16.ルキアリス
彼女は焚き火の熱を手のひらで確かめるように受け止めながら、ちらりと少年に視線を移す。その横顔に、じっと興味を注ぐ。
そしてゆっくりと串を口に運んだ。
内心では、少年の反応を見るに、味はお世辞にも良くないのだろうと思っていた。
味への不安はある。けれど同時に、それを上回る興味もあった。
どれほどのものか――少年があれほど言うのなら、逆に楽しみになってくる。
まるで未知の薬草を試す薬師のように、慎重に、けれど好奇心を抑えきれない様子で。
頬をほころばせていた笑みは、ほんのりとした期待と覚悟を映していた。
……次の瞬間、目が見開かれる。
「…………ッ!?」
一拍、息が止まった。顔が引きつる。眉がピクリと跳ね上がる。
想像の三段上を行く、不味さだった。
どれくらい不味いのかなとちょっぴりワクワクしていた自分が馬鹿だった。これはもう、食べ物の域ではない。
く、繊維は筋のように口内に残り、噛むたびに内臓にまとわりつくようなえぐみと、鼻の奥にこびりつく獣臭が広がった。
舌が逃げ、喉が拒み、胃が悲鳴を上げる――そんな感覚。
思わず吐き出しかけたが、少年の前でそれはどうしてもできなかった。
彼女は、かろうじて、口元の笑みを保ちながら、無理やり飲み込んだ。
「……っっ、ごくっ……」
喉を通る感覚に、小さく肩が震える。
「……あ、これは……すごい……えっと……」
言葉を選ぼうとして、どれも当てはまらず、結局そうなる。
ひと呼吸おいて、肩をすくめるようにして微笑む。
「な、なんというか……これが野生の味ってやつですね」
できるだけ明るく振る舞おうとする、その声音は少しだけ上ずっていた。
少年は、そんな彼女をちらりと見たが、何も言わない。ただ淡々と、冷えた自分の肉をもう一口かじるだけだった。
彼女は口の中に残る後味をどうにかごまかすように、ぎこちなく唇を拭った。
フォローしたつもりだったが、舌に残る苦味と臭みはどうにも無視できなかった。
彼女はわずかに目を伏せ、小さくため息をつく。
「……想像以上ですね、これは」
そう言って笑ったその声には、確かに本物の驚きが混じっていた。
「ところで……これは、なんのお肉ですか?」
彼女が串をそっと持ち上げながら尋ねる。問いかけ自体は穏やかだったが、口元にはほんのりと笑みが浮かんでいた。
楽しんでいる――というより、不思議なものを見つけた子どものような好奇心と、少しだけ嫌な予感が入り混じった、複雑な表情だった。
少年は焚き火を見つめたまま、何気なく答える。
「……そこらへんにいた、なんとかウルフ」
「なんとか……ウルフ?」
繰り返した瞬間、彼女の表情が強ばった。
「――まさか、ダスクウルフのことじゃないでしょうね?」
少年は無言のまま、もうひと口肉を噛みちぎった。
彼女は串を持った手をぴたりと止め、遠い目をした。
「……魔物じゃないですか、それ……!」
あっけらかんとした告発だったが、声には明らかなショックがこもっていた。思わず肩を震わせ、口元をぬぐう。
「いやいやいや、魔物はダメですよ!? 誰も食べません、普通は!」
少年は眉ひとつ動かさず、「ふーん」とだけ返す。
彼女は言葉を継ぐ。
「魔物って、そもそも食用に向いてないんです。不味いとかそういうレベルじゃなくて……なんて言うか、えぐみと瘴気が混ざって、身体が拒否する感じというか……」
そこで一瞬、口を閉ざす。思い返したようにもう一度噛み締めたのだろうか、わずかに表情が引きつった。
「というか、ダメって話してをしてるのに食べ続けないでください……」
それでも怒ったり呆れたりはしない。彼女の声音には、どこか楽しげな色すら滲んでいた。
そして何より――本気で止めているのに、どこか品のある口ぶりなのだった。
「もう私が、今から美味しい料理を作るので――食べるのをやめてください!」
唐突に放たれた言葉に、少年の手が止まる。
口の中にはまだ、脂の焦げた苦みと生臭さが残っていた。
お腹が空いていた。ただそれだけの理由で、不味いとわかっていても口に運んでいた。
だが――美味しいものが出てくるというなら、話は別だ。
少年はゆっくりと視線を彼女へ向ける。
「……でも、どうやって? 食材、持ってなさそうだけど」
「ふふ、心配いりません。家が、ちょっと歩いたところにあるんです」
