泉 鏡花「薬草取」現代語勝手訳 五
五
「それから、その人の部屋とも思われる、綺麗な小座敷へ寝かされて、目の覚める時、物の欲しい時、咽の渇く時、涙の出る時、何時もその娘が顔を見せないことはなかったです。
自分でも、もう病気が復ったと思った晩、娘は私の手を曳いて、てらてら光る長い廊下を通り、湯殿へ連れて行きました。一緒に透き通るような温泉を浴びて、岩を平らにした湯槽の傍で、すっかり身体を流してから、櫛を抜いて、私の髪を二櫛三櫛、柔らかく梳きました。そして、その櫛を湯殿の岩の上から廊下の灯に透かして、気高い横顔で熟と見て、『ああ、好いこと、美しい髪も抜けず、汚い虫も付いていなかった』と言いました。私も気になって一緒に櫛を見詰めたが、自分の膚も、人の身体も、その時くらい清く、白く美しいのは見たことがない。
私は新しい着物を着せられ、娘は桃色の扱帯のまま、また手を曳いて、今度は裏梯子から二階へ上がった。その段を昇り切ると、直ぐあったのが、新しく建て増ししたと見える一室で、その襖のない、白い床へ、月影が溌と射した。両側の部屋は皆陰々と灯を置いて、鎮まり返っている夜半のことです。
『好い月だこと、まあ』と、そのまま手を取って床板を踏んで出ると、小窓が一つ。それにも障子がないので、そのまま二人で覗くと、前の甍は露が流れて、銀が溶けて走るよう。
月は山の端を放れて、半腹は暗いが、真珠を頂いたような峰は水が澄んでいるのか、明るい。
『山は？』と訊くと、医王山だと言いました。
途端に『くゎい』と狐が鳴いたので、娘はしっかと私を抱いた。その胸に額を当てて、私は思わず、わっと泣いた。
『怖くはないよ』
否、鳴き声が怖くて泣いたのではないと言って、母親の病気のことを話した。
こういう澄み渡った月を眺めて、その色が赤く輝く花を採って帰りたいと、初めてこの人ならばと思って打ち明けて言うと、しばらく黙って瞳を据えて私の顔を見ていたが、『月夜に色が真紅な花――きっと探しましょう』と言って
『可し、可し、女の念で』と、後を言い足したですね。
翌晩、夜更けて私を起こしますから、最初からこっちも目を開けて待っていたので、直ぐに支度をしました。その時、娘は帯をきりりと〆め、それに引っ掛けるように、先刻言いましたね、刃を手拭いでくるくると巻いた鎌を一挺。
それから昨夜のその月の射す窓から密と出て、瓦屋根へ下りると、夕顔の葉の搦んだ中へ、梯子が隠して掛けてあった。伝って庭へ出て、裏木戸の鍵をがらりと開けて出ると、有明月が山の裾。
医王山は手に取るように見えたけれど、これは秘密の山の搦手で、実際にはそこから上る道はないですから、戸室口へ廻って、攀じ登ったものと思います。さあ、ここからが目指すお山というまでに、辻堂で二晩寝ました。
後はどうやって来たか、恐い姿や、凄い者が路を遮って顕れる度に、娘は私を背後に庇うて、その鎌を差し翳し、すっくと立つのですが、その姿は鎧うた姫神のように頼母しく、雲が消えるように路が開けてずんずんと」
その時、高坂は布を断つような音を聞いた。と見ると、前に立った女の姿は、その肩あたりまで草隠れになっていたが、背後ざまに手を動かすに連れて、鋭い鎌が磨き上げた玉のように弓形に出没した。歩行き歩行きの掬切に、刃形が上下に動くと共に、丈のある茅萱は半ばから、およそ一抱えずつ、さっくと切れて、靡き伏せられ、隠れた土が歩一歩、飛び飛びに顕れて、五尺、三尺、一尺ずつ、前途に彼を導くのであった。
高坂は慄然とした。ああこれはかつて女が自分にしてくれたことではないか。思わず手を挙げ、伏し拝み、厳粛な気持ちになって、口を閉ざした。
その不意に立ち止まったのを、行き悩んだと思ったらしい。花売は軽く見返り、
