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12.追う者、命ずる者、潜む者

 エルヴィナは、玉座の前で姿勢を正し、ゆっくりと口を開いた。


「……確かなことは、まだ何もわかっておりません」


 その声には凛とした強さがあった。だが、その奥に、わずかな躊躇いが混じっている。

 慎重に言葉を選んでいるのが、誰の耳にも明らかだった。


「今は、あくまで推測にすぎません。ですが――」


 ひと呼吸置いて、彼女は続ける。


「ヴァルツァー様は本日、魔力の充填が極限に達したとのことで、召喚の儀を行われておりました。従って……」


 その先の言葉が、どうしても口にしづらい。

 しかしエルヴィナは、真正面から皇帝の瞳を見据えた。


「……召喚された“何者か”に、殺されたと見るのが、現時点で最も可能性が高いと判断しております」


 重く、静かな言葉だった。

 だがその裏には、常識が崩れることへの葛藤が滲んでいた。


 大臣たちの顔色が変わる。

 ざわめきが広がろうとした、その瞬間。


 玉座の上の皇帝が、ゆるやかに片手を挙げた。


 空気が凍る。


 それだけの動作で、謁見の間は再び沈黙に包まれた。


 皇帝は、玉座に腰かけたまま、じっと思案に沈む。

 その瞳に浮かぶのは、疑念というにはあまりに冷ややかで、計算に満ちていた。


(召喚された者が、ヴァルツァーを殺す……?)


 そんな話は、聞いたことがない。


 召喚術とは、本来、強大な魔力によって才能ある若者を異界から呼び寄せ、魂を魔導契約で拘束するもの。

 それは絶対的な支配関係であるはずだった。


 ましてや、術者があのヴァルツァーとなれば、尚更だ。

 彼が討たれるなど、想定すらされていなかった。


(有り得ぬ……)


 皇帝の目が、わずかに細められる。


 ならば、別の可能性は?


 護衛にスパイがいたか。

 あるいは、何者かが内部の混乱に乗じて潜入したか。

 だが、仮にそうであったとしても――


(……それでも、ヴァルツァーが殺されるとは考えにくい)


 いかなる奇襲を仕掛けようと、あの老魔導師が簡単に敗れるとは思えない。

 何かが決定的に噛み合っていない。


 だからこそ。


 沈黙は、怒りを抑える時間ではなかった。


 それは“支配者”が真にあり得る答えを導き出そうとする、冷徹な思索だった。


 やがて――

 長い沈黙の果てに、皇帝が口を開く。


「――犯人の姿も、わからないのだな?」


 声量は抑えられていた。

 だが、その一言には確かな重みがあった。

 まるで鋼の扉がゆっくりと開かれるように、広間全体の空気が引き寄せられる。


「はい。現時点で目撃情報はなく、正体も、行方も掴めておりません」


 エルヴィナは言葉を区切り、続けた。


「現在は、ジン・サカキバラ特任戦術魔導顧問が、単独で犯人の行方を追っております」


 その名に、広間が再びざわめきかける。

 だが、皇帝の気配がそれを押し止めた。


 そして――

 皇帝は静かに、一拍置いてから立ち上がる。


 その動作だけで、空気が緊迫を孕んだ。


 声を荒げることはない。

 だが、その声は鋭く、冷たく、明確だった。


「――要人を、すべてここへ集めよ」


 静かに。

 しかし、絶対に抗えぬ命令だった。


「この場にいる者すべてに知らせろ。今より、謁見の間は臨時防衛拠点とする」


「近衛第一騎士団はこの謁見の間を守れ。あらゆる通路を封鎖し、誰一人通すな」


「近衛第二騎士団――犯人の行方を追え。手段は問わぬ。何としても見つけ出し、連れてこい」


 その命は、剣のように鋭く放たれた。


 誰も逆らわなかった。

 それが覇王ドライゼン・ヴァルゼンの“本領”だった。


 謁見の間を後にしたエルヴィナは、早足で回廊を進んでいた。


 その顔に、さきほどまでの緊張とはまた異なる焦りと苛立ちが滲んでいる。


 そして角を曲がったところで、一人の騎士が待ち構えていた。近衛第二騎士団――副団長の姿だった。


「団長!」


 彼は小走りで駆け寄ってくると、即座に並ぶように歩調を合わせた。どうやら、謁見の間から出てくる彼女を待っていたらしい。


 エルヴィナは立ち止まらず、そのまま歩を進めながら問いかけた。


「……何か進展があったの?」


 その声には、期待と同時に、すでに予感しているような色が含まれていた。


 副団長は、その問いにわずかに口ごもった。


「いえ……あったと言えば、あったのですが……」


 歯切れが悪い。


 エルヴィナが無言の圧を乗せて視線を向けると、副団長は観念したように低い声で続けた。


「召喚の間に残していた兵士たちが……全滅しておりました」


 その瞬間だった。


 エルヴィナは立ち止まり、傍らに飾られていた壺に振り向いたかと思うと――そのまま、拳を振り抜いた。


 鈍い音を立てて、壺は砕け散る。破片が床に飛び散り、周囲にいた下級騎士たちが驚いて振り返った。


「……っ!」


 副団長は思わず身をすくめる。


 これまで冷静さを保っていた彼女が、ついに怒りを爆発させた。戦場でも滅多に声を荒らげぬ女騎士の、滾るような怒気。それは他者ではなく、自らの失策に向けられた、静かな激しさだった。


