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異世界のとある風景

いつまでもお慕い申しております

作者: ヒョードル

 わたし(・・・)の身体は穢れてしまっておりますか?


 (あに)さま。とうとうこの日がやって来てしまいました。


 わたしにはこれで良かったと思えるのです。


 あの日兄さまに声を掛けてもらえた事が、どれ程幸せだったことか。


 あの日兄さまに出会えた事が、どれ程わたしの人生を照らしてくれたことか。


 それだけで良いのです。


 きっと兄さまはもうどこにもいないのでしょう。


 いえ、兄さまはもしかしたらはずっと前からいなかったのでしょうね。


 それでいいのです。


 それがいいのです。


 わたしの身体は穢れておりません。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 (あに)さまはわたしが産まれる一年前に産まれたんだって。



 わたしがおうちの庭でお花を摘んでいると後ろから呼ばれた。


「おい。お前の家は僕の家よりも小っちゃい。だから僕の方が偉いんだ」


「君、誰なの?」


「質問はするな。分かったか」


 この男の子は誰なんだろう。でもわたしのおうちは貧乏だから。おうちは小さいから。パパがいないから。おうちの外ではいい子にするのよ、といつもママが言っていた。


 だからこの男の子にもそうしよう。


「うん。分かった」


「うん。ではなくて、はい。だ」


「うん」


「違う。はい、だ」


「うん……はい」


「よし。これからお前は僕の召し使いだ」


 ……メシツカイ?なんだろう。でも返事しなきゃ。


「う……はい」


「よし。僕のことは(あに)さまと呼ぶんだぞ」


「うん。あにさま。あ。はい」


 兄さまはそう言ってどこかに行ってしまった。


 次の日、庭で猫と遊んでいたら兄さまが来た。手に何か持っているみたい。


「おい、お前。これやる」


 兄さまが手を開けると蛙がぴょんと跳んできた。


「わっ」


 兄さまは笑っていた。ぴょんぴょん跳んでる蛙をつかんで帰っていった。


 何だろう。


 次の日、庭で泥んこ遊びをしていると兄さまが来た。手に小さなカゴを持っているみたい。


「おい。おはようございますは?」


 ああ、忘れてた。ママがいつもアイサツ忘れちゃだめだよって言ってたっけ。


「兄さま。おはようごじゃいます」


「よし。お前にこれをやる。蛙じゃないぞ」


 兄さまは帰っていった。今日はすぐ帰った。


 カゴの中はなんだろう。あ。猫だ。小さい猫。昨日遊んだ猫より小さくて可愛いな。


 でも、ママに言ってもいいのかな。平気だよね。可愛いし。


 さっき、ママに怒られちゃった。ご飯あげられないんだって。ごめんね。猫。


 次の日、おうちの前に立っていると兄さまが来た。今日は何も持ってないなあ。でも今日はわたしがあやまらなくちゃ。


「兄さま。おはようごじゃいます」


「うん。おはよう」


 兄さまはずっとニコニコしてた。何かいいことあったのかな。あ、そうだ。あやまらなくちゃ。


「兄さま。ごめんなさい」


「どうした」


「猫、可愛かったけどママがダメだって言うから返す。ご飯あげられないんだって」


 ごめんなさい兄さま。


 横にあるカゴを見た兄さまは顔を真っ赤っかにして持ってっちゃった。カゴをぶんぶんしながら歩いて行っちゃったから、猫平気かな。


 次の日、外にいたけど兄さまは来なかった。


 次の日、外にいたら雨が降ってきた。でも待ってたら兄さまが来た。今日は大きなカゴを持ってきた。


「兄さま、おはようごじゃいます」


「これ」


 兄さまは走って帰っちゃった。なんだろう。雨嫌いなのかな。今日のカゴは何かな。猫はもうダメだよ。あ。パンがいっぱい入ってる。やった。ママが笑うんだ。


 ママ、あんまり笑わなかったな。なんでだろう。パンいっぱい食べれたのに。


 次の日、体と頭が痛くて外に出れなかった。ママが頭に濡れた布を置いてくれた。気持ちいいな。