涼しげに微笑みながら、彼女は立ち上がる。森の風に銀髪が揺れた。
「森の中に住んでるのか。変わった人だな」
「いえ、普通に街に住んでますけど? というか……なんで、もうすぐ街なのに、こんな場所で野営してるんですか?」
「…………」
少年は、ゆっくりと瞬きをした。
自分では、まだ森の奥深くにいると思っていた。
出口など、まだまだ先の話だと。
だが目の前の女は、さらりと「街が近い」と言ってのけた。
少年は、心の中で静かに地図をなぞる。
まっすぐ進んでいたつもりだったのに――それが、すでにおかしかった。
けれど自分では、その“狂い”にまったく気づけていなかった。
「……嘘だろ」
「よしっ」と、小さな掛け声と共に、彼女がすっと立ち上がる。
焚き火の揺らめきが銀の髪を照らし、微かな火花が足元で跳ねた。
「そういえば……あなたの名前は?」
振り返りざま、軽やかに問われる。
少年は少し考え、ぽつりと答えた。
「……九十二番」
「九十二番……?」
彼女が小首を傾げる。笑顔のままだったが、眉がぴくりと動いた。
「それって、名前じゃなくて……番号ですよね?」
少年は不思議そうに答えた。
「ずっとそう呼ばれてた」
少年はふと、帝都で呼ばれていたもう一つの呼び名を思い出した。
「あとは坊主」
「それも名前じゃないです!」
ぴしゃりと鋭い声が返る。
少年はまばたきもせず、ただ彼女をじっと見つめた。
「……本気で言ってるんですか?」
「本気」
「名前……ないんですか?」
少年は少しだけ考えたようだったが、結局、同じ言葉を繰り返した。
「だから、九十二番と、坊主」
「それは名前じゃないです!」
彼女は口をとがらせ、半ば呆れ、半ば怒ったように言い放った。
だがその声音には、どこかあたたかいものが混じっていた。
「どうしましょう。じゃあ――私が、名前をつけてあげますね」
唐突に、けれど迷いなく、彼女はそう言った。
その言葉に、少年の肩がかすかに揺れる。
一瞬、空気が止まったような静けさが落ちた。
セリアは、少年の瞳をまっすぐに見つめる。
軽々しく決めてはいけない気がして、ふっと表情を引き締めた。
だがそのまま、ゆっくりと微笑む。
指を唇に添え、ほんの少しだけ思案して――
「決めました! 私、セリアリスって言うんですよ。古代語で“海”という意味なんです」
自分の名を口にするとき、彼女の声には確かな誇りが滲んでいた。だがそれは傲慢さではなく、どこまでも澄んだ、根の深い自信のようだった。
「だから、あなたは――ルキアリスにしましょう」
ゆっくりと、選ぶように。
ひとつの意味を託すように。
彼女の声は、森の静けさの中に凛と響いた。
「それは、空という意味です。古代語で」
彼女はすごくいいことを思いついたというように、いたずらっ子のように微笑んだ。
少年は、言葉を失ったまま彼女を見つめていた。
少年の中で、なにかが静かに芽を出した。温かいものが、胸の奥にゆっくりと沁み込んでいく。
名前。音に輪郭があり、意味が宿る。誰かの言葉で、自分が形を得たような、不思議なくすぐったさ。
その名は、彼の内に初めて“意味”という温度を灯した。獣だった彼が、名前という輪郭で世界とつながった――その最初の瞬間だった。
「でも、ちょっと長いですよね。だから普段は――ルクって呼びます!」
彼女――セリアは、嬉しそうに笑った。まるでとても気に入った名札を手渡すかのような、軽やかで確かな声だった。
「私はセリアでいいですよ。……その方が、なんだか嬉しいです」
その明るさには、どこか母のような包容力と、友人のような距離感の近さが同居していた。
戸惑いながらも、少年――ルクは、ちらりと彼女を見た。けれどすぐに視線を外し、無言のまま少しだけ頷いた。
セリアはそれだけで満足したらしく、ぱっと立ち上がると、軽やかに手を伸ばす。
「ほら! 行きますよ、ルク! ちゃんとついてきてくださいね!」
その声は、森に反響するほど明るかった。
促されるまま、ルクもゆっくりと腰を上げる。
足取りはまだ少しぎこちない。だがその背には、焚き火の光とは別の、ほんのわずかな温もりが灯っていた。
やっと辿り着いたよ……
ようやく主人公の名前が出るという賭けをしてみました。5万字超えてしまうとは……




