007 すべては陽炎のように消えてゆくけれど水たまりは残る
不毛の大地に無数の裂け目が走っている。
裂け目はそのまま切り立つ崖になり、大地を天然の曲輪に変えていた。そして幅広の石橋で結ばれた曲輪だけが、魔王城の正門へたどりつく通路になっている。
大軍を展開して攻め込むのは不可能な地形だった。
石橋には欄干や手すりがないので地上からだと見えにくいだろう。溶岩みたいな黒い岩塊もゴロゴロしている。
なんだよこの迷路。抜けられる気がしない。
――想像以上の隔絶地だった。
そして、城壁の下には混沌があった。
無数の魔物がひしめいている。数千は下らない。
いくつかの密集した群れに分かれ、怒声と金属の武具を打ち合う音が聞こえてくる。食い千切られたのか、ボロボロの死骸がいくつも転がっている。
仲間割れなのか。
すべてが混乱し興奮していた。
悲鳴とあざけり笑う声が同時に聞こえる。
とりわけ目立つのがサイに似た巨大な魔獣だ。体長十五メートルはありそうだ。
それが四頭、城門を目指してのしのし歩いてくる。背中には筋骨隆々の鬼たちが長槍を立てて騎乗している。
もしレティネと出会っていなければ、女神様が間違えて魔物しかいない世界を転移先にしたと思っただろう。
幸い城門は閉じている。外の魔物は入って来れないだろう。
だが、俺たちも外には出られない。
ここを正面から出るのは絶対無理だ。
塔に戻り反対側の通路に出た。
城壁はゆるやかに湾曲して岩壁に行き当たって終わっている。断崖のような城壁を下りることも、断崖そのものの岩山を登ることもできない。外に通じる道は見つからない。裏口、勝手口、搬入口、抜け穴、なんでもいいんだが。
これじゃあ食料やら革袋やらを準備しても意味がなかったか。
レティネを連れてどころか、俺だけでも脱出不可能だ。
城壁から下った広場に出てギョッとした。
大きな魔物の死骸が三体あった。
首と尾が長い爬虫類で翼竜のような翼がある。ほとんど無傷のように見えるが、身体の一部が黒くなっているので〈神力〉の余波で死んだんだろう。
マジ凄いな〈神力〉。
城壁に鎖につながれている。騎乗のための鞍がついたままだ。
そうか、これが飛竜か。ここは駐機場ってことなのかな。
生きてれば乗れたかもしれない。まあ、こんな怪物が俺たちを乗せるわけもないが。
――ぐぎゃぎゃぎゃぐぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃ――
――バサバサバサバサバサバサバサバサバサバサ――
うわ!
いきなりカラスの群れが飛び立った。思わず身構える。
いやカラスじゃない。黒っぽいけど被膜の翼があって、鉄釘みたいな歯がびっしり生えている。あれも魔物だろう。
飛竜の死骸の陰に潜んでいたようだ。柔らかい口の中に潜り込んで肉をついばんでいた。舌がほとんど食われてしまって無惨だ。
――じょろじょろじょろじょろ――
今度はなんだ?!
一頭の飛竜の尻尾の付け根から水が溢れていた。なんか湯気立ってるし。
飛竜の身体がぷるぷる震えてる。頭を翼の内側に隠してうずくまり、死んだふり失敗、みたいなポーズだ。
生きてた?
というか、怯えてる?
胴体だけでも馬より大きいような怪物が、いったい何に怯えているんだろう。
弱っているのかな。俺の視線を避けるように縮こまる。まるで俺が怖いみたいだ。そんな怖い顔してないよな、俺。
ひょっとして飛竜って臆病な魔物なのかな。
もしこれに乗れればずっと遠くまで行けるだろう。
空を飛んでしまえば迷路も断崖も関係ない。ただ、乗り方が分からない。乗馬の経験もないしな。あったとしても参考になる気はしない。
飛竜の装備を見ると、鞍は人型の魔物が使うタイプみたいだ。
「どうどうどう。よしよし」
なんで馬をなだめるときそう言うのかね。
飛竜に近付いて手を伸ばす。
こんな怪物に自分から触るなんて自殺行為だが、脱出に使えるかどうかここで確かめておきたい。腹を括ろう。
でも、ガブリと噛まれたらおしまいだ。飛竜って何食うんだろうな。肉食かなやっぱり。生きた人間が好物とかじゃありませんように。
鱗はがさがさで硬い手触りだが、ほんのり暖かい。爬虫類と違うのか。
ぐるんと曲げられている首を、ぽんぽんと叩く。
飛竜がビクッとする。
ぽんぽん叩く。
ビクッとする。
ぽんぽん。
ビクッ。
これは――ダメかもしれんね。
背中に装着された鞍は一人乗りだが大きい。俺とレティネが乗っても大丈夫だろう。賭けてみる価値はあるはずだ。
ちょっとビビり過ぎてるのが不安だけど。
――ズン!
足下がビリッと震えた。
地震、なわけない。きっとあそこだ。
城壁に上って見下ろすと、巨大魔獣が城門に体当たりしていた。
――ズン!
