135 ずっとずっと霧の中とか猫ちゃんもたいへんだな
真っ白だった。
というより、灰白色の世界だ。
思わず息を止めてしまったけど普通に呼吸できる。
五メートルほど進むと霧は薄まっていた。
そのことに気付くのが遅れたのは、景色が妙に白んだ灰色だったから。
光が散乱して陰影がない。
岩場だらけの渓谷の水は涸れている。森は崩れ果てている。草木もない。乾き切っていた。すべてが灰になってしまったような不毛な風景だ。
霧の外とはまるで違っている。
そして辺りは魔物の死骸だらけだった。
おびただしい数だ。
虫系。獣系。植物系。爬虫類系。ゴブリンやオークもいる。
どうしてこんなに集まったんだろう。
どれも死んで腐りかけた状態でミイラ化している。灰色のミイラだ。
精霊はこれを閉じ込めていたのかな。
死んだ魔物たちを。
ジャイアントベアーのミイラを調べる。〈魔力糸〉が役に立たないので魔力感知だけで探る。
魔石がない。取り出した痕もないから魔力を失って自然に消滅したのかな。
他の魔物も魔石がなくなっている。
魔力が抜けても魔石自体は残るはずなんだけど。それほど古いのかなこのミイラ。
「ヤマダ。精霊はいる?」
「ここには、おられない、です。やっぱり霧が、精霊、様――です」
「どうした、大丈夫か?」
ヤマダがよろける。
「――はい。平気――で――」
とてもそうは見えない。
えっ!?
ヤマダから魔力が流れ出ていた。
陽炎のように漂い出て、灰色の渓谷を流れていく。
周りの景色に気を取られていて気付かなかった。
まるで、湖に擬態した巨大な魔物トゥラパジェクが魔力を吸っていたときのようだ。
俺とレティネは無事だ。俺は意識すれば魔力の元栓を締められるし、レティネは〈深淵〉がなんとかしてるんだろう。
「ヤマダ、〈身体強化〉を強めろ。でも筋力強化はするな。魔力を身体の中で循環させるだけにしろ」
「や――やって、みるです」
戸惑っていたが、すぐに持ち直した。
ただこれでも流出そのものは止まらない。体内の魔力圧を上げて誤摩化してるだけだ。魔力消費が大きくなるので長くは保たないはず。
レメドの実を食べさせようか。
「ついて来て、ヤマダ」
「はいです」
ヤマダの魔力が流れ着く先を突き止めないと。
魔力なら俺にも感知できる。
灰色の谷を進むと、断崖の下に滝壺のような窪みがあった。
その奥に洞窟がある。
そこに魔力が吸い込まれていく。
あれほど転がっていた魔物のミイラが、窪みの周囲にはまったくない。
洞窟は岩壁の亀裂に砂利が堆積した天然のものみたいだ。
ここが霧の谷の中心らしい。
洞窟の中に何かいる。
はっきりと感じる。
あまりよくないモノだ。
「パパー?」「――アラタ?」
「うん。大丈夫」
猫がいた。
ガリガリに痩せた黒猫が、じっと座っている。
瞳が真っ赤だ。不気味な赤い陽炎が目から湧き上がる。
家猫くらいの大きさだが、水に濡れて体毛がぴっちり貼り付いたみたいな滑稽な痩せ方だ。
こいつは魔物か? こんなに小さいけど。
いや、小さいからこその異様な存在感だ。
ヤマダがまたふらつく。
魔力の流出が加速している。
この〈猫〉が魔力を吸い込んでいるのは間違いない。
たぶんこいつは〈試練〉とは無関係だ。
異物だ。この森に属するものじゃない。森の異変の元凶かも。
――シャァァアアアア――
〈猫〉が威嚇の唸りを上げる。
俺は〈猫〉をまるごと呑み込むほどの、強烈なゼロ距離〈魔力弾〉を連続生成する。
――ギュウッ!――
うそっ?
