泉 鏡花「薬草取」現代語勝手訳 二
二
「いいえ、山さえお暴しにならなければ、誰方がおいでなさいましても大事ないそうでございます。薬の草もあります上は、毒の草もないことはございません。無暗な者が採りますと、どんな間違いになろうとも知れませんから、昔から禁札が打ってあるのでございましょう。
貴方はそうやって御経をお読み遊ばすくらいですから、たとえお山で日が暮れてもちっともお気遣いなことはございますまいと存じます」と、言いながら、また少し近づき、
「あの、それなら、貴方はお薬になる草を採りにおいでになるのでござんすかい」
「少々無理な願いですがね、身内に病人があって、とても医者の薬では治らんとなったので、この医王山より外はないと、私が心当たりの薬草を採りに来たんだが、何、姉さんは見かけたところ、花でも摘みに上がるんですか」
「ご覧の通り、花を売りますものでござんす。二日おき、三日おきに参って、お山の花を頂いては、里へ持って出て商います。ちょうど今が種々な花の盛りで。
千蛇が池と申しまして、頂に海のような大きな池がございます。ですが、この山路は何処にも清水など流れてはおりません。その代わり暑い時、咽喉が渇きますと、蒼い小さな花の咲きます日蔭の草を取って、葉の汁を噛みますと、それはもう、冷たい水を一斗ばかりも飲みましたように寒うなります。それがないと凌げませんほど、水の少ない所ですから、菖蒲、杜若、河骨(*スイレン科の水生植物)はございませんが、躑躅も山吹も、あの、牡丹も芍薬も、菊の花も、桔梗も、女郎花でも、皆一所に開いていますよ。この六月から八月の末時分まで。その牡丹だの、芍薬だの、結構な花が取れますから、たんとお鳥目(*金銭)が頂けます。まあ、どんなに綺麗でございましょう。
そして、貴方、お望みの草をお採り遊ばすお心当たりはどの辺でございます」と、笠のまま差し覗くようにして、親しく訊く。その時、清い目がちらりと見えた。
高坂は、そう物語る人が、何となく幽境の仙家(*仙人の棲家)に導く牧童などのように思えたので、言葉も自ずから叮嚀になって、
「私もそこへ行くつもりです。四季の花が一時に咲く、……何という所でしょう」
「はい、美女ヶ原と申します」
「びじょがはら?」
「あの、美しい女と書きますって」
女は俯いて恥じるような仕草で、何となくきまり悪そうに微笑む様子。
そのゆかしさに振り返ると、
「あれ」と、袖を斜めに、袂を取って打ち傾き、
「あれ、まあ、ご覧なさいまし」
その草染めの左の袖に、はらはらと五片三片、紅を点じたのは、山鳥の抜羽か、そうではない、蝶か、いや、蜘蛛か、でもない。桜の花が零れたのである。
「どうでございましょう、この二、三ヶ月の間は何処からともなく、こうしてちらちら、ちらちら、絶えず散って参ります。それでも、何処に桜があるか分かりません。美女ヶ原へ行きますと、十里南の能登の岬、七里北に越中立山、背後に加賀が見晴らせまして、もうこの節は霞も霧もかかりませんのに、見紛うようなそれらしい花の梢もございませんが、大方この花片は煩い町方から逃げて来て遊んでいるのでございましょう。それとも、あっちこっち、山の中を何かのお使いに歩いているのかも知れません」
と、女が高く仰ぐのにつれ、高坂も雑草の中に伸び上がった。草の緑が深くなって、倒に雲に映るのか、水底のような天の色、神霊秘密の気を籠めて、薄紫に見えるばかり。
「その美女ヶ原までどのくらいあるね。日の暮れないうちに行かれるでしょうか」
「いいえ、こう桜が散って参りますから、直でございます。私もそこまでお供いたしますが、今日でこそ貴方のようなお連れがございますけれど、平時は一人で参りますから、その日のうちに里へ帰るのでございます」
「その日のうちに帰れると?」と思いも寄らない様子。
「そんなにまた遠い所のように樵夫がお教え申したのでございますか」
「何、樵夫に訊くまでもないです。私に心覚えがちゃんとある。まず、およそ山の中を二日も三日も歩行かなけりゃならないですな。
もっとも、上りは大抵どのくらいと、そりゃかねて聞いてはいるんですが、その日のうちだの、もう直だの、そんなに容易く行ける所とは思わない。
ご覧なさい、こうやって、五体の満足なのは言うまでもない。谷へも落ちなけりゃ、巌にも躓かず、衣物に綻びが切れているわけじゃなし、生爪一つ剥がしやしない。準備万端整えてきている。
支度はしてきても、今のところ、餒い思いもせず、その蒼い花の咲く草を捜さなけりゃならんほど渇く思いをするでもなし、もちろん、この先、どんな難儀に遭うことになるかも知れんが、それだって、花を取りに里から日帰りをするという姉さんと一緒に行くんだ。急に日が暮れて、闇になろうとも思われないが、まったくこれだけのことで、一足ずつ歩いてさえ行けば、美女ヶ原になりますか」
「ええ、訳はございません。貴方、そんなに恐ろしい所とお思いなのに、お薬を採りにいらっしゃったのでございますか」
高坂は言下に、
「実際、命懸けで来ました」と、思い入って答えると、女はしめやかに、
「それでは、よくよくのことでおあんなさいましょうね。でも、何もそんなに難しいお山ではありません。ただ、ここは霊山とか申しますので、酒を覆したり、竹の皮を打棄ったりする所ではないのでございます。まあ、有り難いお寺の庭とか、お宮の境内とか、あるいは身分の高い方の御門の内のように、歩いても見事な石一つありませんけれども、何となく謹みませんとなりませんのでございます。そして、貴方は、美女ヶ原にお心覚えの草があって、そこまでお越し遊ばすのに、二日も三日もおかかりなさらねばなりませんような気がするとおっしゃいますが、何時か一度お上り遊ばしたことがございますか」
「一度あるです」
「まあ」
「確かに美女ヶ原というそれでしょうな。何でも躑躅や椿、菊も藤も原一面に咲いていたと覚えています。けれども土地の名どころじゃない、方角さえ何処が何だかまるで分からない。
今だって、やっぱり私は同じこの国の者なんですが、その時はなぜか家を出て、一月余り山に入り、かれこれ何でも生まれてから死ぬまでの半分は徜徉って、漸々にして、そこを見たように思うですが」
高坂は話しながらも、長途に苦しみ、雨露に曝された当時を思い起こすにつけ、今も気が弱り、気が滅入るほど疲れて、ここの深山にはまったく気にかけることはないと思いながら、それでも、垂々と背中に汗が。
糸のような一条路で、背後へ声を運ぶのに力を要したせいもあり、薬王品(*法華経第二三品)を胸に抱き、杖を持った手に帽子を脱ぐと、清い額を拭うのであった。
その様子を素早く見て取り、
「もし、ご案内がてら、あの、私がお前へ参りましょう。どうぞ、その方がお話も承りようございますから」
あれこれ言う間もなく、草鞋を上げて、女は道を左へ片避けた。その足の底へ草の根は柔らかく、葉末は女の脛を隠したが、裾を引っかける荊もなく、辺りは閑として、虫の羽音も聞こえない。
つづく