マズいな。余裕がなくなった。
城門は堅固だが、あんなのに連続タックルされたらいずれ破られるだろう。
急いでレティネを連れてこないと。
「なっ?!」
レティネの部屋は空っぽだった。
ベッドや敷物どころかトイレまでない。
あれ、部屋を間違えた?
あの子の痕跡がきれいサッパリ消えている。
――ズン!
「レティネ!」
「レティネ!?」
「レティネー!!!」
どこかの部屋に隠れているのか。
「パパー」
遠くで声がした。
回廊を走りホールに飛び出す。
レティネが〈玉座〉の間の鉄扉を潜り抜けてくるところだった。
「レティネ、そっちはあぶ――。いや、お出掛けの支度はできたかい?」
「できたー」
レティネはとことこ走ってくる。
俺の前で両腕を広げて立ち、くるりとひと回りする。
濃い青色のズボン、灰色革のショートブーツ。ブルーグレーのスモック風に、あごでひも結びになったビギン頭巾、キッズグラブまで装備している。
凄く可愛い。
けれど、これから何するか本当は分かってんじゃねーのなコーデである。
幼女おそるべし。
今度は俺がレティネの手を引く。
階段部屋に入るとき、レティネがふり返る。
何か聞こえたのかと思ったが、違ったようだ。
「部屋の物はみんな〈ポケット〉に?」
「うん。だってぜんぶ、パパとレティネのだもん」
全部って、おい。
引っ越しが楽でいいな。俺も交ぜてくれてありがとう。
しかし、収納魔法ってこれくらいが当たり前なのかな。俺の革袋も〈ポケット〉に入れてくれたし。まさか手ぶらになるとは。
レティネを背負って階段を下りる。
せめてこの子の重さくらいは、俺が引き受けないとな。
「パパひどい! とりさん、こわいって」
いきなり責められてしまった。
飛竜は壁面に貼り付くようにして固まっていた。
ワタシハ壁デス、みたいなポーズで。
てか怖がり過ぎだろ。失礼なトビトカゲだ。そんなだから幼女に鳥扱いされるんだよ。
「俺、何もしてないよ」
「パパのゆらゆらがこわいから、とりさんたてない」
「えーと、――ユラユラ?」
「パパからでてる。すっごくでてるー!」
何のことやら。
――えっ!?
――ウソ。なにコレ?
俺の全身から陽炎がゆらゆら、というかメラメラと立ちのぼっていた。
全然気付かなかった。
意識して見ると、さらにハッキリする。
中学の体育のプール掃除で友達とふざけて水を掛け合った後に、着ていたジャージからこんなのが出てたのを思い出す。天気よかったしな。それの凄い版だ。
まるで体臭がとんでもない人みたいだな。不安になって二の腕をクンクンしてみる。よかった、臭くない。
「で、これなに?」
「まりょくー」
「ま、魔力、だとー?!」
そういえば魔道具の部屋で見た魔力の放出もこんな感じだった。
けど俺には魔力なんかないはずだぞ。
俺は魔法が使えない、と女神様からも言われている。
魔力もなければ魔法の使い方も分からない。
元々魔法のない世界で生まれ育ったのだから当然だろう。
思い当たるとすれば〈玉座〉の間で莫大な量の魔力を浴びたから?
それとも女神様の〈加護〉の影響か。
「ゆらゆらけしてー」
「これって、消せるの?」
――じょろじょろじょろじょろ――
ああ。すまない飛竜よ。
メラメラよ引っ込め、と念じながら力んだら、かえって陽炎が盛大に噴出してしまった。まさか増えるとは。これは逆に力を抜かないといけないのかも。
深呼吸して気持ちを落ち着かせ、身体の力を抜いていった。
リラックス。リラックス。
緊張でずっと身体が強ばっていたのが分かる。
おお、だいぶマシになった。
心が平静だとあまり漏れ出さない。
こんな状況で平静を保つとか、結構ハードだな。
今ならへたり込んでいる飛竜から出てる魔力と大差ない。
飛竜は俺みたいに全身からではなく胸、おそらく心臓のあたりから魔力が放出されている。よく見ると頭にある短い角からも魔力が出ていた。
飛竜が壁面からずるりと剥がれるようにしてうずくまり、俺のほうに頭を低くのばした。いわゆる〈伏せ〉の姿勢だ。
これは服従のポーズじゃないのか。
つぶらな瞳をぱちぱちさせている。
おい、竜種の誇りはどこいった。それともただのトカゲなの?
「とりさんが、のせてくれるってー」
「うん。よかったねー。――えーと、こいつは〈ジョーロ〉。友達なんだよ」
「ありがとー、じょーろ」
白々しさ全開だがもう時間がない。
城門への攻撃音が聞こえない。魔物が城内に殺到しているかもしれない。
急がないと。
鱗に覆われた飛竜の首を安心させるように優しく撫でる。
そして首輪を城壁につなぐ重い鎖を外した。