のんびり死体は、失敗ばかり。
のんびり死体は、現在の性教育や、一般的な性の扱いに不満があるのです。
子供の頃に知る性は、あまりに否定的だと感じるのですよ。
でもって、大人になってから、突然自己責任です。
色々と、うまくやれなきゃいけないのです。
そりゃ、失敗する人、思い違いする人も出てくると思うのです。
今は、正しく性が理解されていないのではないだろうか。
その事が、大きく若い人達の生活に、影を落としているのではないだろうか。
そんな風に感じられるのです。
ここまでの話は、一部の悪意のある性や、特殊な性癖については考慮せず話していますよ。
だからって、その部分にだけ拘って、全体的なことを否定するのはちょっと待ってほしいのです。
いまから、その点も踏まえて、ちょっと男性の性について思うことを伝えてみます。
愛のない性行為は排泄に似ています。
というか、あれは排泄だと、のんびり死体は考えています。
排泄したくないときには、唯の苦痛な作業でしかありません。
世の中には、無理やりっていうのもあるようです。
のんびり死体は幸せなことに、そういった経験はありません。
ですが、なんとなく想像はつきます。
無理やりしたって、得るものは唯の排泄の快感だけです。
まともな人なら、罪悪感で押しつぶされるでしょう。
愛のある性行為は、いろいろと与えてくれます。
相手に認められたという、幸福感。
互いに与え合う安心感。
愛する人がいて、その人と側にいるだけで、人って不思議な自信が湧いてきます。
相手が嫌がる行為をしたりするのは、性行為の問題でなく、その人がほかに持っている、精神的な何かが大きく影響しているのではないかと、のんびり死体は考えています。
ちょっと話は飛躍します。
愛情についてです。
よく「なろう」に出てくる、無条件に、もしくは簡単に愛される異世界人。
あれって、幼児性のあらわれなんじゃないかなぁと、なんとなく感じています。
自分を無条件に愛してほしい。
それは幼児の願いです。
俺は凄いから、愛されるんだ。
それは子供の思い違いです。
一方的に思いをよせて、それが成就する。
それは、恋ですね。
愛情について、のんびり死体はこう考えています。
相手を思いやり、互いに信頼しあうから、愛情って出てくるのです。
相手が笑うと嬉しい。
自分も笑っちゃう。
相手が疲れていたら、手伝ってあげたり、一緒に昼寝したり。
思いやって、相手のことを考えあって、いっぱい話して、嬉しくなってきたら。
そこに愛があると思うのです。
だから、性教育の前に、愛情について学ぶべきだと思うのです。
少なくとも自分の愛情とは何か、それが自分なりにできてから、性行為をするべきだと思うのですよ。
それを相手に受け入れてくれたら、初めて一人と一人が、二人になると思うのです。
それは年齢を重ねれば出来るようになるものではないです。
体の成長だけでは、わからないことです。
何年経とうとも、正しく学んで、自分で考えないとできないと、のんびり死体は思っているのです。