↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

「お前の仕事はただ海を見ているだけだろう」と婚約破棄されましたが、三十年分の潮位記録は私が書いたものですので、どうぞそのまま高潮の日に式をお挙げくださいませ ~観測令嬢の静かな断罪~

作者: uta
掲載日:2026/10/02

「リネット・シオレル。お前との婚約を破棄する」


満潮祭の夜。月光が斜めに差し込む大広間で、王太子ユリウス・アルテリア殿下はそう宣言なさいました。


「お前の仕事はただ海を見ているだけだろう? そんな女を、海の国の王妃には出来ん」


楽団の音が止まります。硝子の杯が触れ合う音も。三百人ほどの貴族の視線が、一斉にわたくしの背に刺さりました。


(——出ました。専門職軽視)


(前世でも言われたわ。観測なんて「ただ数字見てるだけ」でしょって。台風の三日前から徹夜で潮位追ってた人間に向かってよく言えたわね、あの課長。ええ、既視感がすごい)


佐倉汐里、三十二歳。海上保安庁・海洋情報部の観測技官。台風の夜、住民を高台へ逃がしている途中で高波に持っていかれて、気づけばこの海洋国家アルテリアの港湾都市セレナで、潮読み伯爵家の幼女になっておりました。


以来十七年。わたくしは海を見ております。


正確には、測っております。


殿下の隣で、ふわりと桃色がかった金髪を揺らした令嬢が微笑みました。ミレーユ男爵令嬢。白と水色の、いかにも「聖女らしい」衣装。裾が風になびく角度まで計算されている——衣装の計算だけは、できる方なのでしょう。


「潮読みなんて、古い迷信ですわ」


鈴を転がすような声でした。


「これからは、祈りで海を治めますの。わたくしが祈れば、潮は静まりますもの」


さざ波のような失笑が広間に広がります。


「聞いたか、潮読み令嬢」

「あの方、毎日埠頭で棒を眺めてらっしゃるのよ」

「日に灼けた伯爵令嬢だなんて、ねえ」


(棒じゃありません。潮位標です。十二基。十年かけて据えました)


(あと日焼け止めがないのはこの世界の責任であって、わたくしの責任ではございません)


わたくしは膝を折り、深く一礼いたしました。


「かしこまりました」


声は荒げません。生涯一度も荒げたことがございません。喚く時間があるなら、数字を確かめたい。それだけのことです。


「……ずいぶんとあっさりしているな」殿下が拍子抜けしたように仰います。「泣き喚くかと思ったが」


「喚く時間があれば、数字を確かめとうございますので」


わたくしは顔を上げ、一点だけ確認させていただきました。


「ただ、一点だけ確認をお許しください。——では、来月の〈柱の詠唱〉は、ミレーユ様が?」


沖合三海里。〈潮守の柱〉。人魚族との盟約によって街を魔潮から守る結界石。その維持のために、月に一度、潮読みが詠唱を行います。


ユリウス殿下は、何を確認されたのかすら理解なさらないご様子で、鷹揚に頷かれました。


「当然だ」


「——かしこまりました。承りましてございます、殿下。わたくし、ただ海を見ているだけの女ですので」


ミレーユ様が扇の陰で笑われます。


「まあ、素直ですこと。せいぜい遠くから、わたくしの祈りを眺めていらして?」


「ええ」


わたくしは踵を返しながら、静かに申し上げました。


「——見ていたものは、全部持って帰りますけれど」


広間を出る直前、開いた窓から夜の海を見ました。


満潮祭の月。月齢十五。今夜の潮位、平均より〇・三メートル高。異常なし。


——ただし、来月の満月は違います。


二十九年半周期の魔潮。祖母の代の原簿に、その記録がございます。


わたくしは胸元の革のペンケースから鉛筆を抜き、手帳に一行だけ書きました。


『第九月十五日。婚約破棄。詠唱者、変更。要観測』


記録は、残します。そういう家に、生まれましたので。



◆



屋敷に帰り着いたのは、日付が変わる少し前でした。


玄関で待っていた侍女のセラが、わたくしの顔を見るなり眉を吊り上げます。十五歳、赤茶の短髪、そばかす。侍女服の袖はいつも通りまくられていて、裾には塩の輪染みが幾重にも。


