泉 鏡花「薬草取」現代語勝手訳 一
泉鏡花の「薬草取」を現代語(勝手)訳してみました。
本来は原文で読むべきですが、現代語訳を試みましたので、興味のある方は、ご一読いただければ幸いです。
「勝手訳」とありますように、必ずしも原文の逐語訳とはなっておらず、自分の訳しやすいように言葉を付け加えたり、ずいぶん勝手な解釈で訳している部分もありますので、その点ご了承ください。
浅学、まるきりの素人の私が、言葉の錬金術師と言われる鏡花の文章を、どこまで現代の言葉で表現できるか、非常に心許ないのですが、誤りがあれば、皆様のご指摘、ご教示を参考にしながら、訂正しつつ、少しでも正しい訳となるようにしていければと考えています。
(大きな誤訳、誤解釈があれば、ご指摘いただければ幸甚です)
この作品の勝手訳を行うにあたり、「鏡花小説・戯曲選 第十巻」(岩波書店)の「薬草取」を底本としました。
全5回。
一挙に投稿します。
一
日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬
其雨普等 四方倶下 流樹無量 率土充洽
山川険谷 幽邃所生 卉木薬艸 大小諸樹
「もし、失礼ですが、お布施いたしましょう」
背後から掛けられた優しい声に、高坂は驚いて振り返った。
医王山の中腹、鬱蒼とした樹木の中から出ると、ふと、夜が明けたように空が澄んで、空気も清い。時節は夏の初めなのに、前途遙かな高峰の上に、秋に見る昼の月のような日輪を仰いでいた時だった。
人の声を聞き、姿を見ようとは、夢にも思わなかった。遠く里を離れて、すでに山深く入っていたのに、しかも、呼び掛けたのは女であった。けれども、高坂は一見して、直ぐ、何ら危害を加える者ではないと察した。
女は片手拝みに、白い指先を唇に当てて、俯いて経を聞きながら、布施をしようというのだが、
「否、私は出家じゃありません」と、こともなげに辞退しながら、立ち止まって、その女を見た。
雪のような耳許から下ぶくれの頬に掛けて、濃い浅葱色の紐を柔らかに結び、朝顔の露の色を宿した加賀笠という縁の深いので眉を隠して、背には花籠、脚に脚絆という身軽に扮装った艶麗な姿である。
女は、笠の下から見透かすようにして、
「これは失礼なことを申しました。お姿はちっともそうらしくはございませんが、結構な御経をお読みなさいますから、私は、あの、ご出家ではございませんでも、ご修行の方であるかとも存じまして」
背広姿で、足拵えをして、帽子を目深に被り、風呂敷包みを小さく西行背負(*風呂敷包みなどを肩から斜めに背負い、胸の前で結ぶ背負い方。)というのにしている。彼は名を光行と言って、医科大学の学生である。
その時、妙法蓮華経薬草諭品、第五偈の半ばを開いたのを、左の掌に捧げていたが、右手に支いた力杖を小脇に掻上げ、
「そりゃまあ、修行者は修行者だが、未だ全然素人で、どうして、お布施を戴くような者じゃない。読み方だって、なぁに、大概、初心者が大学朱熹章句(*朱子が書き下ろした儒家の古文献『大学』の注釈書)を読むみたいに行くんだから、尊い御経がもったいないくらいだ。この山には薬の草が多いから、気のせいか知らんが、麓からこうしてやって来て、一里ほど来たかと思うと、風も清々しい薬の香がして、それが何となく身に染むので、今、この身に願いごとがあるものだから、近頃読み覚えたのを誦えながら、歩行いているんだ」
こう打ち明けるのが、お互いのためだと思ったから、高坂は親しく先ずそう語ってから、
「姉さん、お前さんは麓の村にでも住んでいる人なんか」
「はい、二俣村でございます」
「ああ、あの、越中の砺波へ通う街道で、ここに来る道の岐れる、目まぐるしいほど馬の通る、あそこだね」
「さようでございます。もう路が悪うございまして、車が通れませんものですから、炭でも薪でも、すべて馬につけて出しますのでございます。それに、ちょうどこの御山の石の門のようになっております、戸室口から石を切り出しますのを、皆馬で運びますから、一人で五頭も曳きますのでございますよ」
「それではその麓から来たんだね、たった一人で。……」
静に歩を進めた高坂は、さらにまた女の顔を見た。
「はい、一人でございます。そして、こちらへ参りますまで、お姿を見ましたのは、貴方だけでございますよ」
高坂はいかにもという顔付きで、
「私もやっぱり、そうさ。半里ばかり歩いた後、途中で年寄った樵夫に会って、路を訊いた外にはお前さんだけ。いやまったく、往って還るまで、人っ子一人いようとは思わなかった」
この辺りは、ただ平穏な蒼海原のようで、沖に出たような一面の草を見廻しながら、
「や、ものを言っても一つひとつ谺に響くぞ。こんな寂しいところへ、お前さん、よく一人で来たね」
女は乳の上へ右左、幅広く引っかけた桃色の紐を両手に挟んで、花籠を揺り直し、
「貴方、その樵夫の衆にお尋ねなすって可うございました。そんなに嶮しい坂ではございませんが、ちっとも人が通いませんから、本当に分かりにくいのでございます」
「この奥の知れない山の中へ入るのに、目標があの石だけじゃ分からんではないかね。
それも、南、北とか、何方が医王山道、とでも鑿りつけてあれば未だしもだけれど、ただ河原に転がっている石ころの大きいような、その背後の草の下に細い道があるんだもの。ちょっと間違えようものなら、半年かけても頂には行けないと、樵夫も言ったんだが、一体全体何だって、そんなに秘しておく山なんだろう。まったくあの石の裏より外、何処にも路はないのだろうか」
「ございませんとも。この路筋さえご存じでいらっしゃれば、世を離れました寂しさはあるにせよ、獣も恐ろしいのは居りませんが、一足でも間違えてご覧なさいまし、何千丈とも知れぬ谷で、行き止まりになりますやら、断崖に突き当たりますやら、流れに岩が飛び飛びになりましたり、大木の倒れたので行く前が塞がったり、その間には草樹の多いほど、毒虫もむらむらして、どんなに難儀でございましょう。
元へ帰るか、倶利伽羅峠へ出抜けますれば、無事に何方か国へ帰られますが、それでなくって、無理に先へ参りますと、終局には草一条も生えません焼山になって、飢え死にをするそうでございます。
本当に貴方がおっしゃいます通り、樵夫がお教え申した石は、飛騨まで末広がっている医王の要石と申しまして、一度踏み外しますと、それこそ路がばらばらになってしまいますよ」
名だたる北国の秘密の山、さもあろうと思ったけれども、
「しかし、一体、医王と言うほど、ここで薬草が採れるのに、なぜ世間とは隔たって、行き通いがないのだろう」
「それは、あの、承りますと、昔からご領主の御禁山で、滅多に人をお入れなさらなかったせいなんでございますって。ご領主だけでもござんせん。結構なお薬の採れます場所は、またご守護の神々、仏様も、出入りをお止め遊ばすのでございましょうと存じます」
譬えば仙境(*仙人が住むと言われる所)に異霊があって、恣に人が薬草を採ることを許さないと言う風にも聞こえたので、これが少なからず心に懸かった。
「それでは何か、私なんぞが入って行って、欲しい草を取って帰っては悪いのか」と、高坂はややむっとして顔色を変えたが、急に慄然と肌寒くなって、思わず口の裡で、
慧雲含潤 電光晃耀 雷声遠震 令衆悦予
日光掩蔽 地上清涼 靉靆垂布 如可承攬
つづく