1.硝子の眼
壁際の高い位置に、小さな明かり取り窓がひとつ。
石を削り出して造られたそれは、拳ひとつ通るかどうかという幅しかなく、外の光はわずかしか差し込んでこない。
差し込む日差しは、色が鈍く、熱を持たなかった。
空気が濁っている。外から光が落ちてきているはずなのに、どこかくすんで見えるのは、分厚い空気の膜がここを覆っているからだ。
その空気の中、壁に格子の影がゆっくりと伸び、歪んで揺れていた。
石壁には水分が滲み、苔がこびりついている。鉄の匂い、血の臭み、湿ったカビの気配。
生き物というより、廃棄された施設の“死臭”に近いものが、いつも鼻を満たしていた。
並ぶのは無数の小部屋。
それぞれが石で囲まれ、前面に鉄格子がはまっている。空気の通り道はなく、奥に進むほど湿り気と閉塞感が増す。
どの部屋も狭く、天井は低い。
床には削れた石の粉、乾ききらない吐瀉物、擦り切れた藁の端がこびりつき、誰がどこで生き、どこで死んだのか――それすら曖昧だった。
その構造も目的も、まるで動物を収容するために作られた檻のようだった。
静けさの中、遠くから重い足音が響く。
鉄を踏み鳴らす、硬質でだらしない響き。
それは決まったリズムを刻まず、足を引きずるような調子で近づいてきた。
やがて、通路の角から姿を現したのは、鎧を着た兵士ふたり。
どちらも中肉中背で、だらしなく腹が突き出ている。
鉄具はあちこち緩んでおり、革紐は垂れ下がり、肩当ては歪んで斜めに傾いていた。かつては丁寧に整えられていたであろう装備も、今ではただの汚れた“重し”と化している。
鎧に付着しているのは乾いた血と脂の跡。近づくにつれ、金属と汗と獣脂が混ざったような臭いが通路に漂った。
だが本人たちはそれに何の反応も示さない。長くこの空気の中にいた者たちの嗅覚は、もう何も拒まなくなっている。
ふたりの足取りは緩慢だったが、迷いはなかった。
この通路を何百回と歩き、何百人と処理してきた身体の動きだった。
疲れと倦怠、そして“慣れ”が体中に染み込んでいた。
「次……今日の三本目は92番か」
片方が、低く呟くように言った。
「マジかよ。あのバケモンか。こりゃ試合前から勝負あったろ」
もう一人が鼻を鳴らし、通路の壁に唾を吐き捨てた。
ぬるく伸びた音とともに、唾は石に吸われ、赤黒いシミのひとつに加わる。
「相手は?」
「どっかの腐れ貴族が飼ってた戦闘奴隷だとよ。ピカピカの新品。すぐ死ぬだろ」
無意味な会話。中身のないやり取り。
それでも彼らにとっては必要な“日常”だった。
目的の鉄格子の前で、ふたりは足を止めた。
だが、いつものような気楽な雰囲気は続かない。
言葉の端が、少しだけ重くなった。喉の奥で何かが詰まったような空気が、そこにあった。
彼らが向き合っている檻――そこにいるのは“あの”92番。
カチリ、と鉄の鍵が回る音が響く。
何重にも掛けられた施錠のひとつが、錆びた音を立てて開いた。
ギイ……と、扉が重たく軋みながら動く。
時間の経過とともに癒着した鉄と石が、わずかに剥がれる音だった。
「おい、起きろや92。てめぇの出番だ」
片方が声をかける。
怒鳴り声に近いが、どこか“触れたくなさ”が滲んでいた。
扉の前に立つふたりは、ほんの少しだけ距離を取っていた。
その立ち位置には、無意識の警戒が滲んでいた。
「今日は三本目だ。相手は新入り。だが油断すんなよ? お前で賭けてる連中、期待してんだからよ」
「勝負にすらなりゃしねぇのに、よう賭けるわな。金ドブに捨てる趣味でもあんのかね」
寝台の上で、少年が静かに身体を起こす。
薄暗い石の小部屋。湿り気を帯びた空気のなか、彼の動きはひどく滑らかで静かだった。
まるで、目を覚ましたのではなく、ずっと眠らずにいたものがただ身を起こしただけのような――そんな気配。
その身体には、14、15歳の少年には不釣り合いな完成度があった。
肩幅は広く、腹筋は岩のように硬く隆起している。腕の筋は綱のように浮き上がり、手の甲は傷とタコに覆われていた。
動きには力みがなかったが、皮膚の下に潜んだ筋肉の密度は、見る者に本能的な緊張を走らせる。
腹には何かを受け止めた痕、肩には噛み跡に似た古傷があり、すべてが「繰り返された戦闘」を物語っていた。
それらは癒えてなお、消えず、刻まれたまま肉体の地図となっている。
皮膚は日に焼けて乾いており、骨格には少年特有の未完成な線が残っている。だがその上に乗る肉体は、職人の手で削り出されたかのように、戦うための機能だけを優先して構築されていた。
だが、何よりも異様だったのはその目だ。
その目には、光がないわけではない。
けれどそれは、炎のような明るさではない。
冷たく、そして澄んでいた――まるで氷の奥に差し込んだ光のようだった。
色も温度も持たず、感情を帯びないその眼差しは、見られる者の内側を静かに凍らせる。
怒りも、悲しみも、欲望も浮かばない。
だが決して“空っぽ”ではなかった。むしろそこには、言葉にならないほどの何かが、透明なまま潜んでいた。
誰かを睨むわけでもない。何かを欲するわけでもない。
ただ、静かに世界を見ている。血や死や喚き声や、命の価値が地に落ちたこの場所のすべてを、その目だけで受け止めている。
「……チッ。やっぱ目が気に食わねぇ」