「お嬢様。何かされましたね。顔に『記録するぞ』って書いてあります」


「婚約を破棄されました」


「はァ!?」


「声が大きいです、セラ」


「大きくもなります! あの王太子、お嬢様の潮位標を一度でも見に来たことがあるんですか。ないでしょう。一度も。わたし数えてます、ゼロです!」


「よく数えていますね」


「数字だけは得意ですので! それより怒ってください! なんで一礼で済ませるんですかお嬢様は!」


「怒鳴る機能が、生まれつき壊れておりますので。あなたが代わりに壊れていてくださって助かります」


セラは文字を覚えたのが十歳と遅かったのですが、数字にだけは異様に強い子です。わたくしが口述した潮位を、その場で復唱して、後で一字違わず清書できる。屋敷で最も足が速く、最も口が悪い。


書斎の扉を開けると、父——オーレン・シオレル伯爵が、燭台の下で原簿の埃を払っておりました。四十九歳。痩せぎすで、白髪混じりの茶髪。左手だけが、塩の結晶で異様に荒れています。代々の潮読みの手です。


「お父様。婚約を破棄されました。来月の〈柱の詠唱〉は、ミレーユ男爵令嬢が行うそうです」


羽根箒が、床に落ちました。


「……リネット。今、なんと言った。詠唱者が、変更だと?」


「はい」


父の顔から、血の気が引いていきます。


「——柱の詠唱を、素人に。街が沈むぞ、リネット」


「はい」


「詠唱は祈りではない。沈下量に応じて魔力量を補正する、計算だ。誤れば柱は内側から割れる。柱が割れれば、魔潮はセレナの市街地まで——」


「存じております。わたくしが計算しておりましたので」


父は椅子に沈み込みました。八年前、母を魔潮の観測中に失って以来、この人は海に出ておりません。書斎で過去の原簿を整理するだけの日々。わたくしが十年かけて潮位標を据えていくのを、止めることも、手伝うこともできず、ただ見ていた人です。


「……どうする。父には、もう海に出る資格もない」


「お父様」


わたくしは燭台の前に立ちました。


「わたくしは、我慢を三十年分——いえ」


言い直します。前世の三十二年は、この家の話ではありません。


「この家が、十七年分してまいりました。潮読みは閑職だと、海を眺めているだけだと言われ続けて、一度も反論いたしませんでした。記録を取る者は喚かない、そういう躾でしたので」


「リネット」


「ここからは、自分で選びます」


父が、顔を上げました。


その目が、少し変わったのが分かりました。娘を——『我が家の記録係』ではなく、一人の技官として見た目でした。


「……何を、する」


「引き上げます。全部」


わたくしは机の上に、二枚の紙を置きました。


〈潮読み職 辞任届〉。


〈記録台帳 返納目録〉。


父の手が、目録の一行で止まりました。


「……『返納対象外』。三十冊、すべてが」


「百年前の勅令第七条。〈記録台帳はシオレル家の私有物であり、王家に譲渡義務を負わない〉。お父様、原本がどこかにございますね」


父は数秒、黙りました。


それから立ち上がり、書架の最奥に手を突っ込みました。埃が舞います。虫に食われかけた羊皮紙を、震える手で引き出して、広げて——


「……ある。第七条。間違いない」


「ありがとうございます」


「私が唯一できるのは、埃を払うことだけだ」


父はそう言って、笑いました。八年ぶりに見る笑い方でした。


「荷車を出そう。三十冊、私が積む」



◆



翌朝、わたくしは王宮へ〈婚約解消証書〉を提出しました。


条項は三つ。持参金全額の返還。〈潮位標・十二基〉の所有権のシオレル家帰属。〈観測杭・三箇所〉についても同様。


受け取った殿下は、三行目を読んで顎を上げました。


「潮位標? ……ああ、あの海に立っている棒か。持ち帰るだと? 好きにしろ。どうぞどうぞ」


(どうぞ、ですって)


(この街の生死を分けているものを、『あれ』と呼んで、どうぞ)


