15.焚き火に照らされた銀
半年後――少年は、森の中で野営をしていた。
ようやく、帝都を抜け出したのだ。
夜の空気は冷たく、虫の声がやけに遠い。肌に馴染んだ石畳はもうなく、ここには灯火も喧騒もない。
帝都での暮らしは、思ったより悪くなかった。
そこまで追手に怯える必要もなく、腹を満たし、夜を越すことができた。
けれど――それでも、どこかで潮時だと思った。
ずっと潜伏していても、いつかは綻びが生まれる。
半年も経てば、きっともう警戒も緩んでいるはずだ。
そう判断して、少年は街を出た。
……ただ、出口を見つけてすぐ、少し唐突に出てきてしまった気もする。
本当は、あの仕事を振ってくれた男に一言くらい、礼を言うべきだった。
いつもの広場の屋台にでも立ち寄って――
けれどそれもせず、出口を見つけた途端――衝動のまま、帝都を背にしていた。
夕暮れの空はすでに薄闇に染まり、木々の隙間から差し込む光も、もはやかすかだった。風は冷たく、葉擦れの音だけが森に満ちている。帝都の喧騒とはまるで違う、静かな時間だった。
焚き火の炎を、ただじっと見つめていた。
焦げゆく肉を炙る手が、どこか機械的に動いていた。
この一週間、休む間も惜しんで移動し続けた。たまに通りがかりの馬車に乗せてもらうこともあったが、大半は自力で歩いた。それでもまだ、帝国の外には出られていない。
「……どんだけ広いんだよ、この国は」
ぼそりと呟いて、焼きあがった肉をひとくち齧る。
固く、臭みがある。味も薄く、どこか生ぐささが残る。けして美味いとは言えなかったが、腹は膨れる。
“なんとかウルフ”――この森で仕留めた魔物だった。
焼けた毛皮の焦げる匂いの中で、少年はふと、コロッセオのことを思い出す。
――なんとなく、似てる。
あのスープの、妙にえぐみの強い味。
食べ慣れていたそれと、微かに重なるものがあった。
……多分、似たようなものが入ってたんだろう。
特に感慨もなく、串を回す手が、ただ機械のように動いた。
その動きは、まるで誰の手でもいいかのように、無感情だった。
ただ、ひとつだけはっきりしていた。
――不味い。
昔は感じなかった。そもそも、比較するものがなかった。
けれど今は違う。屋台の串焼きも、甘い果実も、温かいパンも知ってしまった。
味を知った舌は、もう元には戻らなかった。
「……誰かが作ってくれた飯って、あんなに美味かったんだな……」
ぼそりとつぶやき、自分で炙った肉を噛みながら、
少年はそう思いながら残りの肉をもうひと口、渋々かじる。
焚き火は静かにぱちぱちと音を立て、空には夜の色がじわじわと濃くなっていく。
――そのとき、森の奥から、甲高い声が響いた。
「きゃああああああッ!」
女の、悲鳴。
反射的に、耳が反応する。けれど、身体は動かない。
少年は焚き火の前でじっと座ったまま、串を口元に運んでいた。
「……焦げてきた」
ぼそりと呟いて、炙りすぎた肉をかじる。口の中に苦みが広がった。ただでさえ不味いのに、より不味くなってしまった。
悲鳴はすぐにかき消え、また静寂が戻る。まるで何もなかったかのように、森が風の音を返してくる。
焚き火の薪がぱちりと弾け、焦げた獣脂の臭いが鼻をかすめる。
……と、その静けさの底で、何かがざわめき始めた。
遠くで木の葉が揺れる音。折れる枝。重たい足音。
誰かが、何人かが、森を踏みしめて近づいてくる。
「おい……どこまで逃げる気だよ〜」
「へへっ、もうそろそろ疲れたんじゃねぇの?」
軽薄な声が、薄闇に溶けて聞こえた。
複数の気配が確かに近づいてくる。
そのとき、茂みをかき分けて、一人の影が飛び出した。
女だった。息を切らし、泥に足を取られながら、切羽詰まったように駆けてくる。
髪は乱れ、手は小枝に傷ついていた。
その目が、焚き火の傍に座る少年を見つける。
ほんの一瞬、表情が変わった――が、少年は肉を咀嚼していた。
視線を感じても、手は止めない。
女が助けを求めようとしたその瞬間、背後から現れた二人の男が肩をつかんだ。
「へいへい、そっちに逃げても無駄だって」
「おっと、急に止まんなって」
女は捕らえられ、地面に押し倒される。荒く息を吐きながらも、もがくその姿は、確かに“必死に見えた”。
少年の方へ、女が顔を向ける。何かを訴えようとしていた。
それでも、少年はまだ肉を噛みしめていた。
女は少年を何か言いたげに見つめていた。必死に、まっすぐに。
だが、少年は応えなかった。焚き火を前に、串を持ったまま、じっと座っていた。
目を逸らしたわけでも、無視したわけでもない。
ただ、どうしたものかと――ぼんやり考えていた。
(……え、なに?)