 ドアがトントンなってる。誰か来たのかな。兄さまが今日も来た。でも話せない。カゼっていうみたい。


 ママが兄さまと話してる。でもママが頭をずっと下げてる。いけないことをしたのかな。

 兄さまごめんなさい。カゼを食べちゃったみたい。


 次の日、まだ外に出ちゃダメだって。


 次の日、外で兄さまを待っていた。来ないのかな。


 次の日、外で兄さまを待っていた。今日も来ないのかな。


 次の日、外で兄さまを待っていた。もう来ないのかな。寂しいな。


 次の日、外にいくのをやめた。


 次の次の次の……たくさんの次の日。ママがいなくなっちゃった。大きなカゴの中にママが入っていて、たくさんのおじさんやおばさんに持っていかれちゃった。ママ、かくれんぼ?でもどうしよう。明日のパン、もうないんだっけ。


 次の日、おうちにいると兄さまが来た。なんか嬉しいな。あれ。なんかちょっと大きくなってる。わたしも嬉しいな。でも兄さまは笑ってない。なんだろう。久しぶりに兄さまに会えたのに。


 兄さまは私をギュッとした。ママがやってたみたいに。兄さま、泣いてるよ?どこか痛いの?



「兄さま。おはようございます」


「……うん。おはよう」


「兄さま。やっと会えた……です」


「今日からお前は妹だ」


「うん。はい」


「意味分かるか?」


 妹?兄さまは兄さまだもんね。他の家もそうだよ。だからわたしは妹だよね。


「う……はい」


「ならいいよ。じゃあ来い」


 おうちにカギしなきゃ。兄さまはわたしの手を握ってどんどん歩いてく。兄さまの手、ママみたいであったかいな。でもどこに行くんだろう。おうち、見えなくなっちゃったよ?


 大きいおうちが見えた。兄さまはそのおうちの前で手を離しちゃった。もうちょっと手を繋いでいたかったのにな。


「今日からここがお前の家だ」


「違……います。ここわたしのおうちじゃないです」


「違わないんだ!ここがお前の家なんだ!」


 兄さま、まだどこか痛いの?濡れた布、頭に置こうか?


 ママ早く帰ってこないかな。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 私が(あに)さまの家に招き入れられてから十年が経った。


 兄さまは妹と言ってくれたが、その実使用人であり召し使いであった。父さまからはどこの馬の糞だと罵られ、母さまからはいちいち文句を言われ夜遅くまで縫い子をさせられた。


 しかし兄さまだけは私を妹として扱ってくれ、忍びながらも目を掛けてくれていた。


 兄さまの家は商売を広くやっており、町の中心に門を構えている。あまり町の見聞は知らないのだが、瀟洒(しょうしゃ)な衣服を着ることが赦されない私にさえ、買い出しに出ればすれ違う人が額突(ぬかず)くので名は通っているのだろう。


「おい。後で私の部屋に来い」


 夕食の片付けをしていると父さまから言われた。まただ。


 私は一年前から父さまと(ねや)を共にすることがあった。


 私が十五になった時。同じ言葉を言われ父さまの部屋に行くと、有無を言わさず組倒された。抗おうとしても「拾ってやったのは誰だ」と耳元で言われ、陵辱されるがまま未通女(おぼこ)を捨てた。


 父さまに組み敷かれる度、必死に兄さまの顔を思った。それだけが私の救いであり、私の逃避先だ。兄さまに知られていないことばかり祈った。だからこそ一度たりともよがらなかった。


 私は穢れたと思う。兄さまにだけ純心を捧げると決めていたから。


 ある日、兄さまが突然言った。


「私、兵に志願します」


 今隣国と戦争が起きているらしい。兄さまは商家を捨てお国に身を捧げるそうだ。


 私は泣いた。私は泣き叫んで兄さまを止めた。この時ばかりは父さまも母さまも同じ意見だった。


 何故いなくなるの?私を捨てるの?


 無駄だった。兄さまは一言だけ残し立身を夢見て旅立っていった。


「男は家の盾になる者。今は国が家だ。女は中から支える者。お前もそうなってくれ」


 中から支える?


 この家の事?