「——かしこまりました。署名を、頂戴いたします」


荷車には、三十冊の革表紙の原簿が積まれています。祖母の筆跡、母の筆跡、わたくしの筆跡。三代分。


港を出るとき、老いた港湾長のバルド・ケーンが立ち止まって、荷車を見ました。六十七歳、潮と酒で焼けた赤黒い顔、片耳が欠けている。


「技官殿。その荷車、どこへ行きなさる」


この街でわたくしを『伯爵令嬢』ではなく『技官殿』と呼ぶ、唯一の人です。


「職を辞しました、バルド様」


バルドは長く、わたくしを見ていました。それから、外套の帽子を取って、頭を下げました。


「……そうかい」


「来月の満月の夜は、一隻も出さないでください」


彼は帽子を被り直し、一度だけ頷きました。


「四十年で、あんたが『出すな』と言った日に船を出して帰ってきた奴は、一人もおらん。——その一言で充分だ」


荷車の車輪が、石畳を鳴らします。


三十年分の数字が、街を出ていく音でした。



◆



その日の午後、わたくしは埠頭の端で膝をついておりました。


職を辞した人間が観測をしても、もう誰も読みません。


(それでも取るんですよ。記録っていうのはそういうものですので)


素手を、海面に浸しました。冷たい。第九月の海。


【潮汐記録】。


触れた海水から、直近三十年分の潮位・水温・塩分が、数値として流れ込んできます。効果はそれだけ。閲覧のみ。未来予測は一切できません。


(ええ、地味です。極めて地味です。でもね、データがないと何も始まらないんですよ)


「——君は何ができる?」


背後からの声に、振り返りました。


濡れた鉄のような黒髪。深海の藍の瞳。長身で、軍服の襟を一番上まできっちり留めた男性。


沖の監視塔に詰める辺境海軍の提督、カイ・ヴェルナ様。街では『笑わない鉄面提督』と呼ばれている方です。


「提督閣下。……職を辞した女に、できることは残っておりませんが」


「聞いていない。俺は、君は何ができると訊いた」


試している声でした。


わたくしは手を海に入れたまま、答えました。


「……では。三十年前の同月同日、この地点の潮位は平均より一・八メートル高。水温十六・二度。塩分濃度三十四・一。翌日に二・一メートルで頭打ち」


「……」


「同じ数値が、祖母の原簿の第十四冊、二百三頁にございます。スキルの読み取り値と紙の記録が一致する。つまりこの数値は、検証可能です」


「……続けろ」


「この上げ幅が出るのは二十九年半に一度。前回は三十年前ではなく、二十九年半前。周期のずれを外挿いたしますと」


顔を上げます。


「——次は、来月の満月でございます」


風が止まった気がしました。


カイ様は、わたくしをじっと見ていました。それから、口の端が、ほんのわずかに上がりました。


「……閣下。今、笑われました」


「笑っていない」


「笑っておられました。街で『笑わない鉄面提督』と呼ばれている方が」


「……」


彼は視線を逸らし、しばらく黙ってから言いました。


「……ならやってみろ」


「は」


「詠唱はあの聖女がやる。だが計算は誰かがやらねばならん。街には君の台帳を置く場所がない。俺が塔を貸す」


「——閣下」


「監視塔は海軍の管轄だ。王宮の書状は届かない。原簿を運べ」


わたくしは、数秒、言葉が出ませんでした。


(褒められることに耐性がないんです。前世からです。「よくやった」って言われると脳が止まるんです)


「……記録の通りに、申し上げただけです」


目を逸らしました。


カイ様は去り際に、背を向けたまま一言だけ落としていきました。


「俺は、海を眺めるだけの仕事を知っている。——見続ける者がいなければ、海は誰にも覚えられない」


軍服の襟の下、首筋のあたりが、一瞬だけ銀色に光った気がしました。


夕陽の反射でしょう。そう、思うことにしました。



◆



監視塔の夜は、潮騒だけで満ちています。


三十冊の原簿を三階の観測室に運び入れ、月齢表と潮位標の較正値を並べ終えたのは、深夜でした。セラは荷ほどきの途中で机に突っ伏しています。


ランプの芯を落としたとき、扉が叩かれました。


カイ様が、布巾をかけた皿を持って立っておられました。


「食え」


「は」


「食え」


布巾の下から出てきたのは、焦げ茶色の焼き菓子でした。丸く、平たく、表面に粗い塩の粒が散っています。


甘く焦げた砂糖の匂い。それに、潮の匂い。


「閣下が、焼かれたのですか」


「他に誰が焼く」


目を覚ましたセラが、すかさず一枚攫って口に入れました。


「毒見です。……お嬢様、厨房に焼き型が十七個ありました。数えました」


「セラ」


「……」


セラが真顔になりました。


「……これ、お嬢様に食べさせたら泣きますよ、たぶん」


「泣きません」


わたくしは一枚を取って、口に運びました。


——外側は硬く、噛むと崩れて、砂糖の甘さのあとに、塩がゆっくり来ます。


手が、止まりました。


喉の奥に、理由の分からない熱が溜まります。


(……なんですか、これ)