兵士のひとりが言った声には、苛立ちというより、無意識の怖れが混じっていた。
「こんなガキが、ここの最古参かよ。笑えねぇっての。マジでどっちが上か分かんなくなる」
もう一人も冗談めかして言いながら、視線だけは逸らしていた。
言葉で優位に立とうとしているのに、身体のどこかが本能的に警戒している。
「三試合目までには支度終わらせとけよ、92。グズグズすんじゃねえぞ」
少年は返事をしなかった。
ただ、無言で立ち上がる。
足裏が床を離れる音すらなかった。
彼の動きはあまりにも静かで、まるで音を吸い込むような動きだった。
一度だけ、兵士たちの方を振り返る。
その視線には感情がなかった。怒りも、蔑みも、侮蔑すらない。
ただ――何もなかった。
けれど、その“何もなさ”に触れた瞬間、兵士たちは一瞬、息を止めた。
言葉も動きも止まる。
少年はそのまま、鉄格子をくぐって通路へと足を踏み出す。
その姿はまるで、檻の中から鎖を外された獣が、音もなく歩き出す光景そのものだった。
通路の空気が一段、冷える。
彼が歩き去る背を、兵士たちは目も合わせることができずに見送った。
さっきまで口汚く吐き捨てていたはずの男たちが、その背に追い言葉すら投げられない。
空間そのものが、何かに押し潰されているような重苦しさを孕んでいた。
少年は、自分の檻から出ると、何の迷いもなく歩き出した。
その歩き方は、どこか慎重で静かで滑らかだった。だが、それは臆病さからくる慎重さではない。
音を立てる必要がないから音を立てない――それだけの、極めて機械的で効率的な動き。
肉が揺れず、関節が擦れない。重心はぶれず、背筋は一直線。
過剰な訓練と“必要”によって仕上げられた体が、最短経路を知っているかのように動いていた。
通路を抜け、少年は食堂へ向かう。
この場所において、“準備”とはすなわち“食うこと”だった。
食堂と呼ばれるその部屋は、言葉の響きとは裏腹に、あまりに殺風景だった。
四角く無機質な石の部屋に、粗末な長机と腰掛けが無造作に並べられているだけ。壁には染みついた油と煤の跡。天井には剥き出しの梁が通っていたが、その隙間には蜘蛛の巣と埃が溜まっていた。
部屋の一角には、巨大な鉄鍋が据えられていた。
鍋の底は黒く焦げつき、表面には獣脂とスープが分離して薄く膜を張っている。
煮立つ音はせず、ただ濁った湯気が立ち上っていた。臭いは重く、鼻腔にまとわりつく。獣の骨を煮詰めたような生臭さに、塩と何か焦げたような匂いが混じる。
鍋の横には、ひしゃげたおたまがひとつ。
誰がよそっているわけでもない。食う者が、自分でよそう。
ただそれだけの、意思も管理も介在しない場所。
少年は無言で椀を取り、スープをすくう。
器に注がれた液体は、濁った褐色をしていた。
表面には脂の輪が浮かび、中には繊維のようなものが沈んでいる。
肉と呼ぶにはあまりに頼りない何か――それでも、空腹を満たすには十分だった。
少年は椀を持ち、席につく。
机の上には前の誰かの吐いた跡がかすかに残っており、擦っても取れない黒ずんだ染みが残っていた。
だが彼は、何のためらいも見せずに器を傾ける。
熱い。
濃く、重く、ぬるい。
だが、飲む。
一気に、喉を通す。味を確かめることもなく、抵抗もなく、まるで水でも流し込むような所作。
その動きには一切の感情がなかった。美味でも不味でもない。ただ、それは“食うべきもの”として存在していた。
物心がついた時から、この味しかしらない。
だからこそ、それを「まずい」と感じた記憶すらない。
味覚が麻痺しているわけではなかった。
――ただ、“意味がない”と、身体が知っているだけだった。
かつて、どこかから連れてこられた大人の男がこのスープを「家畜の餌」と呼んだことがあった。
少年はその言葉の意味を理解できなかったが、それが「人の食うものではない」ということは、なんとなくわかった。
その男はやがて、二週間も持たずに死んだ。
文句は誰にも届かない。
反抗も拒絶も、ここでは“行為”ではなく“愚行”になる。
結局、生き延びる者だけが、生き延びるのだ。
スープを飲み終えた器を静かに置くと、少年は再び黙った。
視線はまっすぐだったが、何も映していないようにも見えた。
周囲の席にも、数人の剣闘士たちが座っていた。
どの顔も無言。目は器の中に落ちている。
吐き気を堪えるようにしている者もいたが、それでも誰ひとりとして手を止める者はいなかった。
ここでは、誰もが生き延びることで精一杯だった。
喉を通すか、死ぬか。
それが全員に共通する“命題”だった。
時間が過ぎていく。
部屋の空気は淀み、温度もわからなくなっていく。
スープの重さも、腹に溜まる感覚も、ぼやけて消えていった。
ただ座って、ただ“在る”。
そんな中、不意に通路の奥から声が響いた。
「おい! 92番! 出番だぞ! とっととこい!」
怒鳴り声だったが、少年には必要のない声量だった。
彼の耳には届いている。だが反応に感情はない。
呼ばれたこと、それがもうすぐ出番だと、ただ知っているだけ。
少年はゆっくりと、しかし確実に立ち上がった。
AIに表紙作ってもらいました。
すごいです。タイトルの合成はこっちでやってなんやかんや時間かかりましたが
ビビってます
合成してみたらタイトル見にくかったので時間あるときにやり直します