14. 氷の檻が溶けるとき
鉄格子の門を抜けた先は、まだ完全な「外」ではなかった。
それは、城の背後にひっそりと続く外縁の小道――かつて物資の出入りに使われていたであろう、今は使われなくなった裏手の道だった。
雑草の茂る石畳を、少年はひとり踏みしめていく。
小道はやがて傾斜を帯び、崖沿いに緩やかに上っていた。
右手には断崖の縁、左手には高くそびえる外壁の裏面。人の気配はない。
そして、角をひとつ曲がったそのときだった。
視界が、ひらけた。
城の背後――丘の肩のように突き出した岩場。その先に、ぽっかりと“夜”が広がっていた。
思わず、足が止まる。
夜だった。
だが、その夜の下には、息を呑むような光景が広がっていた。
眼下に広がる帝都の光景。
無数の灯火が夜の帳を裂くように連なり、幾重にも折り重なる建物の輪郭を淡く照らしていた。
魔導灯の光は川のように街路を流れ、交差点では星のように瞬いている。
空から見下ろしているのに、まるで都市全体が鼓動しているかのようだった。
塔がある。尖塔だ。天を貫くように高く、頂には淡く輝く灯が点っていた。
下層の屋根の海は波のようにうねり、区画ごとに街の性格が変わっていくのがわかる。
水脈のような運河には反射した灯火が揺れ、空気に乗ってどこからか楽団の音が漂ってくる。
どこまでも続く、壮大な都。
それが、帝都だった。
少年は、ただ言葉もなく立ち尽くす。
世界は、こんなにも広く、まばゆかったのか。
この世に、こんなにも大きく、華やかで、そして美しい場所が存在していたのかと――
知らなかった。知ることもなかった。
かすかに喉が鳴った。
自分でも気づかぬうちに、息を呑んでいた。
かつて閉じ込められていた檻の中では、このような世界の存在すら想像できなかった。
剣と血だけがすべてだった少年の瞳に――“世界”が映っていた。
(……こんな場所が、本当にあったんだ)
心が、震えた。
恐れと、畏れと、そして――得体の知れない興奮が、少年の胸を打つ。
ここは、全てが未知で、自分にはあまりにも広すぎる。
だが、それでも足を止めるつもりはなかった。
少年は、一度だけ夜風に目を細めると、背を向けた。
この眩い都を通り過ぎて、できるだけ遠くへ。誰の目にも触れぬ場所へ。
それが、生き延びるということだった。
傷ついた体を引きずりながら、少年は静かに闇へと歩みを進めた。
夜の中に溶けていくその背には――もう、檻の影はなかった。
* * *
それから半月――少年は、まだ帝都の中にいた。
迷っていた。
本当は素早く、遠くへ逃げるつもりだった。
誰も自分を知らぬ場所まで、できるだけ速く――それが最善だった。頭では、そう理解していた。
だが現実は、思うより遥かにややこしいものだった。
帝都の道は複雑に入り組み、まるで意図的に外へ出さないかのようだった。
大通りから外れればすぐに同じような石畳と建物が並び、小路のひとつひとつが似た顔をしていた。
気づけば元の場所に戻っていたり、なぜか昨日と同じ猫が同じ屋根の上であくびをしていたり――
自分の記憶がおかしいのか、それともこの街が魔術で作られているのか。
疑うべきは自分なのに、なぜか街に文句を言いたくなる。
そうして、気づけば半月が過ぎていた。
最初の数日は、出口を探し、道を選び、地図代わりの記憶を信じて歩き続けた。
そして、ある夜。
かつて歩いたはずの小路でまたも迷い、空を見上げたその瞬間――少年は、決めた。
(……しばらくここで潜伏した方が安全だ。うん。そうだ。)
逃亡者がまさか帝都のど真ん中に残っているなど、誰が想像するだろうか。
追手はきっと、城から離れた場所を睨んでるに違いない。
その点、ここは盲点だ。完全な灯台下暗し。戦略的後退。
実は城の正面の巨大な通りからまっすぐ行けばよかった。城の左右、後ろにも大通りがあり真っ直ぐ歩けば西門でも東門でも辿り着けた。
でも、その“まっすぐ”が、できなかったのだ。
そう、気づいたときには曲がってしまっている。そっちの方が近道に見えてしまう。
直進とは、勇気のいる選択だった。
潜伏しよう。
潜伏は、理にかなっている。なにせまだ捕まっていない。これまで誰にも見つかっていないのだから、むしろこれが正解だったのかもしれない。
相手は少年の姿形を知らないし今、遠くへ移動しようとする方が怪しい。
……半月経っても出口は見当たらない。
少年は帝都の中で、ひっそりと生き延びていた。
身を潜める場所は日によって変えた。路地裏の空き家、屋根裏、あるいは屋根の上――人の目につきにくく、逃げやすい場所を本能的に選んだ。夜は冷え込んだが、コロッセオの牢屋よりはまだマシだった。