(懐かしい。何が。前世にこんな菓子はありませんでした。今世でも食べた覚えが)


頭の奥で、何かが引っかかります。


冬。防波堤の下。毛布。


高熱を出した夜に見た夢だと、ずっと処理していた記憶です。


八歳の冬。港内の塩分濃度が嵐で狂った日。防波堤の根方で、網に絡まって弱っていた、銀色の鱗の少年。わたくしは屋敷から真水の水差しと、自分の毛布を持って走りました。冷たい手に水差しを押し付けて、毛布をかけて。


少年は、去り際にこう言ったのです。


『潮は約束を忘れない。必ず迎えに来る』


——夢です。そうに決まっています。


だって、わたくしはその出来事を、記録に残していないのですから。


三十冊の原簿の、どの頁にもない。わたくしの人生で唯一、数値化していない出来事。


記録しなかったということは、無かったということです。観測技官とは、そういう生き物です。


「……美味しゅうございます。閣下。なぜ、潮の匂いがするのでしょう」


声が、少し掠れました。


「塩を使っている」


カイ様は窓の外を見たまま答えます。いえ。よく見ると、肩が僅かに強張っています。


「閣下。泣いておられますか」


「泣いていない」


「お背中が震えております」


「……潮風だ」


「室内でございます」


「窓が開いている」


「窓、閉まってますけど」とセラ。


「セラ」


カイ様は咳払いをして、話題を変えました。


「……満月まで、二十三日だ。聖女は、柱の沈下量を知らない」


わたくしは顔を上げました。


「——閣下。今、なんと」


「三十年分の記録に、柱の基礎石の水面からの高さが、毎年書いてあるはずだ」


「……ございます」


わたくしは原簿の第一冊を開きました。祖母の筆跡。


『柱基礎石上端、平均水面より二・七四メートル』


最終冊。わたくしの筆跡。


『柱基礎石上端、平均水面より二・四三メートル』


「差、〇・三一メートル。二十九年半で、柱は三十一センチ沈んでおります」


鉛筆を取り、白紙の頁に線を引き始めました。


(沈下量に応じて、魔力量を補正する。父はそう言いました)


(つまり詠唱は、祈りではなく——係数を入れる作業です)


(祈りに、単位はございません)


「閣下。紙を、もう少しいただけますか。……それと、菓子を」


カイ様は二秒ほど沈黙してから、皿をわたくしの机の端に、静かに置きました。


そのとき、軍服の襟の下で、銀色の光が確かに一度、瞬きました。



◆



満月の三日前。王宮の大広間で、〈海の聖女〉の実績を検証する公開協議が開かれました。発案は海軍。名目は「柱の詠唱者交代に伴う引き継ぎ確認」。


わたくしは招かれておりません。


招かれておりませんが、参りました。


荷車三台分の原簿を、セラと父と、港湾長の部下たちが運び入れます。


「な——何事だ、リネット・シオレル! お前はもう潮読みではないだろう!」


玉座の脇でユリウス殿下が立ち上がりました。隣には、白と水色のミレーユ様。


「はい。辞任いたしました」


わたくしは深く一礼しました。


「ですので本日は一市民として、〈潮守の柱〉の維持に関する事実確認を申し上げに参りました。記録台帳は百年前の勅令第七条により、シオレル家の私有物。持ち込む権利がございます」


文官が慌てて条文を確認し、青ざめて頷きました。


「……事実です、殿下」


「ふん。……聞くだけ聞いてやろう。言え」


(聞くだけ、ね)


(ええ、たっぷり聞いていただきます)


