10.崩壊と沈黙のあいだで
「なんだこの惨状は! エルヴィナ殿!」
神殿に入るなり、男の声が鋭く響いた。
その足取りは重くも迷いがなく、瓦礫の間を踏み越えてエルヴィナの傍らへと進む。
「ジン殿……」
その問いに、エルヴィナは応じた。
普段と変わらぬ、低く凛とした声音。しかし、その芯には確かに微かな動揺と焦燥がにじんでいた。
「わからぬ。我らも今しがた到着したばかりだ……
そして――ヴァルツァー様は……既に、息絶えていた」
短く、確かに。だがその一言は、神殿の空気を張りつめさせた。
「なっ……!」
ジンが低く息を呑む。数歩踏み出し、視線を前方の瓦礫へ向けた。
そこで目に入ったのは、崩れた石の隙間に半ば埋もれた、老魔導師の骸。
かつて堂々たる威容を放っていたその姿は、今はただの肉塊に近かった。
特に――顔。
砕けた鼻梁、陥没した眼窩、潰れた頬骨、そして失われた顎。
顔面という顔面が、容赦なく打ち抜かれ、見る者の理性を拒絶する惨状を晒している。
それは魔法による爆撃でも、毒でも、火でもなかった。
“素手”による――原始的でありながら、明確な殺意に貫かれた一撃。
それだけで殺し切った。
ジンの眉がわずかに動いた。
それが、この帝国最上位の魔導士を仕留めたのだ。
「ヴァルツァー様は……召喚の儀を行っていたはずだ。
どうして……こんなことになる……」
声は絞り出すように低く、苦悩と混乱を隠しきれなかった。
召喚の儀式とは、本来もっと神聖で、もっと秩序立ったものであるはずだった。
それが、まるで戦場の死体のように転がるなど――。
エルヴィナは目を伏せ、唇を引き結ぶと、短く断言した。
「……召喚された者と戦ったとしか思えぬ。
ヴァルツァー様が入られてから誰も入っておらん。それ以外に説明のつかぬ」
「そんな、馬鹿な……!」
ジンの声が震えた。
それは怒りではない。疑念でもない。
理性が追いつかない現実に直面した時の、否定の声だった。
「召喚されるのは未成年、十代の“素体”のはずだろう。
それに――ヴァルツァー様は高位魔導師だ。そんな子供に討たれるなど……常識的に考えて、あり得ん!」
ジンの声には、激しさというよりも、理屈が通じないことへの苛立ちがあった。
だが、それはエルヴィナに向けられたものではない。現実に対する反発だった。
彼女はわずかに目を伏せ、静かに息をついた。
呼吸を整える仕草の奥、伏せたまつげがかすかに揺れていた。それは、彼女の内心の揺らぎを物語っていた。
「……わかっている。私とて、信じがたい。
だが……この有様を前にして、そうとしか判断できぬのも事実だ」
言葉は慎重に選ばれていた。だが、その端々には「否定したい」という本音が滲んでいた。
「魔力の残滓……痕跡の荒れ方……明らかに召喚術の暴走ではない。
この場で何者かと戦闘が起きた。そして、ヴァルツァー様はそれに敗れた。そうとしか見えぬ」
視線を落とし、拳をわずかに握り締めながら、エルヴィナは呟くように続けた。
それは報告ではなく、自分自身に言い聞かせるための言葉でもあった。
その静けさを破ったのは、ジンだった。
「そもそも、ヴァルツァー様の護衛は近衛第二騎士団の任務だったはずだ! 一体何をしていたんだ、団長殿!」
ジンの声が鋭く響き、空気が一瞬、張り詰めた。
兵士たちの気配が揺らぐ。
だが、エルヴィナはそれに怒りを返すことはなかった。
ジンの語気が少し強まったのは、彼女を責めたいからではなく、理解できない現実に対する苛立ちゆえだと、彼女もわかっていた。
ただ、ほんの少しだけ視線を伏せて、静かに答えた。
「……ヴァルツァー様ご自身の命令だった。
兵士数名と部隊長一名で十分だと。
儀の最中に近衛が常駐するのは“過剰”だと……」
言い訳のように聞こえかねない言葉。だが、それは紛れもない事実だった。
それを誰よりも理解しているのは、ジンも同じだった。
エルヴィナの声音には、淡々としながらも、自らを責めるような響きが微かにあった。
決して感情をあらわにすることのない彼女が、わずかにその色をにじませた。
「……まさか、あのヴァルツァー様が討たれるなど……その可能性は、誰一人として考えていなかった」
沈黙。
神殿に立ちこめる血と魔力の残滓が、会話の余白を静かに満たしていく。
ジンは深く息を吐き、目を伏せた。
熱がこもっていた思考が、ゆっくりと冷えていく。
「……すまない。
つい頭に血が昇った。責めるつもりはなかった……」
彼の声は、明らかにさきほどよりも静かだった。
「……召喚の儀のときはいつもそうだったな……。
簡単な形式と見なされて、儀式の護衛は形式的に済ませていた……」
まるで、過去の記憶を辿るように、言葉がぽつりと零れた。
だが、次の瞬間――
ジンの眼差しが、鋭く変わった。
「……はっ」
唐突に顔を上げる。
彼の視線が神殿内部を縦横に走り、瓦礫の影、黒煙の余韻、わずかな空気の動きまでを読み取ろうとする。
「もし――もし召喚された者がヴァルツァー様を殺したのだとすれば……」
低く、だがはっきりとした口調で言葉を継ぐ。
「――そいつはまだ、この城の中にいる可能性が高い……!」
その一言で、場が一気に緊迫する。
兵たちがどよめき、互いに顔を見合わせた。
エルヴィナはすぐに振り返り、鋭く声を張り上げた。
「陛下のもとへ人員を回せ! すぐにだ!
