一万円で別れた男
「おい、どうした? 手から血が出てるぞ」
友人の松本が、びっくりしたような声を出す。
ふと見れば、確かに俺の右手からは、赤い血が一筋流れ落ちていた。
いつものように、学食でランチを食べようとしていた時の出来事だ。
午前の講義が終わった後、いったん俺は大学の構内から出て、近くの銀行へ。ATMでお金をおろして、戻ってきたところだった。
「ああ、これか。これなら……」
ATMから引き出した、数枚の一万円札。そのうち一枚が、おそらくは新札で、しかもピンとし過ぎていたのだろう。
その紙幣を手にした途端、小さな痛みが走った。手を切ってしまったらしい。
まあ薄らと血が滲む程度だったので、あまり気にすることもなく、そのまま放置していたのだが……。
どうやら思ったより深く切っていたようだ。
「それは災難だったな。『手の切れるよう新札』って言葉もあるけど、まさか例え話じゃなく、ほんとに手が切れるとは……」
「ああ、どうも最近、俺はツイてないみたいだ」
と返したのは、俺が不運な出来事と認識していることが、他にもあったからだ。
そのニュアンスは松本にも伝わったらしく、彼は苦笑いする。
「……若菜ちゃんのことか? あんまり気にするなよ」
若菜ちゃんは、同じサークルの女の子。可愛らしい彼女に憧れる男も多かったのだが、そんな若菜ちゃんと付き合い始めたのが、この俺だった。
しかし俺たちの交際は、わずか4ヶ月で破局を迎える。いざ付き合ってみると、彼女は驚くほど我儘な性格をしていたからだ。
「友達じゃなく、恋人なんだからさ。自分をさらけ出すのも、相手に甘えるのも当然でしょう?」
という彼女の主張も理解は出来るが、何事にも限度はある。彼女のそれは、俺の許容範囲を超えていた。
だから俺の方から別れを切り出して、俺たちの交際は終了。俺にしてみれば、付き合う前に彼女の本性を見抜けなかったのは、災難とか不運とかの類いに思えるほどだった。
「ああ、それほど気にはしてないさ。そういえば……」
松本の言葉に、一応の相槌を打つ。
サークルの友人たちの中には、まだ俺と若菜ちゃんが別れたのを知らない者も多いくらいだが、松本はいわば俺の親友。ある程度の経緯も把握しているし、彼が相手ならば愚痴を吐いても大丈夫だろうが、今はそんな気分ではなかった。
「……『山あり谷あり』って諺もあるが、俺の場合は交互じゃないみたいだ。良いことにしろ悪いことにしろ、立て続けにやってくる。きっと今は、悪い方のターンなんだろうぜ」
「『二度あることは三度ある』みたいな感じか? だったら気をつけろよ」
俺の強がりに対して、心配そうな口ぶりで返す松本。
その場はそれで終わったが……。
三つ目の災難は、思いもよらぬ形で現れた。
俺に関しての悪い噂が周りで流れ始めて、友人たちの中に、俺から離れていく者が出始めたのだ。
若菜ちゃんとは別れた件と、一万円で手を切った件。その二つが噂として伝わるうちに、どうやら混ざってしまったらしい。
その結果できあがったのは、俺が一万円の手切金で若菜ちゃんと別れたという話。そして「わざわざ手切金を渡すような別れ方も酷いし、手切金にしては一万円は少な過ぎる」みたいな悪評が広まっていた。
一万円の手切金なんて、もちろん事実無根の話だが……。
この誤解、きちんと解けるのだろうか?
(「一万円で別れた男」完)