「ではまず一点目」


セラが月齢表を広げます。


「ミレーユ様が祈られ、潮が静まったとされる日は三度。第六月三日、第七月十九日、第八月二日。相違ございませんか」


ミレーユ様が誇らしげに頷かれました。


「ええ、その通りですわ。わたくしが祈りましたら、荒れていた海が、すう、と」


「その三日は、いずれも小潮でございます」


「……こしお?」


「月と太陽が直角に位置し、干満差が最も小さくなる日のことです。月齢七、二十二、七。三度とも、そもそも潮位が上がらない日でございました」


広間がざわめきます。


「静める必要のない海を、静めてくださいましたのね」


「そ、そんなの、たまたまですわ! わたくしはいつも祈っておりますもの!」


「では二点目に参ります」


セラが白い紙束を差し出しました。


「王都に提出された〈潮位報告書〉、十二通。ミレーユ様の署名入り」


「わ、わたくしが書きましたわ!」


「はい。筆跡は確かにミレーユ様のものです。ですが内容が、三年前にわたくしが作成した雛形の、丸写しでございます」


「——」


「単位の表記法までそのまま。『メートル』を『米』と略し、水温だけ『度』と書く。これは前任のわたくしの癖で、公的な書式ではございません」


セラが原簿の一冊を素早く開いて掲げました。


「三年前、第七月、十四日の頁です。お嬢様の書き癖、わたしが一番わかりますので」


「そして十二通目の三行目。『第三潮位標、基準高 一・二五米』——誤りです。正しくは一・五二。わたくしが十二歳のときに書き込んだ転記ミスでございます。原簿にも同じ誤記が残っております」


わたくしは、静かに申し上げました。


「わたくしのミスまで受け継いでくださるとは、光栄ですわ」


ミレーユ様の顔から、血の気が引いていきます。


「……ち、違いますわ。わたくしは、ちゃんと、ちゃんと海を見て……」


「月齢表など、誰でも書ける!」ユリウス殿下が叫ばれます。「その原簿とやらも、お前が今朝書いた偽物かもしれん!」


「バルド様」


広間の後方から、油染みた外套の老人が進み出ました。


「港湾長、バルド・ケーンだ。貴族様の言う縁談だの祈りだのは知らん」


彼は帽子を取らずに言いました。


「だがな。技官殿が『明日は出すな』と言った日に船を出して帰ってきた奴は、四十年で一人もおらん。うちの倉庫には、その通達の控えが千二百枚ある。日付入りでな」


「千二百三十四枚でございます」セラが即答しました。


「……お前は何を数えているんだ」


「ゼロと、千二百三十四です」


殿下が唇を噛まれました。


「だ、だが柱は! 柱は千年、祈りで保たれてきた! 記録などなくとも——」


「では三点目に参ります」


広間が静まりました。


わたくしは、祖母の第一冊と、自分の最終冊を並べて開きました。


「〈潮守の柱〉の基礎石上端、平均水面からの高さ。二十九年半前、二・七四メートル」


頁をめくります。


「本年、二・四三メートル。——柱は、三十一センチ沈んでおります」


誰も、声を出しませんでした。


「詠唱とは祈りではございません。沈下量に応じて、注ぐ魔力量の係数を補正する作業でございます。基礎石が沈めば水圧のかかる面積が変わり、必要な魔力密度が変わる。補正を誤れば——柱は、内側から割れます」


びっしりと数式の並んだ計算用紙を掲げます。


「今月の補正係数は一・一七。前月から〇・〇三増えております。この数字を知らずに詠唱すれば、魔力は柱を守らず、柱を砕きます」


ミレーユ様が、震える声で言いました。


「……わ、わたくしは、心を込めて祈りますわ。心を込めれば、きっと」


わたくしは、彼女をまっすぐに見ました。


声は、荒げません。


「ミレーユ様」


「な、なんですの」


「祈りに、単位はございませんでしょう?」


彼女の膝が、わずかに折れました。


ユリウス殿下は、口を開き、閉じ、また開いて——


そして、玉座の肘掛けに手をついて、俯かれました。


「……俺は」


絞り出すような声でした。


「俺は、海が、怖かったんだ」


広間が、しん、としました。


「六つのとき、船で高波に呑まれかけた。それ以来、潮の匂いを嗅ぐと息ができん。父上には『海の国の王にふさわしくない』と、ずっと……だから、祈れば静まると言ってくれた者を、信じた。事実より、先に」


(——ああ)


(この方は、悪意ではなく、恐怖で目を閉じただけの人なんですね)