まるで感電したかのように〈猫〉が飛び跳ねる。だが、あまり効いてない。
普通の魔物なら一発で即死なのに。
魔族だって耐えられないはず。
少し痺れているのか、千鳥足になっている。
それなら。
「ごめん、レティネ」
レティネを背負ったまま一瞬で距離を詰め〈矢筒剣〉で首を刎ねる。
すぐに跳び退いてヤマダのところに戻る。
コロリと落ちた首は粉々に崩れ去り、黒い霞となって消える。
蒸発した?
首のない〈猫〉が逃げ出す。
トコトコと洞窟の奥に向かって。
不死身かよ。アンデッドなのか?
魔石を壊すしかないかな。でも魔石がどこか分からない。魔物とは違うのか。
洞窟は深くない。首なし猫はすぐに壁面にぶつかり、Uターンして戻ってくる。
「パ、パパー!」
うん。ちょっと怖い。
方向が分からないのか、堂々巡りに走り回る。
予測不能な動きだ。
とうとう大回りして俺たちのほうにやって来る。
こっち来んなー。
「ヤマダ、俺の後ろへ! レティネは目をつぶって!」
牽制の〈魔力弾〉で足止め。
クリスタルシェルターを〈猫〉にすっぽりと被せる。
俺たちにも三人用を被せる。
極小の超高温高圧火球を〈猫〉の位置に生成する。
ぎらつく輝きに〈猫〉が包まれる。
――ボンッ!――
被せたシェルターが白く濁る。
無数のひび割れが走って崩れ落ちる。
俺たちのシェルターは無傷だ。
これで消し飛んだかな?
が、シェルターの破片の下から、黒い霞が立ちのぼり渦巻いている。
焼却もできないとは。
こいつ、本当に生き物なのか?
――ギュイギュイギュイギュイギュイ――
軋むような音を立てて霞が凝集していく。
まさか再生? 思わず身構える。
突然ポトリと何かが落ちる。
シェルターとその破片をすべて消去。
落ちたのは魔石か?
いや、なんかグニャリとしてるし。
固まりかけの黒いガラスみたいだ。
握り拳くらいの大きさ。魔力は感じない。魔力を吸ってもいない。動き出す様子はない。
木の枝でツンツンしてみたくなるが、やめておこう。ヤバいモノなのは間違いない。猫の姿だったけど実はこれが本体とか? 今は仮死状態みたいな。
どうしようかな。
とにかく放置してよいモノじゃなさそうだ。
――仕方ない。
「レティネ。悪いけど――これも、しまってくれる?」
「はーい」
ありがとう。ごめんね。
真魔将ウルーラの言葉を信じるなら、レティネの〈ポケット〉は収納する物それぞれに別空間を作っているらしい。
もはや無限の宇宙だな。
おやつや絵本を入れておくには、あまりに贅沢な仕様だ。
それぞれの空間は独立した別世界ということだろう。危険なモノをしまっても、他の収納物には一切影響がないはず。
おそらく時間経過もないので事実上の完全封印だ。
複製した収納の腕輪に入れて丸ごと消去することも考えたが、腕輪の空間魔法が本当に絶縁されているか不明だ。後でそこらにひょっこり現れても怖い。
扱いに困る物、危険な物ほど〈ポケット〉収納が最適ということになる。
たとえば〈玉座〉とか。
いつかどこかの火口に捨てに行くまでは、レティネにお願いするしかない。
そんな都合のいい火の山が本当にあるか知らんけど。
危険物処理を幼女に頼りきりとか。やってることが魔族と変わらないよな、俺。
「アラタっ!?」
あれ? 霧が晴れてる?