 エルヴィナは、砕けた壺の破片を見下ろしながら、深く息を吐いた。


 召喚の間の出入り口には、最初から最後まで衛兵が立っていた。エルヴィナ自身の指示で、扉の前には交代なしの警備がつけられていた。外部との接触は断たれ、誰一人、出入りを許されていなかったはずだ。


 その衛兵たちは現在も無事で、異常の報告も上がっていない。


 つまり――


(犯人は、外に出ていない)


 エルヴィナの中で、冷たい確信が形を成し始める。


 召喚の間の上部には窓があった。だが、それは人がすり抜けられるような大きさではない。瓦礫の隙間に通路らしきものも見当たらず、転移魔法を使った形跡も確認されていない。


 逃げ道は、存在しない。


 とすれば――


(犯人は、あの空間に“残っていた”)


 彼女は、ぞわりと肌に粟が立つ感覚を覚えた。ジンと会話していたあのとき、犯人はすぐそばに潜んでいたのだ。視界のどこかに、あるいは死体の陰に。瓦礫の影に。気配を完全に殺しながら、私たちの言葉を聞いていたに違いない。


 ――気づけなかった。


 それだけが、重く心にのしかかる。


 あの場にいたのに。警戒していたはずなのに。彼女の目も耳も、それを捉えられなかった。


 怒りの矛先は、もはや犯人ではなかった。


 それは、自らの判断の甘さに向けられる。油断。焦り。見落とし。戦場であってはならぬ鈍さ。それらすべてが、今の彼女を責め立てていた。


 エルヴィナは、壺の破片を踏まぬように足をずらし、一度だけ深く息を吐いた。怒りの熱を、無理やり胸の奥へと押し込める。今は感情に身を任せるべき時ではない。 


 団長である以上――冷静であらねば。


「……副団長」


 呼びかける声は、先ほどのような怒気を帯びてはいなかった。むしろ静かで、鋭い。


 すぐさま姿勢を正した副団長に、彼女は迷いなく命じた。


「近衛第二騎士団は、これより犯人の捜索に移ります。現在、各自が護衛中の要人は、速やかに謁見の間へと送り届けなさい」


「はっ!」


 副団長は迷いなく頭を下げ、その場を駆け出した。


 命令が走る。統制が走る。

 ただちに騎士団全体が動き出すだろう。


 エルヴィナはひとつ、拳を握りしめた。


 犯人はこの城のどこかにいる。

 必ず、自らの手で見つけ出す――その意思が、瞳に宿っていた。




 * * *




 その同じ刻――


 玉座の間で命令が飛び交い、城中が急速に緊迫を強めていたその裏側で、ひとりの少年が静かに動いていた。


 深紅の絨毯も、金の装飾もない裏通路。煤けた壁と石畳が続く静かな一角に、その姿はあった。


 ――迷っていた。


 少年は、巨大な城の中をさまよっていた。


 とにかく逃げなければならない。その思いだけで動き出したものの、あまりにも広すぎる建物の構造に、目的地などすぐに見失ってしまっていた。


 左右に分かれる廊下。見たことのない階段。天井の高い空間。どこも似たような景色が続き、外へ通じる道がまるで見当たらない。


 (……こんなに広いのか)


 焦りがあった。


 けれど――


 その足取りは、不思議なほど静かだった。


 少年は、ただ迷っているわけではなかった。物音に注意を払い、遠くの足音や鎧のきしみに神経を尖らせ、気配を感じるや否や、物陰や梁の上に瞬時に身を潜めていた。


 その動きは、訓練された兵士ですら感知できないほど鋭く、素早い。


 その身は戦いに馴れながら、同時に――潜むことにもまた、異様な適性を宿していた。


 物陰に滑り込み、壁のくぼみに体を押し込み、誰にも気づかれずに動く。 


 そして、ときに驚くべき握力で柱をよじ登り、常人では到底手の届かない梁の上へと姿を消す。


 その手の力は、人間というよりも、獣に近かった。


 気配を殺し、息を止め、ひたすらに「死なないための動き」を繰り返す。



ノリノリで書いてたのに詰まってきた

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