「貴方、もうちっとでございますよ」
「どうぞ」と言った高坂は、今更ながら言葉さえ謹んで、
「美女ヶ原には今もその花はありましょうか」
「どうも身に染むお話。どうぞ早く後をお聞かせくださいまし。そして、その時、その花はござんしたか」
「花はちゃんとありましたが、何時もそうやって美女ヶ原へお出でのことだから、ご存じではないでしょうか」
「参りましたら、その姉さんがなすったように、一緒にお探し申しましょう」
「それでも、私は月の出るのを待ちますつもり。その花籠さえ一杯になったら、貴女は今日の中に帰るでしょう」
「否、いつも一人で往復します時は、馴れて何とも思いませんでございましたけれども、なまじお連れが出来てみますと、もう寂しくって一人では帰れませんから、お帰りまでご一緒にお待ち申しましょう。その代わりどうか花籠の方はお手伝い下さいましな」
「そりゃ、言うまでもありません」
「そしてまあ、どんな所にございましたえ」
「それこそ夢のようだと、言うのだろうと思います。路すがら、そうやって、影のような障礙に出遭って、今にも娘が血に染まって、私は取って殺されるかも知れないと、何度思ったか分かりませんが、黄昏と思う頃、その美女ヶ原というのでしょう、そこに着きました。およそ八町四方ばかりの間、扇の地紙のような形に、空にも下にも充満の花です。
そのまま二人で跪いて、娘がするように手を合わせておりました。月が出ると、それは余りにも容易く見つかりました。つい目の前の芍薬の花の中に、花片の形が変わっている、真紅なのがただ一輪。
採って、前髪に押し頂いた時、私の頭を撫でながら、余りのうれしさに、娘ははらはらと涙を落として、『もう、死ぬまで、この心を忘れてはなりません』と、私の頭に挿そうとしましたが、髪は結んでいないのですから、挿せません。そこで娘は自分の黒髪に挿しました。人の簪の花になっても、月に照らされ、色は真紅だったです。
母様のご大病、一刻も早くと、直ぐに美女ヶ原を後にしました。
引き返す時は、苦もなく、すらすらと下りられて、早くも暁の鶏の声。
うれしい、人里も近いと思いましたが、月が落ちている明け方の闇を、向こうから、どやどやと四、五人連が、松明を挙げて近寄ってきた。人懐かしくて、いそいそと寄ると、皆屈強な荒漢でした。
その中に一人、見たことのある顔が、……思い出した、黒婆の家に馬を繋いだ馬士で、その馬士は二人の姿を見ると、『遁がすな』と、突然私を小脇に引っ抱え、残った奴が三人、四人で、『えぇ！』という娘を手取り足取りして……。
何処をどう、どの方角をどのくらい連れ去られたのか、まるで分かりません。
やがて気がつくと、娘と二人で、大きな座敷の片隅に、馬士交じりの七、八人に取り巻かれて座っていました。
何百年経ったか分からないくらいの古襖の正面、板の間のような床を背負って、大胡座で控えたのは、何と、鳴子の渡を仁王立ちで越した無頼なその親仁でした。
恍惚した小児の顔を見ると、過日の四季の花染の袷を、ひたりと目の前へ投げて寄越して、大口を開けて笑った。
『や、二人とも気に入った。坊主は児になれ。女はその母になれ。そして何時までも娑婆へ帰るな』と言ったんです。
娘は乱れ髪になって、その花を持ったまま、膝に手を置いて首垂れて黙っていた。その返事を聞く手段であったらしく、私は二晩、土間の上へ、恐ろしく高い屋根裏に釣った駕籠の中へ入れられて釣されたんです。紙に乗せて、握り飯を突っ込んでくれたけど、それが食べられるもんですか。
土間の焚き火で、雪のような顔を照らされ、娘が縛られているのを釣り下げられた駕籠から透かして、見ましたが、それきり目が眩んでしまったです。どんと駕籠が土間に下りた時、中から五、六匹鼠がちょろちょろと駈け出したが、代わりに娘が入ってきました。