日の傾いた空が見える。
「ヤマダ。精霊は、どうなった?」
灰色の谷をゆっくりと見回すヤマダ。首を横に振る。
霧は綺麗さっぱり消え去っていた。
「いない、です。――ここには、おられません」
用が済んだから去ったのか。それとも消滅したのか。
とにかく精霊には逃げられたようだ。
――変化が始まっていた。
あれほど凪いでいた魔力がゆっくりと流れている。
閉め切っていた部屋に少しずつ新しい風が入り込むように。
あまりに微細な変化だから、これまでの状態を知らなければ気付けないかもしれない。
「これは、いいこと、なんだよな?」
たぶん〈猫〉がいなくなったことで、なんらかの楔が外れたんだろう。
呪いが解けた、みたいな。古時計がまた動き出した的な。
「はいっ。――息を、している、です」
ヤマダの声が高揚している。
景色は変わらないけど、見えない息吹を感じているのかな。
森の異変の原因があの〈猫〉だったとしたら、このまま正常に戻っていくのかもしれない。でも、ただ取り除いただけでいいのかな。精霊がちゃんと何かの処置をする必要があるんじゃないか。これで終わりでいいのかな。
里のエルフたちにとって好ましい変化ならいいんだが。
「今日は――ここで見ていようか」
でも、ミイラの谷に一泊とか嫌過ぎる。
そんな肝試しはごめんだ。
山一つ隔てた斜面を整地し、いつもの家を出す。風避けの低い土の塀も作る。
今夜はなるべく起きて魔力の変化を観察しよう。〈魔力糸〉も周辺に常時展開で。
風呂を済ませ、夕食の準備ができる頃には、外はもう真っ暗だった。
「ありがとう、です。アラタ」
ベッドに横になっていると、ヤマダが俺の胸に頭を乗せてきた。
レティネは俺の腕に抱きついて眠っている。
「ん。――なんのこと?」
「おらを、守ってくれた、です」
いつも通りにしてるだけだよ。
確かに〈猫〉は手強かったかもしれない。ヤマダだけなら危なかったろう。
距離があるのに魔力を吸収されて動けなくなるとか。俺の〈魔力糸〉もほとんど無効化されてたし。うっかり近付くと行動不能とか。相性が悪いと初見殺しだ。
「霧になってた精霊はどうなったと思う? いなくなったのかな」
「精霊様は、あの、魔力を食う獣を、閉じ込めて、おられたです。きっと、長いこと」
「封じてたってことか」
「はいです。――使い過ぎて、お力を、失っておられるみたい、でした」
いつかの土の精霊ロアムと逆か。
ロアムは変質した魔石を持つ〈根の魔物〉に囲まれ、地下の遺跡に閉じ込められて力を失っていた。霧の精霊は谷に〈猫〉を封じ込めることで力を使い果たしていた。
「精霊は死んだりしないだろうけど、復活には時間が掛かるかな?」
「はい。たぶん。――何年も、かかるかもです」
あるいは何十年も。
今回はヤマダが精霊の〈加護〉や〈祝福〉を得るのは無理かな。他にも精霊がいればいいんだけど。そんなにポンポン出会えるならエルフも苦労しないよな。
ヤマダが俺の胸に頭をゴリゴリ押し付ける。
くすぐったいよ。なんの遊びだよ。
「でも、精霊様がこの森を、捨てたわけじゃなくて、おら、よかったです」
長期休暇に入っちゃったかもだけどな。
頭ゴリゴリに耐えられなくなったので、捕まえて絹糸のような髪を撫でる。
ヤマダが小さく息を吐いて身体の力を抜く。
なんだ、甘えてるのか。
やっぱり不安だったんだな。
〈試練〉に挑むということでヤマダも気負っていたんだろう。
レティネに内緒でよしよししてやろう。
周囲に展開している〈魔力糸〉で、クマさんらしき魔物が近付くのを感知。
弱い〈魔力弾〉で牽制して追い払う。
他にも夜の森をうろつく魔物がいる。
森が甦りつつあることを敏感に察しているのかもしれない。
「大丈夫だよ、ヤマダ。きっと今日のことも、里にとっていいように働くはずだ。そう信じていよう」
「はい。です」