「……さようでございましたか」


わたくしは一礼いたしました。


「ですが殿下。恐怖にも、単位はございません。三日後、満月でございます。二十九年半ぶりの魔潮が参ります」


「……」


「その夜、港の船を一隻も出さぬようご命令ください。それだけで、百人は死なずに済みます」


殿下は、長く黙ってから、掠れた声で言いました。


「……命じる」


初めて、この方が数字に頷いた瞬間でした。



◆



満月の夜、海が持ち上がりました。


水平線が、ありえない高さで膨らんでいます。魔力を帯びた潮——魔潮。空気が塩と雷の匂いで飽和し、沖の〈潮守の柱〉が、軋みました。


ぎ、という音が、三海里離れた岩礁まで届きます。


柱の根方に、ミレーユ様が立っておられました。白い衣装が、濡れて重く張り付いています。


「……静まれ。静まりなさい。わたくしは、海の聖女、ですわ……!」


何も、起こりませんでした。


潮位が、また上がりました。


彼女の膝が、岩を打ちました。


「……わたくし、何も。何も、測っていなかった……」


わたくしは、岩礁の先端で海に素手を浸しておりました。


【潮汐記録】。


数値が奔流のように流れ込んできます。潮位、四・七二。上昇率、毎分〇・〇八。水温、十四・九。塩分濃度、異常値。


「セラ! 第十七冊、百四十頁!」


「はいっ! 二十九年半前、同じ夜の記録です!」


濡れた原簿が開かれます。祖母の筆跡。


「祖母の代の上昇率、毎分〇・〇七! 現在〇・〇八! 基礎石沈下〇・三一、水圧面積変化率一・一三——」


鉛筆が紙を走ります。指が凍えて、感覚がありません。計算。検算。再検算。


「補正係数、一・一七四! この数値で注がなければ、柱は割れます!」


「——だが、その詠唱は、人魚の血がなければ通らん」


岩礁の陰から、水を通したような低い声が響きました。


銀と藍の縞を描く長髪。瞬膜のある深海魚の瞳。人魚族の長老、ネレイア様。


「陸の娘。おまえの数が正しくとも、注ぐ者がおらぬ」


「では——」


そのとき。


背後の水柱を割って、影が跳び上がりました。


カイ様でした。軍服の襟が、裂けています。


首筋から、肩から、腕から——銀の鱗が、月光を弾いて広がっていきました。深海の藍の瞳が、銀色に燃えています。


「カイ! 人前で姿を——」


「叔母上」


彼は、わたくしを見ました。


「——潮は、約束を忘れない」


頭の中で、何かが、外れました。


八歳の冬。防波堤の下。網に絡まって、真水を求めて震えていた、銀鱗の少年。走って持ってきた水差しと、自分の毛布。冷たい手。潮の匂い。


『潮は約束を忘れない。必ず迎えに来る』


夢では、ありませんでした。


わたくしが、記録しなかっただけでした。


「……閣下」


声が、震えました。生涯で初めてでした。


「八歳の冬。防波堤の下。網に絡まった、銀の鱗の子ども。真水と、毛布。……夢だと処理しておりました。記録に、残しておりませんでしたので」


「そうだ」


「迎えに来るのが、九年も遅れましたわ」


カイ様が、笑いました。鉄面提督が、はっきりと、笑いました。


「すまない。——沈下量の計算に、君が必要だった。海の民は潮を感じることはできる。だが、測ることができない。三十年分の陸の記録を持つ者を、俺たちは待っていた。君が十七になるのを待った。数字を書ける歳になるのを」


(——この人)


(恋と職務を、同じ一つの約束として九年抱えてたんですか)


