予期せぬ事態2
車のドアが閉まる音がして佐伯が振り返ると、見覚えのある車。運転席から降りてきたらしい人物は足早にもうこちらに向かってきていて、今まさに降りた人は、あきれ顔。向かってくる匠の無表情に不思議そうな顔をしてから、助手席の脇に立ったままこちらに頭を下げた市江を見た。几帳面そうな雰囲気の市江は、匠と一緒にいて絵になると言われるほどに整った容姿をしている。そしてあの時永匠のスケジュールを見事に管理してのける有能さは他の人間では代わることができないだろうと思わせられる。きっと時永匠は自分で自分のスケジュールくらいなんとかできるだろうけれど、商売柄周囲との調整にはワンクッションあった方がいい。
ただ、佐伯は匠と真緒の関係を知らないから不思議そうな顔のまま、目の前についた匠を見上げる格好になった。
「どうしたの。時永君もここで何か撮影?」
「いえ」
言葉少なに応じて、その視線は今カメラが回っている方に向けられる。
その視線を追って、佐伯が向けた眼差しに気づき、匠は眼を細めた。プロがプロを見る目。この人は、認めている。
「時永君もあの子、知ってる?この町の子」
変に言い繕えばなおさらおかしな勘繰りをされる。あっさりと匠は頷いた。
「幼なじみです」
「……」
驚いたような目を無言で向けられ、匠は肩をすくめた。
「少し前の撮影で再会したんです。それまで僕はここで撮影をしたことなくて。佐々木さんに教えてもらったんですよ。あの子が出るって」
「それで心配で駆けつけた?時永匠が?」
「そんな人聞きの悪い響きですね。僕って薄情に見えますか?」
「薄情って言うんじゃなくてね。あえて言うなら人当たりはいいけど執着はないというか」
「分かる人には分かるんだな、匠」
いつの間に来ていたのか、笑いを含んだ声で言った市江に佐伯は驚いた目を向ける。二人とも、それほど親しく言葉を交わしたことはない。
「すみません、現場に急にお邪魔して。時永が急に来たりしたら迷惑になるって言ったんですけどね。珍しく気にかけている子を巻き込んで後でばれるのも怖いからって佐々木さんが僕に連絡をくれたんですよ」
「それで知っていたのに言わないで自分が悪くなるのもいやで、教えてくれたんですよね?」
「そう、棘のある言い方するなよ」
掛け合いのようなやりとりに目を丸くしながらも、とりあえずは佐伯にもここに時永匠がいる理由は分かった。
自分で連れてきて周りを乗せておきながら、怒りそうな人間がいることに気づいて予防線を張ったわけだ。佐々木律が。
「時永君にそんなご執心の女の子がいるなんて世間にしれたら大変ね」
「ご執心……というと語弊がありますね」
そう言いながら撮影に向ける目は気遣わしげだ。こういう場に慣れているわけもなければ、そもそも興味があってこちらを目指しているわけでもない。演技なんてしたこともない人間が急に巻き込まれている。心配にならないわけがない。
「心配?」
「心配ですよ。できるかどうか、じゃないですけど」
「え?」
「あの子が引き受けると決めて、周囲が頼むと決めたなら、そういう心配の必要はないです」
「じゃあ何が?」
「何でしょうね?」
やわらかい口調で応じながらもスタッフ達の背中の向こうで進んでいるはずの撮影に気をとられている匠を見上げ、佐伯はそのうち口元に笑みを浮かべた。
時永匠は、いい男だと思う。業界の中にもファンが多い。同業者でも、黄色い声が上がる。ただ、幸い自分はこういう話を聞いて嫉妬をするような立ち位置にはいない。だから彼もこうして話してくれているのだろう。
「時永君、ちょっとこっち」
「はい?」
離れがたそうにしながらも、佐伯の招きに応じて後に続く。問いかける市江の視線に、佐伯は頷いた。それを受けて一緒に市江も歩いてくる。
少し下がったところにある器材の方に行き、佐伯はそこにいたスタッフに声をかけた。
「はい?え……時永さん!?」
「珍客にあれ、見せてあげて。カメラテスト」
「はい……でも」
うかがうように撮影中の監督の方をうかがう。この撮影に時永匠は部外者だ。それに見せることに抵抗があるのだろう。
「大丈夫。ちゃんとわたしが説明はするから」
そうまで言われれば断るものでもない。
「あの子がこれをやるかやらないか。決めるために1シーンだけテストしたの。それよ」
「……セーラー服」
「そこ?あの子も、そこに引っかかったのよね」
「いや、いやがっただろうな、と思って」
そう言って笑った匠の顔を珍しそうに佐伯と、そしてそこに居合わせたスタッフは見る。こんなに柔らかい表情をする人なのか。
けれど、すぐにその表情が真剣なものに変わった。役者の目。それにかわったと佐伯には分かる。
映像の中で真緒にほとんど台詞はない。絞られた音量で聞こえてくるのは、佐伯の台詞がほとんど。佐伯の演技が真緒の表情を引き出している。佐伯が引っぱっている。でも佐伯にそれだけの演技をさせているのは、する気にさせているのは真緒。そして見事なまでに応じているから、佐伯はなおさらに入り込んでいっている。
「見事なもんよ。この集中力。それに役への感情移入。言われてその場だもの、役作りなんてできるわけもない。でも、感情はそこに入り込んでた」
「……そう言えば、本読むの好きだな」
「なるほど」
本を読んで、そこに出てくる誰かに感情移入して読むこともあるのだろう、多いのだろう。
「素人に台詞いきなり言わせたって、そうできるもんじゃない。そんなことでテストしたって意味がない。でもこれで、見たいものは見れた」
「あそこにああして、いるわけだ」
妙に納得したような声音で、頑なな表情で佐々木律から体ごと目を逸らした真緒に匠は目をやった。まさに演技の最中。きっとここに自分がいることにも気づいちゃいない。
小さな画面の中の、セーラー服の少女はやけに姿勢が良くて見ている方まで背筋が伸びそうになる。長い黒髪を背中に流して儚げに見えるのに、その姿勢の良さが一本しっかりと通った芯を感じさせる。そして、今演じられているのはその少女の数年後。一本通った芯は変わらない。
「まあ、名前は出せないんでしょう?」
真緒がそれを認めるはずがない。
佐伯は苦笑いで肩をすくめた。
「さすがよくお分かりね。よくあるでしょ、エンドロールに。『○県○町のみなさん』って。あれで一括りでって条件よ」
「間違っちゃいないですね」
「問い合わせくるわよ」
「名前が出ている中の、誰かなんだろうときっとみんな思いますよ」
見事に、真緒が言ったのと同じように応じたのを聞いて、佐伯は呆れて笑ってしまった。なるほど、幼なじみか。と。
「もうすぐ一度休憩に入るから。そしたら向こうに行きましょう」
言ってから、ふと立ち止まって振り返る。
「あ、でも。もし幼なじみに会ってせっかく入り込んだとこから出てきちゃうなら、連れてけないわよ」
「大丈夫ですよ」
にっこりと笑った人当たりのよい顔に佐伯は頷く。この人当たりのいい青年が、この仕事に関してたとえ自分が関わっていない撮影でも不利益になるようなことをするはずがない。見事なプロ意識の持ち主なのだから。
ただ、匠の方は、もしそうなってもまた戻せばいいんだ、と思っていたのもあるのだけれど。そのくらい、いくらでもできる。