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17.香りから始まる暮らし

 セリアに連れられ、森を抜けたその瞬間――視界が開けた。


「ようこそ! 辺境都市ラスカリエへ!」


 セリアが両手を広げ、晴れやかに宣言する。

 ルクはそのまま、前方に目をやった。


 広がっていたのは、低い木造の建物が数十軒、ゆるやかな斜面に点在していた。

 石畳と呼ぶには心許ない小道、道端で干された洗濯物、広場では子どもたちが追いかけっこをしている。

 柵も門もなく、防備らしいものといえば、倒れかけた見張り台が一本。


 帝都を出て旅をする中でルクは、これが“都市”というものではないと知っていた。


「……村では?」


「ようこそ、辺境都市ラスカリエへっ!」


 もう一度、満面の笑みで被せてくる。


「いや村……」


「辺境都市ラスカリエ!」


 セリアは譲らない。どうやら“都市”だと押し通したいらしい。


 ルクは無言で視線を戻す。

 通りをゆっくり歩く老人。藁葺き屋根。日干し煉瓦の壁。

 やっぱり村だ。これを都市と呼ぶなら、帝都はなんと言えばいいのだろう。


「……まあ、静かでよさそう」


 ぼそりと呟いたその一言が、ほんの少し、セリアを嬉しそうにさせた。


 村――いや、“都市”の中を、二人は進んでいった。


 道はあちこちで歪み、石畳と土の境界が曖昧だった。草が割り込む隙を得た小道を、素足の子どもが走り抜けていく。どこかから香ばしい匂いが漂い、屋根の上では猫が昼寝をしていた。


「つきましたよ〜」


 セリアの声に顔を上げる。目の前には、こぢんまりとした家が建っていた。


 土壁に、丸太を組んだ枠組み。扉には傷が走り、軒先には干された薬草と木の実が吊るされている。


 なんというか、普通だな。

 そう思っただけで、口にはしなかった。


「はい! 入った入った!」


 セリアに背中を押されるようにして、ルクは戸口を跨いだ。


 家の中は、外観よりも広く感じた。家具は少なく、造りも素朴だったが、隅々まで清潔に整えられていた。薄く干し草の匂いがし、窓から差す光が床に模様を描いている。


「まずは手を洗いましょう、こっちです!」


 セリアに案内されて奥へ進むと、小さな桶が置かれた流し台にたどり着いた。だが桶は空っぽだった。


 ルクが首を傾げかけたそのとき、


「……えいっ!」


 掛け声とともに、セリアが片手を軽く振り桶の上にかざすと、彼女の指先から澄んだ水がすうっと流れ落ちていった。


 わずか数秒で、桶は水で満たされた。


 水面が揺れ、やがて静まる。光を反射してきらめくその表面に、ルクは微かに目を細めた。


「はい、どうぞ!」


 ルクは、水を張った桶を見つめながら呟いた。


「……魔法?」


「はいっ!」


 セリアはぱっと笑って、両手を腰に当てた。


「みなさん、けっこう使えますよ〜」


 ルクは顔を上げた。彼女の言葉に、少しだけ眉が動く。


「ただの生活魔法なので、戦いには使えませんよ! せいぜい……水を出したり、小さな火でお芋を炙ったりとか、そのくらいです!」


「……」


 魔法。

 帝都で身をもって味わったのは破壊の権化で

 命を断ち切るために使われる“術”だった。


 けれどいま、目の前の女は、それを“芋を炙るもの”だと言った。


 ルクは、返す言葉を持たなかった。

 魔法。

 それは“殺す力”だったはずだ。

 なのに今――“暮らす力”だと、目の前の女は言った。

 彼の中で、魔法という概念が

 静かに、ほんの少しだけ、形を変えた。


「では、くつろいで待っててください!