「……前世でも、そんな重い引き継ぎは見たことがございません」


「手を。——係数を言え」


わたくしは、彼の手を取りました。冷たくて、硬くて、それでもどこか、あの冬の毛布のような温度がありました。


柱が、悲鳴を上げます。


「補正係数、一・一七四!」


カイ様が柱に手をつき、詠唱が始まりました。低く、水を渡る歌のような響き。


ネレイア様が、眉を寄せました。


「……三十一。センチ、とは何だ」


人魚族は、潮を感じます。けれど、百年間、誰も『三十一センチ』という概念を持てませんでした。


わたくしは、自分の指を立てました。


「わたくしの、指の幅の、十七倍でございます」


ネレイア様の瞬膜が、ゆっくりと瞬きました。


「……十七」


「はい」


「——わかった。柱に手を添える。娘、数を読め。一度も間違えるな」


海の知と、陸の知が、初めて接続した音がしました。


柱が、青く燃え上がりました。


魔潮が、柱の手前で、壁にぶつかったように砕けます。飛沫が夜空に散って、月光の中で銀色に光りました。


セレナの街は——沈みませんでした。


潮が引いたあと、岩礁に膝をついたままのミレーユ様のそばを通るとき、わたくしは足を止めました。


「ミレーユ様」


「……」


「潮位は、〇・〇一メートル単位で記録いたします」


「……なぜ、そんな、細かく」


「細かくないと、間に合わないからです」


彼女は、初めてわたくしの顔をまっすぐ見て、何も言わずに頷きました。



◆



半年が過ぎました。


ユリウス・アルテリア殿下は、魔潮の夜の海洋管理の失態により、王位継承権を自ら返上されました。


港を離れる前夜、誰もいない埠頭で、あの方は初めて海に手を浸されたそうです。


「冷たいな」


それだけ呟いて、しばらく手を海に入れたまま、じっとしておられたと。見ていたのは、夜警の少年が一人だけでした。


ミレーユ様は〈聖女〉の看板を失い、実家の男爵領に戻られました。塩田の帳簿係。桶の水の塩分濃度を毎日量って、数字を記録する仕事です。


半年目のある日、彼女は帳簿の隅に、初めて自分の手で書き込みをしたそうです。


『三十五・二 ——グラム毎リットル』


単位を、自分で書いた日でした。


港湾長のバルド・ケーン様は、新任の港湾管理官を桟橋に連れ出して、こう言ったそうです。


「あの方が三十年分の数字を持って行った日、この街は初めて、自分が何に守られていたか知ったんだ。……知るのが、遅すぎたがな」


〈潮読み盟約〉は、再締結されました。人魚族と、アルテリア王国。三百年ぶりの改定です。


調印の場で、ネレイア様がわたくしに問われました。


「陸の娘。ひとつ問う。——なぜ、おまえたちは数えるのだ」


わたくしは少し考えて、答えました。


「忘れないためです」


長老は、長く沈黙されました。


「……そうか。盟約を、結び直そう。この鱗を、おまえの原簿の最終頁に置く」


以後、シオレル家の原簿は『海が読んだ記録』と呼ばれます。


父は、書斎を出ました。八年ぶりに海に出て、母の使っていた古い測深錘を、わたくしに渡してくれました。


「リネット。母さんの測深錘だ。——母さんは、最後まで数字を信じていた」


「はい」


「……お前は、もっと遠くまで持っていけ」


セラは監視塔に移り、新しい観測記録の第一巻の表紙に、自分の名前を書き入れました。


『記録補佐 セラ』


三十分かけて書いて、書き終わってから泣いていました。


「泣いていますね」


「塩が目に入っただけです。……あと提督、焼き型が二十三個に増えてます。数えました」


「六個増えたということですね」


「数字だけは得意ですので」



◆



そして今朝も、わたくしは監視塔の階段を降ります。


第一潮位標。第二。第三。


岩場の縁に膝をつき、両手を海に浸しました。


隣で、同じように手を浸す人がいます。軍服の襟を一番上まで留めた、笑わない——いえ、最近は少し笑うようになった提督。首筋の銀の鱗は、今は日の光に紛れて見えません。


「潮位」


「一・三七メートル。平年比、プラス〇・〇二」


「水温」


「十八・四度」


「異常は」


「ございません」


彼は頷いて、ポケットから布に包んだものを出しました。塩の粒を散らした、焦げ茶色の焼き菓子。


「食え」


「……閣下。観測中でございます」


「記録は、俺が取る」


「閣下、字が下手でいらっしゃいます」


「……練習している」


わたくしは菓子を受け取って、一口かじりました。


甘くて、それから、塩の味がします。九年前の冬の味です。


今度はちゃんと、記録に残しました。第一巻、第一頁、欄外。


「では、こう書き添えておきます。『第三月四日。晴。塩菓子。——美味』」


「それは、数値ではないな」


「ええ。ですが記録です。忘れないために、書くのですから」


潮が、ゆっくりと満ちてきます。


わたくしは鉛筆を握り直し、隣の人を見上げました。


「——次の満潮は、二人で読みましょう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。