 それなら兄さま。無理なご相談です。私の主人は父さまでも母さまでもこの家でもありません。他ならぬ兄さまだけが主人でございます。


庭で花を摘んでいた日から兄さまが私の主人です。


庭で蛙を飛び出させた日から兄さまが私の主人です。


庭で子猫を貰った日から兄さまが私の主人です。


庭でパンを貰った日から兄さまが私の主人です。


母親のように抱き締めてくれた日から兄さまだけ(・・)が私の主人です。


母親のように手を曳いてくれた日から兄さまだけ(・・)が私の主人です。


 兄さまは行ってしまわれた。


 私の身体はもう穢れてしまっております。


 私はそれでも、兄さまをお慕い申しております。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 あたしの横で大鼾をかいて寝ているのは誰?


 この無精な男が(あに)さまだったらいいのに、といつも(・・・)思う。


「もういい加減起きなよ。臭くてたまらないよ」


 あたしはつい怒鳴った。隣の男が兄さまだったらいいのに、という夢が崩れる度にいつも苛立つ。


「ああ。済まない。久しぶりの帰郷で気が緩んじまっててさ。明日は登城の日だからもう行くよ」


 無精髭を無惨に生えさせた隻腕の兵士に、あたしは手を出した。


「はい」


「やっぱり銭取るのかよ」


「ん」


 私は手を戻さない。ずる賢くて卑しい男だ。


「ん!」


「分かったよ」


 私の目の前に金貨が数枚投げられた。


「まいど」


「お国に身を捧げたせいで腕を無くしちまった俺にやけに冷たいね」


「仕事だからね。あんた達兵士は通常の半額なんだ。喜ばれる道理はあっても妬まれる筋合いはないよ」


 あたしは金貨を雑に取り上げた。これでやっと新しい化粧着(ネグリジェ)と紅が買える。


「しかしお前さん、本当に美人なのに声ひとつ出さないのな」


「まいど」


 隻腕の男は「つれねえな」と言って帰った。


 あたしは寝床(ベッド)に横たわり、目を閉じた。兄さまが出て行った日が昨日の事みたいだ。


 あたしは兄さまの家を追い出され、国に身を捧げろと言われ兵舎近くの娼館に売られた。


 自分の器量は分からないが高額だったと聞いた。あたしがここに来てもう九年になるが、家が経営不振で潰れたと風の噂で聞いた時は舞い上がって喜んだものだ。


 兄さま。


 つい口から出てしまう。


「あ、終わったね」


 隣の部屋の下品な女があたしの部屋を覗いてる。


「またあんた?あたしと話してる暇あったら次の客を呼びなよ」


「いいのいいの。いくら兵隊さんが格安だからって今はあんまり兵舎にはいないんだから」


頭領(ママ)に怒られるわよ」


「別に構わないわ。私達なんていなくても同じよ」


 この女、よくもぬけぬけと言う。だからあたしは下品で嫌いなんだ。


「あんたね。勘違いしてない?」


「何よ急に」


 教えてやる。あたしがここにいる理由を。


「男は家の盾なんだ。女は家を支えるんだ。今は国が家なんだ。だからあたしらが兵達(あいつら)を支えるんだ。立場は違ってもそれが娼婦(あたしら)の役割だろ」


 あたしは下品な女に金貨を投げつけてやった。化粧着(ネグリジェ)は諦めよう。だって兄さまの意思を馬鹿にされたようだから。


 女は「つれないね」と言って金貨を拾って帰った。


 あたしは孤独だ。男といくら肌を重ねても虚無感が消えない。


 兄さま。どこにいますか。


 今どこで何をしてますか。


 ()は正しいのでしょうか。間違っているのでしょうか。


 私はどこに行けばいいのでしょうか。


 ここにいれば兄さまと会えるかも知れないと期待して、ここで兄さまと会ってはいけないと悲観もして。


 兄さま。もしですよ?


今ここで私と会ったら、いつかみたいにギュッてしてくれますか?


今ここで私と会ったら、いつかみたいに手を繋いでくれますか?


今ここで私と会ったら、いつかみたいにただ笑ってくれますか?


 私の身体はもう穢れてしまっております。


 でも兄さま。前みたいにひょっこり現れると信じて、せめて顔だけでも、せめて衣服だけでも綺麗にしてお待ちしております。


 私は変わらず、兄さまをお慕い申しております。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



 あたしの話を聞きたいって?


