13.静かな夜
――出口を、見つけなければ。
少年は、ただ静かに、歩いていた。
冷え切った回廊に足音を残さぬよう、爪先で床を撫でるように進む。
真紅の絨毯。白金の柱。壁には金の装飾が施され、魔導灯の光が静かに揺れている。
天井は高く、床は磨き抜かれており、すべてが整然と美しい。
だが――美しさは、冷たかった。
この場所は、少年にとってあまりに異質で、どこまでも無関係な世界だった。
壮麗さが、むしろ異様に思える。
ここは、帝国の“城”。
あの神殿――神々しさすらあったその空間が、いまはただの“城の一室”だったという現実。
その落差が、じわじわと胸を締め付けていく。
(……こんな、広い場所の、どこに“出口”があるんだ)
廊下は延々と続いていた。
左右に分かれ、曲がり角があり、見上げるほどの階段や、幾重にも重なる扉――
どこも似たような風景が連なり、どれが外へ繋がっているのか、まるでわからない。
頭が、じんじんと重い。
右肩にはまだ鈍い痛みが残っている。息をするたび、胸が少しだけ苦しかった。
けれど、血はすでに止まっている。骨も折れてはいない。今は、それどころではなかった。
「見つかったら終わりだ」
思わず、小さく呟く。
帝国の城の中で、召喚直後に魔導師を殺した“何者か”――それが自分だと知れれば、負傷している自分など逃げ場などない。
少年は、柱の陰に身を隠す。
足音が近づいてきていた。
規則正しく、重く、揃った金属音――鎧を着た兵士の巡回だ。
じっと息を止める。
魔導灯の光がわずかに揺れ、床に兵士の影が伸びる。近い。あと数歩。
……やがて、影は遠ざかり、音も消えた。
少年はそっと姿勢を戻し、再び歩き出す。
目的はただひとつ。
この整いすぎた、閉じすぎた空間のどこかにある――“出口”を、探し出すこと。
ふと、右手の壁に並ぶ扉のひとつが、わずかに開いていた。
閉じ忘れか、あるいは中に誰かがいるのか――
一瞬ためらったが、少年は音を立てずに近づき、扉の隙間から中を覗いた。
内部に人影はない。
けれど、空気が生々しかった。
人の気配があったような、しかし今は明確に「無人」の空白。
魔導灯の光が照らす白い壁と、棚に並ぶ薬瓶。床には赤褐色の染みがわずかに残っていた。
それは、医務室だった。
少年は、ほんの一瞬だけ迷った。
だが、すぐに中へと身を滑り込ませる。
鍵のかかっていない扉を静かに閉め、棚の前へと進む。
包帯、消毒液、簡易縫合針。手に取る動きに、まったくの躊躇はない。
どれが必要で、どう使えばいいのか――身体が覚えていた。
少年は、焦げついた上着を脱ぎ、右肩を露出させた。
皮膚は焼け、ただれている。
表面は黒く硬化し、その下の肉が赤く腫れていた。ところどころ、血と体液が滲んでいる。
一滴、血が床に落ちる
(……まだ、動く)
痛みは鋭かったが、感覚は残っている。筋肉の断裂もない。だが、処置を怠れば悪化は確実だった。
少年は棚から布と薬瓶を手に取ると、無駄なく動き始めた。
焼けた皮膚の表面を水でぬぐい、消毒薬をかける。
ジュッという音がしたが、少年は眉ひとつ動かさなかった。
手慣れた手つきだった。
(……最初は、こんな風にできなかった)
少年はふと、昔のことを思い出す。
剣闘士として闘い始めた頃。
傷ついても、誰も手当てしてはくれなかった。
ただ、勝ち残れば――鉄格子越しに、薬と布が放り込まれるだけ。
「勝てば、生き残る。治すのは、自分でやれ」
そう言われて育った。
だから覚えた。負けないために。死なないために。
生きるために、覚えざるを得なかった。
少年は無言のまま、包帯を巻く。
右肩の動きは多少制限されるが、それでも戦えないほどではない。
最後に深く息を吐き、服を着直す。
少年は静かに息を吐いた。
右肩の痛みは残っている。だが、もう動ける。
生き残るには、それで充分だった。
彼は立ち上がり、部屋を出ようとした――そのときだった。
外から、複数の足音が近づいてくる。
少年は即座に反応した。
棚と壁のわずかな隙間へ、音もなく身を滑り込ませる。
光の死角。通気口の風がわずかに流れる場所。
呼吸を抑え、存在を溶かす。
扉が乱暴に開かれた。
「こっちだ! まだ息がある! 急げ!」
担架が押し込まれ、兵士たちが一人の男を処置台へと運び込む。
その顔を見て、少年はわずかに目を細めた。
――あの時の兵士だ。
エルヴィナたちが去った直後、神殿の梁から飛び降り、葬った四人のうちのひとり。
崩れた瓦礫の陰に、確かに沈黙していたはずの男。
(……仕損じたか)
声は出さない。
ただ、心の中で静かに判断を下す。
意識を取り戻せば、あの男は何かを話すかもしれない。