薫の高い薬を噛んで、口移しに含められて、膝に抱かれたので、一生懸命にしっかり縋り付くと、背中へ廻した手が空を撫でるよう。娘は空蝉の殻かと思えるほど、たった二晩ほどで糸のように痩せたです。
『もうお目に懸かられぬ。あの花染のお小袖は記念に私に下さいまし。しかし、義理がありますから、絶対こんな所に隠家があると、町へ帰っても言うのではありません』と、蒼白い顔をして言い聞かす中に、駕籠が舁かれて、うとうとと十四、五町。
『奥様、ここまで』と声がして、駕籠が下ろされると、一人が手を取って、私を外へ出しました。右左に土下座をして、手を支いていた中に馬士もいた。一人が私を背中に負うと、娘は駕籠から出て見送ったが、顔に袖を当てて、長柄（*柄の長い大きな駕籠）にハッと泣き伏しました。それっ限りです」
高坂は声も曇って、
「私を負った男は、村を離れ、川を越して、遥か鈴見の橋のたもとに私を差し置いて帰りましたが、この男は口が利けない者とみえて、長い途の間、一言も物を言いやしませんでした。
私は死んだ者が蘇生ったようになって、家に帰りましたが、ちょうど丸三月経っておったです。
花を枕頭に差し置くと、その時も命が危ぶまれていた母は、呼吸を返して、それから日増しに快くなって、五年経ってから亡くなりました。魔隠しに遭った小児が帰った喜びで、一旦本復を得たのだと言う人もありますが、私はその娘が取ってくれた薬草の功徳だと思うです。
それにつけても、恩人は、と思う。娘が山賊に捕われたことは小児心にも知っていたけれども、堅く言いつけられて帰ったから、その頃、三カ国に横行していた大賊が、つい私どもの隣の家に入った時も、何にも言わないで黙っていました。
けれども、それから足がついて、二俣の奥、戸室の麓、岩で城を築いた山寺に兇賊が籠もっていると知れて、まだ巡査のことを邏卒と言った時分、捕方が多人数で、隠家を取り巻いた。その時、表門の真只中へ、その親仁と言った男が、六尺一つの丸裸体で、脚絆を堅く、草鞋を引き〆めて、背中に、四季の花染の熨斗目の紋着、振袖を十文字に引背負っていた。それが颯と山颪に縺れる中に、女の黒髪がはらはらと零れた。
手に一絛、大身の槍を引っ提げて、『背負った女房が死骸でなければ、死人の山を築いてくれようが、無理に手活けの花にした申し訳の葬いに、医王山の美女ヶ原の花の中に埋めて帰る。汝等見送りに来れば、命がないぞ』と、近寄ったのを五、六人蹴散らして、取り囲んだ巡査がぱっと退く中を、衝と抜けると、岩を飛び、岩を飛び、また岩を飛んで、やがて槍を杖いて岩角に隠れて、それ限りだったと言います。それからは私がその娘に出会う門出だった誕生日に、鈴見の橋の上まで来ては、こちらを拝んで帰り帰りしたです。が、母が亡くなりました翌年から、東京へ修行に参って、国へ帰ったのはやっと昨年のこと。始終望んでいましたこの山へ、後を尋ねて上ろうと思っていたのですが、物に取り紛れている中に申し訳ない、とんだ身勝手なことですが、またその薬を頂かねばならないようになって、やって来たです。
以前はそのせいで類い少ない女を一人、犠牲にしたくらいですから、今度は自分がどれほど苦しい目に遭っても決して厭わない。今、また、どうしてもその花が欲しいのです」
そう言う中にも胸が迫って、目に涙を湛えたが、ふと、気がつくと消えたように女の姿が見えない。しかし、それは涙のせいではなく、草が深くなったせいであった。
背丈より高い茅萱を潜って、肩で掻き分け、頭で避けながら、見えない人に物を言いかける術もないので、高坂は御経を取って押し戴き、
