1_63.溢れる寸前
『猊下、これは深刻な事態です。現在ドムヴァルで行われている包囲戦を今直ぐ中止にし、ドムヴァル軍の魔獣の森への侵入を今直ぐ止めねばなりません。我々は再びダーレントの惨劇を引き起こそうとしております』
「ダーレントの惨劇……だと……? 一体どういう事だ、ツェザリ?」
『状況を説明致します。ドムヴァル軍はイメド回廊を放棄しサライ方面に脱出しようとしておりました。しかし我が第二軍によって三角地帯に押し込められた状態で包囲されております。この包囲は現在コルダビア軍が引継いでおりますが、包囲に陥ったドムヴァル軍は魔獣の森を経由してサライに逃げ込む事を選択しました。この事はテネファとムーラによって監視されておりました』
「魔獣の森だと? つまり、サライ脱出の経路として魔獣の森を抜ける事を選んだと? 馬鹿な事を……」
『その通りです、猊下。結果として魔獣の森を脱出する彼等は魔獣の餌となるでしょう。恐らくですが魔獣はそれに飽き足らず、人里に溢れて出てくる可能性が高いとテネファでは読んでいます。しかもこの事態は森の北側、つまり我々側でダーレントの惨劇が起きる事を意味しています』
「つまりはテネファの森から溢れ出し、ドムヴァルはおろか我等ヴァルネクまでに魔獣が達すると?」
『テネファ側はその様に想定して動いております』
「ふーむ……ツェザリ。貴公は引き続きテネファから魔獣の情報を入手しろ。それと私の方からコルダビア軍に連絡をする。コルダビア第二打撃軍はゼーダー将軍だったな?」
『左様に御座います、猊下』
「それとニッポンとの交渉はどうなった?」
『予定通り進展がありません。ロドーニャ王国との一方的停戦宣言でニッポン側も動きが停止いたしました。そして現状では魔獣の氾濫を予防する為に一旦会談を棚上げした上で、後日改めて協議を行う事となりました』
「了解した、引き続き頼む。切るぞ」
通信を切ったボルダーチェクは、深く溜息をついた。
魔獣の森だと? ダーレントの惨劇だと? まさか、この戦いの結末が魔獣との氾濫だと?
そんな事は断じて認める事が出来ない。今やこの戦争の帰趨は我がヴァルネク軍が大陸の統一という形で終わる事が見えて来た。だが、ここに来て魔獣の氾濫という予想もしていない事態となった事にボルダーチュクは再び大きな溜息をついた。
もし仮に魔獣の氾濫が事実となり、それがラヴェンシア大陸北側に溢れ出したら?
最前線で我々の陸軍や浮遊軍が、そしてその補給路を支える連合諸国軍が全て後退するにはどれ程の時間を要する事になるだろうか。そしてこれが齎す結果はこれまで占領した場所を全て放棄して魔獣に備える事になる。最悪の場合、出発点たる我々ヴァルネクは本国まで後退し、魔獣に備える事になるかもしれない。もしこの魔獣とやらが我々の武装で対処不可能な物であったなら? これらの魔獣の氾濫が我々の予想よりも遥かに大きい規模で起きたら?
ダーレントの惨劇での結果は、テネファの壊滅だった。
それは遥か昔に起きたが、我々はそこから進歩を重ね、今や相当に高度な魔導兵器群を擁する状況となった。だが、それらの兵器が魔獣達に通用するかどうか不明な状況で、果たして魔獣と対峙した場合の結果は誰にも保障出来ない。そもそもその魔獣とやらの正体も生態も何も分からないのだ。この情報に詳しいのは、実際に被害にあったテネファだ。とするならば、今現在にテネファに居るツェザリにその魔獣の情報を探らせる。と同時に、可及的速やかに森が溢れるような事態を避ける為にドムヴァル軍の森への脱出を避けさせるのだ。となれば、残念ながらドムヴァル軍のサライへの脱出を見逃す他は無いだろう。急ぎドムヴァルを包囲するコルダビア軍に対し、事態を詳細に伝えた上で早急に包囲を解いた上でドムヴァルをサライに逃がさなくては!