脳裏をよぎるのは、あの鉄の檻の光景。
そこで響く悲鳴は、音ですらなかった。ただの“空気の一部”だった。
痛みや絶望、怒号や叫び。
そういうものは、聞いて反応するものではなく、ただ“流れているもの”だった。
「助けて」という言葉が、まさか自分に向けられたとは――思いもしなかった。
これまで誰かに“頼られた”こともなど、一度もなかったから。
(……もしかして助けを求めてる?)
視線が交錯する。
その瞬間、女の唇がわずかに動いた。
「――助けて!」
ああ、と少年はようやく理解した。
なるほど。そういう場面だったのか。
少年は重い腰を上げ、串を地面に突き立てる。
ぐるりと肩を回し、立ち上がる動作の中で腰の袋に手を伸ばした。
それを見た男のひとりが、ふてぶてしく笑いながら言った。
「なんだよ、お前。さっきまで見て見ぬ振りしてたくせによぉ」
少年は何も返さない。ただ、口元だけがわずかに動いた。
笑ったようにも、吐き捨てたようにも見えた。
指先が袋の中から、数本の牙をつまみ上げる。
淡く光る――“なんとかウルフ”の牙。
使えそうだと何本か集めていたのだ。
それを、何の溜めもなく、ひと振りの仕草で投げた。
一閃。
風すら切らずに、牙が弧を描く。
一人目――喉仏を貫かれ、声にならない音とともに倒れる。
二人目には左目。黒目の中心に突き刺さった牙が、脳髄を揺らす。
三人目は鎖骨の隙間。斜めに深く入り込み、心臓を断ち切った。
そして最後の一人。逃げ腰のまま、情けなく口を開いた。
「おい……落ち着け、な? こっちは――」
額の生え際に、牙が吸い込まれるように突き刺さる。
男は、そのまま後ろに倒れ、二度と動かなかった。
すべては、一息のあいだに終わっていた。
牙はまるで矢だった。ただしその軌道には殺意ではなく、冷徹な効率だけがあった。
力任せではない。迷いも怒りもなかった。
それは、ただの“処理”だった。
森が、再び静けさを取り戻す。
少年は無言のまま腰を下ろし、焚き火の前に戻った。
串の肉はすっかり冷え、皮が固くなっていた。ひとくち噛みしめて、小さく眉をしかめる。
「……やっぱ、不味いな」
呟いたその声に、立ち尽くしていた女の肩がわずかに動いた。現実が、彼女を引き戻す。
一拍の間を置いて、息を吐く。肩の力を抜き、身なりを整える仕草をしてから、ひとつ深く息を吸った。
彼女は再び微笑むと、焚き火のそばに腰を下ろした。
「……ええと、助けてくれて、ありがとう。本当に助かりました」
声は澄んでいて、怯えた様子もなかった。
焚き火の明かりに浮かぶ笑顔は柔らかく――ただほんの一瞬、感情の温度が感じ取れない気がした。
「それ、食べていいですか? 不味いのは、覚悟しますけど」
冗談めかした声色。だがその座り方も、仕草も、妙に洗練されていた。
村娘風の格好に似合わぬ所作。肩にかかった髪が整っているのも、不自然なほど。
少年は答えず、ただ串を一本、彼女の方に向けて差し出した。
「焼けすぎてるけど、それでもいいなら」
「ありがとう。お礼に、今度、美味しいもの作りますね。食べたことない味、きっと気に入ってもらえると思います」
少年は答えなかった。けれど彼女の言葉に、わずかに眉が動いた。
ほんのわずかに、興味が芽生え今さらになって、ようやく彼女の顔をまともに見た。
髪が、銀色だった。
白ではない。灰でもない。淡く光を帯びた、透き通るような銀。肩に流れ、火の揺らめきに照らされるたび、柔らかくきらめく。
顔立ちは端正で、形の整った眉と、どこか穏やかな目元が印象的だった。笑みを浮かべる口元には、飾らない温かさがある。けれどそれ以上に――すべてが“演じられた美しさ”のようだった。
身に纏っているのは、村娘風の地味な服だった。襟も袖も擦れていて、色もくすんでいたはずなのに、不思議と“質素”に見えなかった。座る仕草も、指先の動きも、村娘にしては、仕草が静かすぎた。
一つ一つの動作に、どこか“見られること”を前提としたような節度があった。
その違和感を言葉にするのは難しかった。ただ、彼女は――この森にいて当然の人物ではない。そんな印象だけが、じんわりと残った。
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