迎えに行ってやるよ
駅の改札を出て時計に目をやった真緒は、軽いクラクションの音に顔を上げた。そこに「真緒」と声がかかる。
振り返ると赤いミニが止まっていて、窓から匠が顔を出していた。手招きをされて歩み寄る。
「時永さん。どうしたんですか」
他人行儀な呼び方に匠は眉根を寄せた。乗って、と行ってその手元を見ると荷物が大きい。楽器のようで。そういえばサークル帰りだと律が言っていたか。
「何、その他人行儀な呼び方」
助手席に乗り込みながらそう言われて、ちゃんと腰を落ち着けてシートベルトをしてから真緒は振り返った。コンパクトなイメージのある車だけど、車内は広いんだな、とそんな感想をのんびりと思い浮かべながら首をかしげる。
「だって、たくちゃんって呼んだらこの年になってそれは、って言うから」
他の呼び方は思い浮かばない、ということか。
匠はため息をつきながら車を発進させた。普段より少し運転が丁寧だな、と気づいて口端を上げる。妹のような相手を乗せたら丁寧にもなるものなのか。
「さっきの質問の答え。こんな遅い時間に帰ってきてるっていうから、迎えに来たんだ。で、話の続き。他にいくらでも呼び方あるだろ。呼び捨てでいいよ」
「迎え、ありがとうございます。でも明日の朝大丈夫なんですか?」
「だから何でそう、急に他人行儀」
「あ」
確かに幼なじみ。でも、ブランクが長いのだ。有名人になっていた幼なじみはなんだかやっぱり知らない人のようでもあって、そうするとなんだか知り合ったばかりの男の人のようで、ついそんな風になってしまう。
と、真緒は思ってもそれをどう言えば分かってもらえるのか。あまりにも当たり前に匠が接してくれるから、そんな風に緊張しているのは自分だけのような気がしてしまう。
「明日の朝は大丈夫だよ。仕事柄不規則なのは慣れてるし」
「それは安心するところではない気がする」
独り言のように呟いた真緒の突っ込みの言葉に匠は笑ってしまう。
そういう「当たり前」の心配をするのか、と。この業界にいれば、まあ休める時に安めは鉄則だが、不規則であることに慣れていなければ使い物にならないと思われそうでもある。
「それより、真緒。ほら、呼び捨てでいいから呼んでみ?」
どうしても呼ばせたいらしく匠に言われて真緒は困った顔になる。
「だって年上の人、そんな風に言われても気安く呼び捨てになんてできない」
「……制服着てるような子にも、俺らは呼び捨てにされてるけどね」
「だってそれは、そういう名前のキャラクターってことでしょ?今わたしは面と向かってるんだもん。それはちゃんと感情も意志もある、一人の大人の人でしょ?」
「なるほど」
なぜか頬が緩むのを感じながら、この、自分の感覚に忠実なマイペースな幼なじみを匠は横目に見た。
「じゃあ、それは今度でいいや」
「今度でって、諦めないんだ」
「なんで?」
「なんでって……」
今、なんらかの呼び方に決めたらおそらくその呼び方に慣れてやっぱり呼び捨てにはできない気がするし、そもそも「今度」があるのか、という言葉は真緒は飲み込んだ。なんとなく、その台詞はこの幼なじみを怒らせる気がして。
「サークルって、何?」
「オーケストラ」
「へぇ」
思わず真緒の顔を見てしまいながら感心した匠は、目を前に戻しながらその端正な顔を緩ませた。そういえば、自分がよく知っていた頃の真緒も、音楽が好きだった。外で遊び回っていても、その習い事は欠かさずに行っていたし、家で練習している音も聞こえてきていた。オーケストラというからには、また別の楽器なのだろうけど。後ろにあるあれか。
「……たくちゃん」
「戻ってる」
「だって、時永さんって呼ぶとよそよそしいっていやな顔するし」
「まあそれでいいや。他にそんな呼び方するやつ、いないし。真緒だけだ」
なんだかその言い方に思わず匠に向けていた目を真緒はそらしてしまう。
無意識に出た言葉だったけれど、そんな真緒の反応に新鮮な思いをまた抱きながら匠はくすくすと笑った。律にはああ言ったけれど、この調子では「決まった相手」などいないのかもしれない。今どき、この年でこの反応は実に新鮮。
自分の生活している環境のせいかもしれないが、というのはちゃんと頭の片隅にはあるけれど、計算したのではなく自然に出てきた言葉にもう一つ自分には新鮮な驚きがある。
律の含み笑いが浮かんで来たけれど、こちらが笑っているのに向けた真緒の困ったようなふてくされたような顔にさらに笑ってしまう。こんなに無防備に、計算のない顔を自分に向ける女性は珍しい。悪い意味ではなく、よく思われようという計算をしている相手ばかりで。
「ごめんごめん、何言いかけた?」
「……うん。有名人になってるのに、なんで幼なじみってだけでこんな風にかまってくれるのかなぁ、と思って」
「有名人、は関係なくて、幼なじみだからだろ」
