4話:重蔵の死と葬式
重蔵は今年81歳となり急に疲れが出て体調を崩して2000年5月1日近くの大きな病院に入院した。そして診察の結果、軽い脳梗塞と心臓の太い血管が詰まっている所が2ヶ所見つかり血栓溶解薬での治療が開始された。その日に便せんに何やら書いて封筒に封をして見舞いに来ていた長男の臼井信一に俺が死んだら、ここに書いてあるようにしてくれと見舞いに来ていた臼井重光や親族に聞こえるように言った。その後、体調を崩しICU、集中治療室に運ばれ面会謝絶となった。
そして5月の連休を終えた2000年5月7日の早朝、危篤の連絡が入り病室に親族7人が来て、午前9時13分、ご臨終ですと言われると、女達が号泣した。長男の信一が次男の信二に葬式の案内状を用意してと言い葬儀の会場や葬儀の話は私がやると言った。信一が葬儀社に電話を入れ、近くの葬儀所の空きを調べるように指示し15分後に信一の携帯電話に2000年5月11日、午前10時から木更津葬儀場が空いてると連絡が入り、予約してもらった。
葬儀の案内状を100部作り遠方に住んでいる15人の親戚と仕事、自治会、農協、自民党、千葉県議会、市議会の関係者、25人に案内状を送るように信一と信二が手分けして案内所を書いて投函した。その後、葬儀社と葬儀の形式の打ち合わせをして宿の手配、タクシーの手配をした。その後、葬儀の時の受付、お茶出しを決めて信一が喪主となり信二が葬儀の進行を担当することになった。お通夜は近くに住む親類や昔世話になった元の小作人達が大勢来て臼井重蔵に農地解放の時、多くの土地をいただいたと感謝して頭を下げに来る人が20人以上いたのには信一も驚き、今さらながらに父、臼井重蔵の懐の深さに驚かされた。
通夜に実家に泊まる人は3人でだった。お通夜を終えて翌朝、8時には朝食を終え9時過ぎにワゴンタクシー、9人乗りのハイエース、自家用車などを数台連ねて葬儀場へ向かった。9時半過ぎに到着すると既に受付が準備され10時前に葬儀の参列者が、そろい葬儀が始まった。葬儀の途中に何回も多くの政治家や企業の上役の秘書たちが入れ替わり立ち替わり出入りした。喪主の挨拶を終え、お坊さんの念仏が終わり次々と焼香が始まり人数が多いので6人一度に焼香できるようにしてあった。
11時過ぎ、終了し昼食会場へ、案内され、亡き、臼井重蔵さんの話になった。重蔵さんは賢い人で農地解放の時にも他の地区の地主が、なかなか自分の土地を手放さないの対して重蔵さんは小作人に優しく、ご苦労さんと言い小作人に広い土地を次々を渡した。そして時代は変わるのだと言い小作人に頑張って働いて、しっかり稼ぎなさいと励ましたそうだ。その話を多くの老人が言うと老婦人達も涙ながら重蔵さんには本当に感謝していると言い涙を流してくれた。
この話を聞いて、息子の信一、信二は今さらながらに臼井重蔵の先見の明のすごさが、いかに素晴らしいものだったか思い知らされた。その時、孫の臼井重光が祖父が意識の薄れる中で、お前を天から見ているから、これからの人生で、迷ったときは、私を思い出して、どうしたら良いか、強く念じなさい、そうすれば、きっと良い結果が得られるように導いてやると、不思議な事を言って息を引き取ったのを鮮明に思い出した。
そして、さっき死に顔を見たときに自分に微笑みかけているような気がしてならなかった。午後13時過ぎに火葬場で荼毘にふされたと連絡が入り、会場に入り形式に則り、一連の作業をし、臼井重光も骨を拾った。その時、今後の私の人生を見守って迷った時には進むべき道をご指導くださいと念じて合唱した。その後、墓地に埋葬されるのに、付き添って、菩提寺のお墓についていった。そして午後15時過ぎに葬儀は全て終了し、参列者達が帰って行った。
数日後の日曜日、親族が臼井重蔵の家に集まり遺言書を開いて伸一が代読した。遺産は、まず古くなった家の改築に使いなさい。そして必要なら新しい家も敷地内に新築しなさい。そうすれば自分達の子孫達に大きな家を残せる事になると書いてあった。次に終戦後の1946年の財産税の時、運良く事前に上昇を入手し宝石や金の仏像など大きくなくて高価な物を屋敷の敷地内に埋めたので掘り起こして売って財産にして下さい。地図は別の紙に書いてあるとその場所が記されていた。残ったお金は最初に親族でお金に困っている人の話を聞いて、それに優先的に使いなさい。
残った財産は、むやみに使ってはいけない。全て子孫達のために使いなさい。そして我が臼井家は元名主の家なので卑しいことはしてはいけない。近所の人が困っていたら率先して助けてやりなさい。お金は子孫の未来のために有効に使いなさい。具体的な分配の比率、金額は一切書いてなかった。最後に残された女房には、できるだけの事をしてあげてと書いてあった。伸一と伸二で協力して自分達の子供、孫のため地元のため世のため人のために残した資産を有効に使ってくれと書いて手紙が終わっていた。
その後、新しく、臼井一族の当主が臼井伸一となった。すると伸一が俺1人では荷が重いので弟の伸二と2人で今後の決めると宣言した。そして2人で父重蔵の5億円越える資産があるので何もせずにしておいて財産の事は、自分達と子供達だけの秘密にして置くことにした。臼井伸一と伸二が生前、重蔵が重光に投資の指南をしていたのを知って重蔵の資産の1.4億円を任せるから運用してくれないかというのでわかりましたと答えた。
そして臼井重光の資産の2.2億と重蔵の資産1.4億で合計3.6億円と急にお金持ちになった。この話は臼井伸一と伸二と重光の3人だけの秘密にしておく約束を取り交わし、翌日、重光のシティバンクの口座に1.4億円が入金された。やがて2000年の夏となりスイカの出荷が始まった。そして1981年に改修した実家で雨漏りがするようになったと言われ立て替えた場合の見積をとると6千万円と言われて、仕方なく重光が6千万円を出し、残金が3億円となった。