03
「ちゃんと授業を聞け。俺に言えることは、それだけだ」
授業をちゃんと受けていれば、全教科赤点なんて避けられる。というより、物理的に不可能だろ。
麻倉は惨めな様子で言う。
「授業はまともに受けてます。ノートだって、ちゃんと取ってるんです。ただ授業についていけなくて……」
「それで、よく入試に受かったな。もっと偏差値の低い高校に行ったほうが良かったんじゃないか?」
「あの、実はわたし──ここだけの話にしてください。これから言うことは、秘密ですよ」
「秘密なんかに興味ない」
と、俺が言ったにもかかわらず、麻倉が顔を近づけてきた。なんだか知らないが、甘い香りがする。
俺の耳元に囁いてきた。
「わたしのパパ、この学園の理事長なんです」
「理事長? まさか──入学試験で不正を?」
「不正なんてしてませんよ! ただ、あの時は奇跡的にヤマが当たったというか。わたしの運を全て使いきってしまったというか」
「そうか。お気の毒に。じゃ」
勉強に戻る。
「ま、待ってくださいよ、戸山さん! 見捨てないでください!」
俺は溜息をついた。
「あのな、父親が理事長なら色々とやりようがあるだろ。テストの点数を上乗せしてもらうとか、事前にテスト用紙を見せてもらうとか」
「だから不正なんてしませんって! パパだって、不正なんて許しません!」
「なら家庭教師でも雇ってもらえ。理事長の資産なら余裕だろ」
これで問題解決。ところが勉強に戻ろうとする俺の腕を、麻倉が掴んでくる。
「お、お願いします。戸山さんが家庭教師になってください!」
「なんで俺なんだ? プロの家庭教師のほうが効率いいだろ」
麻倉が両手の人差し指をちょんちょんとし出す。
「だって、それだとパパに相談しなきゃじゃないですか。パパを心配させたくないんです」
全教科赤点の時点で、お前の親父さんは心配しまくりだと思うがな。
「それに、パパも言っていました。将来のためにも、自立するようにって。私、自分の力で学力を上げて、パパを安心させたいんです。そのために、私はまず家庭教師を探さなきゃなんです」
「で、俺にさせようというわけか。あのな、俺の迷惑というものを考えろ」
麻倉が瞳に涙をためて、俺を見つめてくる。
「ダメ、ですか……?」
これに絆されちゃいけない。
俺はもう同じ過ちは繰り返さないと決めたんだ。他人のために尽くしても、ロクなことにならない。
最後には裏切られるだけだ。
「ダメだ」
「どうしてもですか!」
「しつこいな、お前──」
「おい静かにしろ!」
俺と麻倉の会話を遮ったのは、野太い声だった。
自習室には、時おり教師が見回りに来る。この見回りは日替わり制らしく、今日は不運なことに体育の持田だった。
持田は生徒に厳しいというレベルではない。生徒をイジメて楽しむタイプの教師だ。これは説教を食らいそうだ。
大柄な持田が、のっしのっしと歩いてきた。
「おい、戸山。自習室で騒ぐとは何事だ? 学年一取ったからって、調子にのってるのかぁ?」
「……すいません」
この時、麻倉は持田に背を向けていた。
持田の視線が、麻倉の背中へと向けられる。
すぐに泣きだす麻倉のことだ、持田に説教でもされたらどうなることか。まぁ知ったことじゃないが。
「おい、そこの女子。叱られてるのに顔も見せないのか?」
麻倉はハッとした様子で、持田へと振り返った。
「申し訳ございません、持田先生」
とたん、持田の顔が真っ青になった。
「麻倉さん、でしたか──」
え、敬語? いつも生徒に威圧的な持田が、敬語?
麻倉は恐縮した様子で、頭を下げる。
「自習室で騒いでしまい、申し訳ございませんでした」
持田が慌てふためく。両手を振りながら、
「い、いや、そんな滅相もありません! 元気なのはいいことですからな! はっはっはっ! あ、職員室に忘れものをしていた。では麻倉さん、これで失礼──」
持田は逃げるように自習室から走り去った。
麻倉はそんな持田を見送ってから、キョトンとした顔だ。
「あんなに慌てて、持田先生はどうしたのでしょう?」
俺は唖然としながら、思った。
……さすが、理事長の娘。