「うん。でも、忙しいだろうし、久しぶりに思いがけず会えて、かまってもらえるのはうれしいけど」
「それでいいだろ」
あっさりと言われて真緒はそれでって?と問うような目を向ける。
あまりにも分かりやすくて笑ってしまいそうになりながら匠は真緒の方に携帯を二つ渡した。
「というわけで。それ。そっちがプライベートでそっちが仕事用。両方真緒の携帯に登録しといて。で、両方に真緒の登録しといて」
「え」
「ほら、俺運転しててできないんだから」
促されるまま、理由を聞きたそうにしていたのも忘れて作業をする真緒を見て、匠は内心苦笑いをする。
変わっていなければそうだろう、と思ってのことだったけれど、やはりか。と。
こんなにも無防備で、心配になる。
そういう部分を都合良く自分が誘導しておいての言い分ではあるけれど、大丈夫なのか、と。他の男にもそんな風に言われるままに連絡先を教えてしまったりしたら危なっかしくて仕方ない。
「できたっ」
不器用な様子で使い慣れない携帯の操作をしていた真緒が、達成感なのか無防備な笑顔を匠に向ける。その笑顔にまたつられて笑顔になるのと同時にさっきの懸念がさらに広がる。
「お前ね、言われるままにそんなに簡単にプライバシー教えちゃだめだろうが」
「え」
「俺だからいいけど、真緒にとって安全とは限らない相手だっているだろ」
「いや、そういう心配はないし。というか、今やれっていったのたくちゃんなのになんで叱られないといけないの」
「忠告してるの。もう少し警戒心を持ちなさい」
「納得いかない~」
ふくれた真緒の顔を見て、赤信号で止まったのをいいことに、その頬を手で挟んだ。からかうような仕種だけれど、笑っている口元とは裏腹に目が笑っていない。しかも、その状態で目を合わせたまま逸らさせてもらえない真緒の方の緊張は並大抵ではない。
「素直に年長者の忠告は聞くもんだ、真緒。気をつけるって言わないと離してやらないぞ」
もうすぐ家に着く。どうせ車通りなんてほとんどない。信号が変わっても気にする必要はない。
本気だと見て取って真緒は動かせない首の代わりに目で頷きながら、うまく話せない口で分かった、分かったと重ねて言う。
満足げに手を放した匠を恨めしそうな上目遣いで見ながら、「たくちゃんのいじわる~」と、ずいぶん懐かしい台詞を言ってくれる。
その目もやめてくれ、と思いながらその言葉は飲み込んだ。
これは保護者意識なんだよな、と思いながら、口を引き結んで匠は考えるような目になる。律の台詞。もしかしたら否定できないのかもしれない。
しかもまた、この新鮮すぎる反応と、いちいち自分が楽しんでいる状況がさらに事態を転がしている気もする。
いやいやいやいや。この期に及んで自覚なしにそれか。この俺が?と、自問自答してみるも、そう思っている時点で手遅れだとはまだ思いたくない。
匠は深く息を吐き出した。
こいつにいろんなことを自覚させたりするのはきっと一苦労で、しかも今みたいな部分をなくすのももったいないと思っている自分がいる。
振り回される。
確実に振り回される自分が見える。
そう思いながら、それをまた楽しみにしている。
「真緒。連絡は取り合えずプライベートの方に入れろ。つながらなければ仕事用に」
「連絡?」
「アドレス交換ってそのためにするんだろうが」
「うん?」
釈然としない様子の真緒に、これはこいつからは連絡寄越さない気がするな、と。いつになったら当たり前のように寄越してくれるようになることか。まさか俺が、女からの連絡を心待ちにする日が来るとはな、と自嘲しながら匠は言葉を重ねた。
「せっかくまた会えて、どうやらガキの頃と変わらずうまくやってけそうなんだし。また音信不通になることもないだろ。俺からも連絡するけどな。まあとりあえず撮影中は顔会わせられるけど」
うん、と頷きながら真緒は困った顔になる。
確かに携帯を持ってはいる。ただ、携帯不携帯は日常茶飯事で、用事がなければ連絡をそもそもしないのだ。用事がなくて何を連絡すればいいのかが分からなくてできなくて、そうしているうちになおさらきっかけを逃していくのがパターンで。
難しいこというなぁ、とは思っても口には出さない。顔には出ていてしっかりと読まれているとは気づいていなかった。
「ありがとう、たくちゃん」
家の前で下ろされて、あいた助手席の窓からのぞき込んでもう一度お礼を言う。迎えのおかげで助かったのは事実。
「どういたしまして。俺がいる間は、撮影と重ならない限り迎えに行ってやるよ」
「え、でも悪いよ」
「帰りの心配してるよりよほどいい」
「保護者だなぁ」
「あほ」
笑って言われた「あほ」は、なんだ優しく響いて、真緒は笑ってしまった。
「じゃあおやすみなさい。明日もお仕事がんばってね」
「ああ、おやすみ」
誰かとこんな風に「おやすみ」の挨拶をするのはいつ以来だろう。
名残惜しげにゆっくりと静かに車を出しながら匠はふとそんなことを思った。