名前も、姿も、声も知られていない今の自分にとって
たったひと言であっても漏れれば、それだけで命取りだった。
「ありがとうございました、すぐ処置に入ります。扉の外でお待ちを」
しばらくして、医務服をまとった男が入室してきた。
白髪交じりの中年――診療官だろう。
兵士たちに感謝を述べ、扉を閉めると、すぐに手を洗い始めた。
「……状態は……脈はあるが意識なし。外傷は……」
医師が独り言のように容体をつぶやきながら、処置にかかろうとする。
だがその直前、背後から忍び寄った気配が、無言のまま口元を塞いだ。
刃が、喉元を裂いた。
目を見開いた医師が、何かを言おうとする前に――
血が溢れ、声は空気の中に沈んだ。
診療官の身体が、音もなく床へ崩れ落ちる。
少年はすぐさまその影から姿を現し、処置台の男の首元へメスを持った手を伸ばす。
意識は戻っていない。だが、呼吸はあった。
無言で、刃を滑らせる。
深く。確実に。
再び、血の匂いが部屋を満たす。
ふたりの死体を見下ろし、少年は表情を変えなかった。
ただ一つの判断――
“生き延びるためには、生かしてはおけなかった”。
廊下に出た少年は、再び歩き出した。
右肩に巻いた包帯が、わずかに軋む。
だが、その痛みに気を取られることはなかった。いまは、遅れが命取りになる。
――出口を、見つけるまでは。
しばらく歩くと絨毯もなく、装飾も乏しい。人の目に触れぬ、裏方の通路と思われる場所へ出た。
薄暗い石造りの廊下。天井の高さが変わり、魔導灯も減っている。絨毯もなく、壁の装飾もない。誰かに見せるための場所ではない――人の通らぬ裏道。
目に映るのは、使用人用の階段や、給仕口。
直後。
軽い足音と、柔らかな衣擦れの気配が、向こう側から響いてきた。
(誰か来る――!)
少年は即座に動く。
とっさに身を滑り込ませたのは、回廊の一角にあったリネン室だ。木箱と棚が乱雑に積まれており、人目を避けるには最適だった。
肩を壁に預け、息を殺す。
足音は、すぐそこまで来ていた。
高く結い上げられた黒髪。整った制服姿――メイドだ。
手には布包みを抱え、どうやら別の部屋へ届ける途中らしい。
この非常事態になぜ一人で歩いているのだろうか。
まっすぐ前を見て、こちらには気づいていない。
やがて足音が遠ざかっていく。
だが、少年はすぐには動かなかった。
その時だった。
少年の目が細められる。
ほのかに風を感じた。
流れてくるのは冷たい外気の名残。空気の味が、ほんの僅かだが“外”のものに変わっていた。
――近い。
息をひとつ、吐く。
よく見たらリネン室の奥に開けっぱなしの扉があり通路が見えた。
足音を殺しながら、その通路を進み曲がり角をひとつ、ふたつと抜ける。
やがて、石階段が下へと続いていた。まるで地下倉庫のような通路。その先には、古びた木製の扉。
少年が手を伸ばしかけたそのとき――
背後のどこかで、「ギィ……ッ」と、金属が軋むような音がした。
少年の心臓が、一瞬、跳ねた。
気配は……ない。だが音だけが、静寂を破っていた。
(……今のは、風か……それとも)
少年は、一度その場に膝をつき、呼吸を整える。
静かに立ち上がり、扉に手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。
静かに扉を押し開ける。
冷気が吹き込む。
その瞬間、少年の瞳に、ようやく“空”が映った。
城の裏手。高い外壁の内側――物資の搬入に使われているのか、小さな荷台がいくつも並ぶ細道。その先に、鉄格子の門。蔦が絡まり、誰も通っていないことを物語っていた。
そこが、“出口”だった。
足を踏み出す。砂利の音が微かに鳴る。
周囲に人影はない。警備の目が薄いのは、表門に注意を集中させているからだろう。
門に近づき、目を凝らす。
鍵は……錆びていた。だが、かかってはいない。
少年は、両手でゆっくりと押す。
ギィ……という軋みと共に、鉄格子の門がわずかに開く。
その隙間から、風が吹き抜けた。
夜の匂いが、肌を撫でる。
少年は、振り返らなかった。
城の中で何が起きたのか、何が待っているのか。そんなことは関係なかった。
ただ、自分は――生き延びた。
その一点だけが、すべてだった。
闇の中へ、少年の影が溶けていく。
帝国の城から、名もなき逃亡者がひとり姿を消した。
これはまだ、誰も知らない。
だが確かに、この時から“物語”は始まった。
――これは、まだ誰も知らぬ物語の、ほんの始まりにすぎない。
少年の名前まで全然辿り着けない
1話しか投稿してないのに8話投稿した昨日のPV数を越えそう。ヒョエエと思ったらレビューが
ありがとうございます