 ふん。なら銭置いていきな。一枚でも百枚でも構わないよ。


 どうせ下らない悪評を聞いてやってきたんだろう。冷やかしでも銭置いていくなら奉仕するよ。


 しかし酔狂だねあんたも。遠い大陸から来なすったのかい。


 戦争は終わったんだろ。なんでこんな場末に来るかね。


 え?不感のマダムだって?そう呼ばれているのかい。


 それは違うね。いいや、マダムって言葉さ。


 まだあたしは現役よ。確かにここに来てから十五年さ。


 齢三十過ぎりゃ人生折り返しさ。


 はん。あんた世辞がうまいね。どこをどう見たら二十歳そこそこに見えるんだい。おだてても銭は取るよ。


 女はね、いくつになっても綺麗でありたいんだよ。


 だからあたしは毎日下ろし立ての一張羅さ。


 紅や白粉(おしろい)や香油なんかも上等品よ?


 不感?それは教えられないね。


 (あに)さまに会えたら教えてあげるわ。


 ふふふ。秘密よ。秘密のない女は魅力半減なのよ。


 本当かい?それは本当に嬉しいね。


 特別金貨半分でいいわ。ええ。構わないわよ。


 もう知ってる人は少ないわ。あたしら稼業はあがるの早いから。


 昔ね、王様が特例を出したのよ。戦争中は兵士の士気を下げないために、兵士の奉仕代を半分にしなさいって。


 何故半分でいいかって?


 そうね……。


 どうしてかしらね。


 本当に……どうしてだろう……。


 あんたの……貴方の声が……兄さまに似てるから……。


 ごめんなさいね。どうしたのかしら。本当にどうしよう……。


 あれ?


 あたし、人様の前では絶対に泣かないのに……。


 ……本当に……ごめん……なさ……うっ……。


 ……いえ……違い……ます……から……。


 ごめんなさい。金貨要らないから帰ってちょうだい。


 お願い。


 お願いだから……帰って。


 お願いよ!帰って!


 ……。


 帰ったか。


 帰っちゃったか……。


 帰るわよね……。


 帰らないでよ……。


 ここにいてよ……寂し過ぎるよ。


 寂し過ぎますよ(あに)さま。


 兄さまは一度もいらっしゃいませんでしたね。


 でもいいのです。その方が良かったのかも知れません。


 ()はまだここにいますよ。


 いつか兄さまが来ると思って。


 おそらく兄さまが来ても私だと気付かないでしょう。


 おそらく兄さまと会っても私は気付かないでしょう。


 でもそれでいいのです。それがいいのです。


 私の目に、私を召し使いと呼んだ兄さまがいます。


 私の耳に、私を妹と呼んだ兄さまの声が聞こえます。


 私の目に、私を見て泣いて下さる兄さまがいます。


 私の耳に、ここが家だと言った兄さまの声が聞こえます。


 私の身体はもう穢れてしまっております。


 でも兄さま。今日兄さまの声によく似た方がいらしたんですよ。もちろん別人ですが、その方にだったら、って思ってしまいました。


 でもいつの日か兄さまに私の本当の悦びの声をお聞かせしたいと思っています。


 私はこれからも、兄さまをお慕い申しております。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「おい。あんた、死ぬときもここかい」