『ゼーダー将軍、ボルダーチュクである』
「こ、これは猊下直々に!? ゼーダーであります。如何なされましたか?」
『既に聞き及んで居ようが、ドムヴァル軍包囲の件だ』
「包囲……現在、グジェゴシェク将軍からの通達で休戦状態となっておりますが…」
『休戦か。貴軍の包囲を解き、そこのドムヴァル軍をサライに逃がせ』
「そ、それは……一体どういう事でありますか?」
『貴軍の包囲により追い詰められたドムヴァル軍は魔獣の森への逃走を図っておる。結果として、魔獣の森の氾濫を招こうとしておるのだ。しかもそれは我等北側諸国に向かう可能性が高い。それ故、早急にドムヴァル軍の包囲を解き、サライに逃がせ。仮に魔獣が溢れた場合、これまで得た領土資源を全て放棄する事になるやもしれん』
「な……なんですと……? い、今更そんな事を言われても……もう遅いかもしれません!」
『遅いかどうかは貴公が判断する事では無い。今や一刻を争う事態なのだ。早急に貴軍はドムヴァル軍にこの事実を伝えよ、ゼーダー。そして魔獣の森から兵を引き上げさせるのだ。まさかとは思うが敢てドムヴァル軍に伝えておらぬ事はあるまいな?』
「猊下、勿論そのような事はありません。よもや魔獣の森が溢れだすとか伝承だけの話かと思っておりましたが……委細承知致しました。私自らが早急にドムヴァル軍に軍使を今直ぐ出しましょう」
『可及的速やかに。良いな、ゼーダー、任せたぞ』
「お任せ下さい、直ぐに」
これは不味い事になった。ゼーダーは当初、ムーラとテネファの魔獣の森への侵入は、単なる侵犯問題と軽く見ていたのだ。
だが、テネファからの警告はグジェゴシェク将軍をも動かす強力な内容だった。つまり魔獣の森への侵入は、再びダーレントの惨劇を引き起こしかねぬ、と。当初コルダビア軍としては、兵が誤って森に入る事はあっても軍としては侵入をしていないと明言した。だが、そもそもが森の中に人間が入る事自体が問題だとは全く想定していなかったのだ。
そして我々コルダビア軍の想定通りにドムヴァル軍陣地正面と右翼に強力な圧力を加えた結果、ドムヴァル軍はサライへの最短距離である魔獣の森を踏破する選択を行った。今も、恐らくは我々の目を欺き次々と脱出組が森に突入している事だろう。そしてそれによって引き起こされるのはラヴェンシア大陸北部でのダーレントの惨劇の再来だと言われたのだ。そしてグジェゴシェク将軍からの一度目の警告は確かに同様の事を言っていたが、更には法王ボルダーチェクからも直々に命令が下ってしまった。
そして隠蔽したかった森への侵入の事態は、今やそれ程重大な事では無くなっていた。だが、このままドムヴァル軍が脱出を続けた場合、テネファが危惧した通りに魔獣の森が溢れる事になる。そんな事態を自ら引き起こた事が明らかになれば、戦争どころの話では無く、そしてゼーダー自身はおろかコルダビアの今後も暗澹たる物となるだろう。それに、この魔獣の森の最前線で森が溢れかえった場合、我々自身がそもそも生きて帰る事さえも恐らくは無理な話となるだろう。
事の重大性からゼーダーは直ぐに自ら軍使となり、ドムヴァル陣地へと赴いた。
・・・
サライ脱出を図るドムヴァルの第一梯団 第七連隊のほぼ全滅した三つの大隊周辺域には、小型の節足生物が大量に跋扈していた。そして、この小型の節足生物を狙って緑怪がこの場所に引き寄せられていた。この辺り周辺は小型の節足生物と緑怪達が凄惨な戦いを繰り広げていたが、この戦いの大勢は緑怪に軍配が上がりつつあった。そしてここで行われた人間と節足生物との戦い、更に拙速生物と緑怪の戦いは新たな魔獣を呼び寄せつつあったのだ。
