉は千切れ、茎は折れ、手入れを重ねた畝はぐちゃぐちゃに踏み潰されている。
セリアは呆然としていた。
声も出ず、ただ、目の前の光景に立ち尽くしていた。
その傍らで――ルクは静かに、無言のまま動いた。
音を立てず、草を分け、獣のように足音を消して近づく。
まるで空気に溶けるように、その場の“気配”すら薄めながら。
一頭の鹿が顔を上げ、ルクに気づいた。その瞬間には、もう遅い。
彼はまるで呼吸するかのように、何のためらいもなく、その鹿の首を掴み――ねじ切った。
骨の折れる、乾いた音が、静寂の中に落ちる。
倒れた鹿の体が、土の上に崩れ落ちた。
血がにじみ、作物の葉に赤い雫が伝う。
他の鹿たちは驚いて飛び跳ね、森へと逃げた。
ルクはそれを追わず、返り血を払いながら一歩、畑を離れた。
セリアは――言葉を失っていた。
怖かったのではない。怒ったのでもない。
ただ――胸の奥に、ひどく冷たい感情が広がっていった。
命を奪うことに、彼は何のためらいもなかった。
感情もなければ、迷いもない。まるで、“石をどけた”くらいの感覚で。
自分の畑が守られたはずなのに、なぜだろう。
ありがとうと言えなかった。ただ、ひたすらに――寂しかった。
「ルク……」
その名を呼ぶと、少年はゆっくりと顔を向けた。
その瞳には、何もなかった。
怒りも、喜びも、疑問すらない。ただ“当然のことをした”という、透明な目。
その無垢さが、余計に心に響いた。
「殺さなくても、よかったんですよ」
セリアは、静かに言った。
怒るでもなく、責めるでもなく。
ただ教えるように、寄り添うように。
「驚かせて追い返すとか……叩いて追い払うとか。ほら、こうやって、手を叩いたりして」
ぱん、と彼女が手を鳴らす。
その音に、森の奥で逃げた鹿の影が、かすかに揺れた。
「……命って、奪うと戻ってこないんです」
それは、静かな祈りのような言葉だった。
ルクはしばらく黙っていた。
指先を見て、血の匂いを感じながら。
そして、ぽつりと呟く。
「逃す理由がない」
それは、反論でも言い訳でもない。
ただ、“染みついた生き方”だった。
セリアは目を細め、少しだけまぶしそうに笑った。
「ここでは、殺さなくても大丈夫ですよ」
その言葉に、ルクは何も返さなかった。
けれど――その日から、彼の中に“曖昧なざわめき”のようなものが根を張り始めた。
「逃す理由がない」と思ったことに、初めて“それでいいのか”と疑う感情が、かすかに芽生えたのだ。
本当は朝投稿したかったのに気に入らなくて何度も書き直してしまいました。
おかげで1話が2話に増えました。