山川険谷 幽邃所生 卉木薬艸 大小諸樹
百穀苗稼 甘庶葡萄 雨之所潤 無不豊足
乾地普洽 薬木並茂 其雲所出 一味之水
雑草の中に日が射して、経巻に蒼く月かと思う草の影が映ったが、なおも見ながら進む内、ちらちらと紅が来て、黄が来て、紫が去り、白が過ぎて、蝶が戯れる風情がし、偈（*経文中、仏徳を讃えたり教理を説いたりする、多くは四句からなる詩）に班々と印たように顕れたのは、はや咲き交じる四季の花。
にわかに天が開け、身は雲に包まれて、妙なる薫りが袖を蔽った。と見ると、堆い雪のような真白い中に紅がちらめき、見詰める瞳に緑が映って、それが颯と分かれて、一つ一つが花片となり、葉となって、美女ヶ原の花は高坂の袂に匂い、胸に咲いた。
花売は籠を下ろして立ち休んでいた。笠を脱いで、玉のような襟足を長く伸ばして、艶やかな黒髪を高く結んだところに、何時の間にか一輪の小さな花を簪していた。褄がずれ、袂の端の大輪の白菊の中に佇んで、高坂を待って、莞爾と微笑む。その美しく気高い面差し、威ある瞳に屹と射られて、ハッとなり、今物語っていた人とは思われず、学生は既に身を忘れ、名を忘れて、ただ九つばかりの稚児になった思いであった。
「さあ、お話に紛れて遅くなって来ましたから、もうお月様が見えましょう。それまでに、どうぞ手伝って花籠に摘んでくださいまし」
と、男を頼るように言われたけれども、高坂は却ってかしこまって、あたかも神に仕えるように、左に菊を折り、右に牡丹を折り、前に桔梗を摘み、後ろに朝顔を手折って、再び、鈴見の橋、鳴子の渡、畷の夕立、黒婆の生豆腐、白姥の焼茄子、牛車の天女、湯宿の月、山路の利鎌、賊の住家、戸室口の別れを繰り返して語って、やがて一巡した時、花籠は美しく満たされたのである。
すると籠は、花そのものとなり、花の中に埋もれて消えた。
月の光りが射したので、求める花はと、伏し拝み、心を籠めて、透かし透かし見たけれども、見廻したけれども、見やったけれども、ものの薫りはするが、形はあっても、仄かに幻かと見えるだけ。雲も雪も紫もすべて夜の色に紛れるばかりであった。
ほとんど絶望して倒れようとした時、思いがけず見ると、肩を並べて同じように手を合わせてすらりと立った、その黒髪に花がただ一輪、月の光に紅の色。
高坂がその足許に平伏したのは言うまでもなかった。
その時、肩を落として、美女は高坂の手を取った。手を取られた高坂は膝をずらして縋りつき、その帯のあたりに面を上げた。月を浴びて気品溢れる、優しい顔。高坂を熟と見て、少し頬を傾け、傾けた方へ髪がはらはらとなるのを、密と押さえた手で、花の簪を抜いた。そして、それを戦く医学生の襟に挟んで、恍惚したが、瞳が動き、
「ああ、お懐かしい。思うお方のご病気はきっとそれで治ります」
何ということ、高坂がしっかと留めたはずの手は徒に茎を掴んでいた。袂は空に、美女ヶ原は咲き満ちたまま、ゆらゆらと前方に遠ざかったように思えて、人の姿も遠くなった。
立って追おうとすると、岩に牡丹が咲き重なって、白い象の大きな頭のような頂へ、まるで雲に入るように衝と立った時、一度その鮮明な眉が見えたが、瞬く間に、月に風もない野ばかりとなった。
高坂はどうと座り込んだ。
そうして、傍らの芍薬の花が一尺四方に咲いている中へ経を据え、そこへ胸に残された紅の一輪を栞にして、合掌し、薬王品を夜を明かして誦えたのであった。
（了）
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
この後は、原文をお読みいただき、鏡花の文章に直に触れて頂くのが一番だと思います。この作品は青空文庫にもありますので、是非。