水と食料の確保が最も厄介だったが、幸運にも川に辿り着いてからは多少マシになった。帝都の北端を流れるその川は、町を巡って運河へと繋がっており、人目を避ければ接近もできた。水は冷たく、肌に触れるたびに身が縮こまったが――それにも、慣れていた。コロッセオの生活では、冷たい水しかもらえなかったのだから。
今まで飲んだ水で1番美味しいかもしれない。そもそも水に“美味い”という感情が湧く日が来るとは、思いもしなかった
体の匂いが気になっていたので洗い流せる水があるのも助かった。それだけで、贅沢だった。
食料は……工夫した。落ちていた果実、時には虫や雑草も食べた。少年にとって最も衝撃だったのは、川で捕った魚だった。
最初は戸惑った。跳ねるそれをどうすればいいのか、しばらく見つめていた。
――これが、噂に聞く“魚”か。
生のまま、骨ごと齧る。
――生臭い。だが、うまい。
少年は、そう感じていた。
舌が狂っているのか、それとも本当に美味いのか。判断がつかない。
「……うまい」
口をついて出たその言葉は、無意識の本音だった。
コロッセオの食事にも、確かに“味”はあった。
だがそれは、「不味さ」に極振りされた一種の狂気だった。異様なほどエグみがあり、鉄の匂いがして、腹に詰めるだけの何か。あれに慣れた少年の舌にとって、“食べられる”というだけで魚は感動的だった。
「……こんなもの、食えるのか。いや……うますぎるだろ」
笑ってしまいそうなほど、美味かった
それが、少年の人生で初めての“美味”だった。
少年は密かにその味を覚えていった。半月という時間の中で、彼の中には少しずつ“世界”が増えていった。
感情など持たぬと思っていた。だがそれは、封じ込めていただけだった――凍った心の下に、確かにあった。
自由を手に入れた少年の心の氷は、ゆっくりと解けていった。
未知の食べ物。冷たいけれど澄んだ水。静かな夜。眩しい昼。風の匂い。
――生きている。
そんな感覚が、ほんの少しずつ、日々を通して芽生えていた。
そうして、気づけば一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月と――時間が流れていた。
少年は、まだ帝都の中にいた。
目立たぬよう潜みながらも、帝都での暮らしは、いつしか形を成していた。
兵士の姿を見かけることも、何度かあった。だが意外なことに、堂々としていれば彼らは少年を素通りした。目を合わされることもなく、言葉をかけられることもなかった。追手は遠くを探している――そう思えた。
それはきっと、情報を残さないよう徹底してきた結果だった。
帝都に数多いる孤児や貧民と、自分とを区別する術など、相手にはなかったのだ。
それをいいことに、少年は、徐々に警戒を緩めていった。
最初は、人との関わりを恐れていた。
だがある日、荷車の修理に手こずっている男を助けたことがきっかけで、次第に声をかけられるようになった。
手伝いを頼まれ、報酬を渡され、少年はそれで初めて「金を得る」という行為を知った。
金――それは、これまで醜いものの象徴だった。
殺し合いの賭けに使われ、命を軽く扱う道具。
けれど実際に手にしてみると、ただの冷たい金属だった。
そしてそれを使って、屋台の串焼きを買ってみた。
肉だった。熱々の、香ばしい肉。
焦げ目に塩が効いていて、噛むたびに旨味があふれた。
一口で、少年は固まった。
もう一口で、目を見開いた。
「……うま……」
それは、魚以上の衝撃だった。
“味”というものが、ここまで人を打つものだとは知らなかった。
それ以来、稼いだ金はすべて食費に消えていった。
屋台を巡り、果物を買い、パンにかぶりつく。
日々の労働はすべて、その“生きる”という喜びのためだった。
野宿のままで構わなかったが、いつもの男に呆れたように言われた。
「そろそろ宿に泊まれ。お前、今けっこう稼いでんだぞ?」
言われてみれば、確かにそうだった。
そして試しに、と入った宿で、少年はベッドに体を沈める。
柔らかすぎて、逆に不安になる。
だが、時間が経つにつれ、それは心地よさへと変わっていった。
温もりがある。
鉄の床ではなく、血の匂いでもなく。
これは、眠るための場所だ。
そう思えたとき、少年は初めて“獣”ではなく、“人間”として生きている感覚を手に入れた。
これまで勢いのまま書いているので矛盾やおかしな表現だらけだと思いますけどそのうち見直します。多分。
今回雰囲気だいぶ変わった気がするんですけどいかがでしょうか?前の雰囲気を継続した方が良いとかありましたら教えてください……