 すぐに作りますからね〜!」


 セリアは袖をまくりながら、軽やかに奥の調理場へと消えていった。どこか浮かれているようにも見える。


 ルクは言われるがまま、部屋の中央に置かれたソファへと腰を下ろした。


 ――柔らかい。


 沈み込みそうな感触に、一瞬だけ身が強ばる。

 何気ない家具のはずなのに、身体が構えを解くことを拒んだ。


 思えば、“他人の生活している場所”に足を踏み入れたのは、これが初めてだった。


 静かだった。


 外の喧噪も、地下のざわめきもない。

 聞こえるのは、窓を揺らす風と、遠くで煮炊きする音だけ。


 壁には小さな装飾品が並び、棚には本が数冊、きちんと収められている。生活の匂いがした。血の匂いでも、鉄の匂いでもなく――干し草と木の樹脂と、何か温かいものの香り。


 ルクは、ソファの縁に手を添えたまま、膝の上に視線を落とした。


 落ち着かない。


「あああーー!」


 突然、奥から響いた叫び声に、ルクの肩がぴくりと跳ねた。


 一瞬の間を置いて、彼は立ち上がる。

 思えば、“慌てる”という行動をしたのは、いつ以来だろうか。

 鼓動が速くなる感覚に、どこかで自分でも驚いていた。


 叫び声の元――調理場を覗くと、セリアが頭を抱えていた。


「どうしたんだ?」


「キノコ!」


 振り返ったセリアが、深刻そうな顔で叫ぶ。


「森にキノコ取りに行ったのに、途中で逃げてたじゃないですか? あのとき落としてました! すっかり忘れてたよ〜!」


 言い終わると、彼女は床にへたり込むようにして項垂れた。


 ルクは、しばし黙って立ち尽くした。


 ……なんだと思った。


「まっ、いっか!」


 ケロッと顔を上げたセリアが、すぐに笑みを浮かべる。


「別のものを作りましょう。はい! 邪魔なので戻ってくださいね〜」


「……」


 セリアが叫んだから来たのに、この扱いは何なのだろう。

 ルクは小さく息を吐いて、踵を返す。


 それでも――どこか、嫌な気はしなかった。


 程なくして、セリアが腕いっぱいに料理を抱えて戻ってきた。


「はい! 一緒に食べましょう! 召し上がれ!」


 木のトレイに乗っていたのは、白い湯気を立てる陶器の皿と、香ばしく焼き上げられたパンだった。


「名付けて――香鶏のクリーム煮込み、です! ちょっと頑張りましたよ〜」


 ルクは椅子に座ったまま、皿を覗き込む。


 柔らかく煮込まれた鶏肉が、淡いクリーム色のソースに沈んでいる。

 その表面には、細かく刻まれた香草と、薄く揚げられた野菜チップが美しく飾られていた。

 ソースにはかすかにバターの香りが立ちのぼり、見ているだけで温かくなるような香りが漂う。


 添えられた黒麦のパンには、胡桃が練り込まれており、表面がパリッと香ばしく焼き上がっていた。割ると、中から湯気とほのかな甘みがふわりと広がる。


「味つけは控えめだけど、コクはちゃんとあるはずです!

 コツは少しだけ火力を上げて、一気に煮込むこと。こう、魔法でブワーッと!」


 セリアは手を広げて、火が燃え上がる仕草をしてみせいたずらっぽく笑った。


 ルクは黙って、スプーンを手に取った。


 ひと匙。

 香りを確かめ、ソースの粘度を測るように静かにすくい、口に運ぶ。


 ――止まった。


 舌の上で広がるまろやかな旨味。

 柔らかく煮込まれた鶏肉がほぐれ、芋の甘みと香草の香りが追いかけてくる。

 驚くほど優しく、深い。だが重くはない。喉を通りすぎるまで、ずっと“美味しい”が続いていた。


 ルクは、手を止めたまま動かない。


(……なんだ、これ)


 屋台の串焼き。

 帝都で食べた、焦げた肉と油と塩。

 あれが究極の美味だと思っていた。


 だが、これは――


 思考より先に、次のひと口をすくっていた。


 こんなものを食べてしまっては、魔物の肉など、もう二度と口にできないだろう。

 そう思わせるだけの力が、そこにはあった。


 パンをちぎり、ソースに浸す。もう一口。止まらない。

 次第にスプーンの動きは早くなり、まるで誰かに奪われる前に食べきろうとするかのように、がつがつと口へ運び続けた。


 セリアはその様子を、向かいの席からにこにこと眺めていた。


「ふふっ……」


 何がそんなに嬉しいのか、くすくすと笑いながら。


 器は空になり、パンの欠片すら残っていなかった。

 ルクはゆっくりと息をつき、背もたれに身を預けた。


「……ありがとう。めちゃくちゃ、美味かった。それじゃ――これで」


 そう言って立ち上がり、荷物の所在を探すように部屋を見渡す。


 セリアはきょとんとした顔で彼を見上げた。


「……どこへ行くんですか?」


 その問いに、ルクは一瞬だけ言葉を失った。


「どこって……とりあえず国外へ」


 それは、彼の目的だった。

 生き延びるため。逃げ切るため。

 ただそれだけの、唯一無二の道筋だった。


「……? ……ダメですよ?」


 セリアは首を傾げ、まるで“雨の日に外で遊ぼうとする子どもを咎める”ような口調で言った。


 ルクは、彼女の言葉の意味が分からず、眉を寄せた。


 たしかに魔物の肉の代わりに食事を作ってくれるという約束は果たしたはずだ。


 ならば、もうここにいる理由は――


「ルクは、これから私と暮らすんですよ?」


 セリアは笑顔で言った。

 真剣に。無邪気に。そして、どこか“確信に満ちすぎている”ようにも見えた。


 ルクの思考が、瞬時に崩壊した。

 意味が分からない。理屈が通らない。そんな話はしていない。

 けれどセリアは、当然のこととして、それを口にした。


 ルクは、生まれて初めて――

 明確な敵を前にした時ですら見せなかったほどの、

 人生最大の戸惑いを、顔に浮かべた。

シリアス展開はしばし待たれよ

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