万が一に備える! 近衛第一騎士団に通達! 陛下の警護を直ちに強化せよ!
我々は王族のもとへ向かう。警護を万全に!」
彼女の命令は、一切の迷いを許さなかった。
それがどれほど急な命令であっても、兵士たちは迷わなかった。
この神殿の惨状を前に、誰もが“異常”を理解していた。
兵たちが走り出す。
鎧の鳴る音と足音が神殿に鳴り響く。
だが、ジンだけは一歩も動かなかった。
むしろその場に静かに立ち尽くし、周囲を観察し続けていた。
鋭利な視線が、破壊の痕跡と魔力の残滓を貫いていく。
「……俺は犯人を探す」
短く、それでいて断固たる決意を込めて言う。
「護衛は任せた」
その言葉に、エルヴィナが軽く頷いた。
「了解した。王族の守りは、我ら近衛が引き受ける。
……ジン殿も、気をつけて」
ジンは一度だけ肩越しに彼女を見た。
「言われなくても」
それだけを返すと、彼はマントを翻して神殿を飛び出した。
深紅の布が、焼け焦げた空気を切り裂くように舞い上がる。
その背は、炎のように静かに、しかし確実に――危機の核心へと向かっていた。
重々しい足音と共に、エルヴィナとジンが去ってからしばらくの時が流れた。
高位の者たちが退いた後も、数名の兵がその場に残された。死体の確認、後片付け、そして内部の封鎖――その任務は、何気ないようでいて、帝都における最悪の事件の残響を、これから片付けようという重責を担っていた。
その数、四人。だが、時間が経てばすぐに増援が来るはずだった。
全員が銀灰の鎧に身を包み、腰には剣、手には槍。油断はない。けれど彼らの視線は地に落ちたまま。この惨状に呑まれた者たちに共通する、“思考の停止”があった。
少年の目には明確に「やれる」と見えていた。
神殿の梁の上、闇の中で体を縮めていた彼は、息を静かに整える。
肉が裂け、骨が軋むような全身の痛みが、警鐘のように脳を打つ。
だが、それ以上に、心は静かだった。
殺さなければ、自分が殺される。
それだけが、この場における真理だった。
そして――
飛んだ。
殺意は風よりも早く、静かに。影のように。
一人目。背後に忍び寄り、肘鉄を食らわせる。
骨が砕ける感触。崩れた身体をそのまま踏みつけて、とどめを刺す。
二人目が振り返るより早く、喉を裂く。
血が噴き、かすれた声が空気を震わせた。
叫びには至らない。次の瞬間には、もう別の兵士が膝をついていた。
三人目。その頭部を、振り抜いた踵が蹴り飛ばす。
バランスを崩した兵の脇腹を、落ちていた剣で突く。鎧の隙間を、正確に。
最後の兵士がようやく剣を抜こうとした、その瞬間。
少年はすでに至近にいた。
顎を撃ち上げ、体勢を崩した兵をそのまま地へ叩きつけた。
どん、という鈍い音とともに、兵の意識が遠のいた。
息を吐く。
血と鉄の匂いが鼻腔を突き刺した。
蒸し返す空気の中で、誰も動かない。
全員、死んでいた。
ほんの数十秒の出来事だった。
短い沈黙が場に降りる。
だが――立ち止まっている余裕などない。
少年は、血の飛沫を浴びた頬を拭うこともなく、足音を殺して扉の方へと歩み出る。
重く閉ざされた鉄の扉。その前で、一瞬だけ足を止めた。
息を整え、静かに開け放つ。
目の前に広がるのは――異質なまでに整えられた光景だった。
天井は高く、白い大理石の柱が規則正しく並ぶ。
赤い絨毯が真っ直ぐに伸び、壁には金の縁取りが施された絵画と紋章。
魔導灯が淡い光を灯し、空気は乾き、塵一つ落ちていない。
まるで、舞踏会の前のように――綺麗すぎる。
少年の足が、思わず止まる。
さきほどまでいた神殿の、あの荒れ果てた世界。
黒煙、血の臭い、焼け焦げた死体、崩れた床。
まるで、“別の世界”。
少年の喉が、わずかに鳴る。
こは神殿ではない。
ここは――巨大な城だった。
そして、少年が“神殿”と信じていたあの空間は、この巨大で壮麗な構造物の、広めの一室にすぎなかったのだ。
この先どうしよう