 あたしの目の前に初老の男が立っていた。


 無精に生えさせている髭は無惨だった。


 隻腕の男は杖を付きながらあたしに金貨を渡した。ゆっくり手を握るように。


「もう金貨は要らないよ。それにあんたの死に顔が見れなくて残念さ」


 だめだ。もう息が続かない。


「不感のマダム。あんたには世話になったからな。あんたのお陰で戦争が終わっただなんて言う奴もいたぐらいだ。ありがとう」


「歯が浮くね」


「悪態も変わらねぇな」


 こいつもよく言う口だ。あたしなんかまだましだった方だと思う。


 しかしこいつも歳を取ったなと思う。何度も相手をしたが、あの強靭な肉体はないだろうな。


「今日は何?」


「マダム。今日歩けるか」


「少しなら」


「なら悪いが、表に来てくれるか」


 この無礼な髭面はいつもぶっきらぼうだな。まあ今日は暖かいし、多少歩けるのは事実だから歩こうか。


「よいしょ」


「手を貸す」


「よしな。あんた、杖持てないだろ」


「いや、貸す。頼むから今日はこうさせてくれ。金貨も落とすなよ」


 何を訳分からない事を言うんだこいつは。


 ゆっくり一歩づつ歩くのがやっとだ。あたしも杖が無くてはもう歩けない。


「外だ」


「何があるんだい」


 外に出たあたしは目を疑った。何だこれは。何だこの幌馬車の数と人だかりは。あり得ない。ここは使われなくなった兵舎が近くにあるだけの場末じゃないか。


「これは一体何だい」


「不感のマダム。あんたが相手をした昔の兵達だ」


「どうしてこんな……」


「あんたに救われた人が多いって言っただろう」


「冗談は勘弁さ」


 気持ち悪い程皆あたしを見ている。どれも見覚えのある顔だが。


 では一体この幌馬車は何だろう。よく見ると派手な衣服やら宝石や色とりどりの草花が積まれている。


「戦争が終わった理由は、不感のマダム。あんただったんだ」


「どういうことだい?」


「ここにいる全員、皆あんたに恋をしていたんだ」


「娼婦にとっちゃ日常だよ」


「いや。あんただけなんだ。あんたの顔が、神々しいぐらいまでに恋をしている少女の顔だったんだ。例え声がなくても、皆があんたに会いに行った理由はそれさ」


 あたしが恋をしていた?


 当然だ。あたしには……。


「それで?」


「戦場で死んだらマダムに会えないだろう。だから皆が剣を振り盾ををかざした。あんたに会いたいから皆が必死になった。俺もその一人だ」


 そこまで言われてしまうと嘘に聞こえる。何せあたしは「不感のマダム」とまで呼ばれたのだから。床を共にして楽しい筈がなかろうに。


「本当の事を言いな」


「本当さ。だからこうして六十になったあんたを祝おうと思って皆が来たんじゃないか」


 そうか。あたしはもう六十歳になるのか。歳を数えるのはとうに忘れた。


 あたしの目の前に知った顔の老人が歩いてきた。確かに終戦当時の騎士団長だった筈だ。


「ご無沙汰、不感のマダム」


「知らないね」


 老人は笑っている。嘘が分かったのだろう。


「ここに貴女がよく買われていた衣服や化粧品、宝石をお持ちしました。今日は特別価格ですよ」


「ぼったくりじゃないのかい」


「いえいえ。今日はこの全てを金貨三枚で提供致します」


 あたしを馬鹿にしているのか。もうこんな服や宝石や化粧品なんか要らないというのに。それとも全財産を奪う気か。


「おや、今日は金貨お持ちですね?しかもぴったり三枚。お買い上げしますか?」


 隻腕の男を見ると、あいつ泣いている。無精髭に涙は似合わず滑稽だった。


 あたしも釣られそうになるが、耐えた。


「ああ、そうしようかね」


 金貨三枚を元騎士団長に渡し、あたしは隻腕の男に連れられ寝床(ベッド)に戻った。


 相変わらず無精髭が震えている。やめてほしい。あたしが泣きたいぐらいなのに。


「……ありがとう。あたしはもう眠るよ。あんたもお行き」


「ああマダム。ゆっくり寝てくれ。素敵な少女よ」


 外から馬の嘶きが聞こえた。


 わたし(・・・)の身体は穢れてしまっておりますか?


 (あに)さま。とうとうこの日がやって来てしまいました。


 わたしにはこれで良かったと思えるのです。


 あの日兄さまに声を掛けてもらえた事が、どれ程幸せだったことか。


 あの日兄さまに出会えた事が、どれ程わたしの人生を照らしてくれたことか。


 それだけで良いのです。


 きっと兄さまはもうどこにもいないのでしょう。


 いえ、兄さまはもしかしたらずっと前からいなかったのでしょうね。


 それでいいのです。


 それがいいのです。


 わたしの身体は穢れておりません。たくさんの衣服。きらびやかな宝石。色とりどりの草花。どれを着飾ろうか迷いますが、もしかしたらもう身に付けなくてもよいですか?


 わたしは兄さまを、いつまでもお慕い申しております。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 他にはない感じの物語で新鮮で面白かったです! [一言] お兄さんは結局どうなってしまったのでしょうか……?戦死してしまったのでしょうか……?
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