森の中腹地帯に住む魔獣であるヴァォラは身体の大きさは然程では無いが四足歩行の俊敏な動きと抜群な嗅覚を持ち、合わせて鋭い爪と牙とを持つ危険な獣であり、浅い森の部分に住む緑怪と呼ばれる魔獣ニェレムを主に捕食していた。ヴァォラを魔獣たらしめる理由は生殖行動の方法である。この魔獣は単性生殖で増えるが、哺乳動物に自らの子供を産み付けるのだ。運悪く森の中程でヴァォラに出会った過去の調査員達や探検者達は、ヴァォラに捕まって子供を産み付けれられ、ヴァォラの子供が一定の大きさに育つまで、じわじわと体内を食い荒らされながらもヴァォラの子が外に出る迄、生かされ続ける。
通常、このように子を産み付けられた人間は強力な麻痺毒を注入され、意識はあっても動けない状況となる。だが、ある時に運の悪い冒険者がヴァォラに子供を産み付けられた際に、麻痺毒の注入が不十分では無かった事から隙を見て冒険者は人里まで逃げ去る事に成功した。だが、彼の運もそこまでだった。数日経っても全く腹が減った素振りを見せない冒険者に不審を抱いた近隣の住人が、無理やり彼を食事に連れて行き、そして無理に口の中に食事を放り込んだ所、突然冒険者は血の涙を流しながら暴れ始めた。そして、ゴボゴボと血の泡を噴きながら小さな毛むくじゃらの爪が口を裂き、開きながら出てきたのだ。既にこの冒険者は事切れていたが、飛び出したばかりの幼生ヴァォラは本来出る時機では無い状態で外気に触れた事から、次第に身体がぐずぐずと溶け始め、最後には床に汚い染みを作って死んだ。
この件からテネファで結成された法王ダーレント直属の調査委員会は直ぐにこの幼生ヴァォラの姿を記憶していた住人達から状況を聞き取った上で、魔獣の森調査隊のデータとして登録した。その為、この魔獣の成獣状態をその後に確認する事となる。だが、ダーレントの惨劇以降に魔獣の森に入る人間など殆ど居なくなって久しく比較的小型の森の獣に対して子供を産み付けていた。その為ヴァォラの生息域は森の中盤からどちらかというと浅い森に程近い場所へと移りつつあったのだ。そんな浅い森に程近い中盤の森に住む一匹のヴァォラは、今まさに浅い森へと足を伸ばしつつあった。
ヴァォラはずっと考えていた。
浅い森のニェレムは喰らう事が出来る。
だが、ニェレムでは繁殖が出来ない。
浅い森には小さな獣達が居る。
深い森には一切の繁殖可能な獣が居ない。
いや、深い森には危険な獣しか居ない。
もう何年も大型の繁殖可能な大型の獣に出会っていない。
その為、成した子供達はその獣の大きさに合わせて育つ為、小さい者しか育っていない。
私自身、あの二本足の獣から生まれたのだ。
最低限、あの程度の大きさが無いと考える力が育たない。
私が生んだ子供達は考える力の育たない単なる獣たちばかりだった。
生き抜く為には考える力もも必要だ。
あの二本足の獣に出会えたら。
だが最後に遭った二本足の獣は、もう数十年も前の事だった。
久しくあの二本足の獣達に遭遇していない。
だが、ここ数日来浅い森が騒がしい。
そして何やら懐かしい香りが漂っている。
これは、あの二本足の血の匂いだ。
香しい、うっとりとするあの匂い。
森の外だろうか。森の中だろうか。
この匂いを嗅いでいると頭の芯がクラクラする。
早く、一刻も速く、直ぐにでも、
二本足が居る場所に行かねばならない。
外の連中の餌食にされてはならない。
私の巣に、あの二本足を引きずり込むのだ。
だが食べてはならない。
繁殖の為に、食べる事は我慢しなくては。
食べたい、食べたい、食べたい、食べたい食べたい。
ああ……これ程までに我慢をするのは何年ぶりだろう。
我が子の為に、二本足を確保するのだ。
そしてヴァォラは森を只管真っすぐに進んでいたベイエップ中尉率いる第一梯団の先頭、ドムヴァル第二歩兵師団 第七連隊 第26大隊と遭遇した。大量の二本足を確認したヴァォラは、自らの幸運と繁殖の機会に大きく叫び、この叫びは遠く森の中盤にまで届いた。
続き更新しました
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途中投下。あとで続き載せます。