千景の白い夜
露子は今夜も上の空だ。
少しずれた眼鏡のレンズの外をじっと見つめては、
ゆっくりと鼻先に視線を戻すことを繰り返している。
本人曰く、頭の中は大忙し――らしい。
僕はソファから少し離れたキッチンの丸椅子に腰掛け、
そんな露子を眺めるのが好きだ。
彼女のいる場所は、なぜかいつも白く見える。
光のせいか、彼女のせいか、それとも雪のせいか。
「ね、チカ……千景」
少し高揚した声。
露子がまた、“はじめる”みたいだ。
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露子は僕と同じ会社で働いていたけれど、今は辞めてこのまちに移り住み、児童文学を書いている。
冬の光、寒い国に住む人々や動物たちの暮らし、僕の知らない風の名前なんかを、
まるで見てきたように描く。
机の上には書きかけの原稿と、紅茶の輪染み。湯気が立ち、ふんわり甘い香りが漂う。
手元が少し早くなったとき、
露子が小さく笑った。
心地良くその微かな音が、ふわりと響く。
「今回は、このまちのお話にしようと思うの。どう思う?」
「このまちの冬は露子によく似合うから、いいと思うよ」
「私に似合う、か。ありがとう。千景のことばって、なんだか魔法みたい。ごはん、すぐ用意できるから待ってね」
露子はやかんに手をかざし、湯気で指先を温めながら、
ふふっと笑う。
僕はその横顔を見て、少し微笑み返す。
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露子は料理が上手で、綺麗好きで、
話し方も仕草も、
全てがゆっくりしている。
けれど冬になると、
少し活動的になる。
鍋の蓋を開ける音がした。お皿が置かれて、
ボールに卵を割り入れる。すべての音が静かにリズムを刻む。
まな板に野菜を並べながら、
今夜は鼻歌も聞こえる。ご機嫌だ。
手元の野菜を刻む手際は丁寧で、冬の光を受けて、美しく息づく。
「冬生まれだからかな。冬が好きなの」
時折冷たい空気に頬を染めながら、楽しそうに何かを囁いている。
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僕たちが初めて言葉を交わしたのも、冬だった。
あの晩、雪が深くて、会社の駐車場で車が埋もれた。
お互い雪まみれで、声を掛け合うしかなくて、笑った。
「すごく積もりましたね」
「本当ですね、雪、積もりましたね」
たったそれだけのやり取りだったのに、
吐く息がふたつ、空の中で混ざった気がした。
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僕たちは少しずつ距離を縮め、付き合うようになった。
でも――
僕はずっと悩んでいる。
露子といると、自分の中の何かが変わっていく。
白い雪に飲み込まれるように、
でも怖いわけじゃない。
彼女はどんな色でも受け入れる白いパレットみたいな人だ。
ひとも動物も、世界のすべてを偏りなく見ようとする。
儚さと強さ、聡明さと奔放さ、底にある孤独も。
僕は、彼女を幸せにできるのだろうか。
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露子は言った。
「雪の日だけ、本当のじぶんに会える気がする」
僕は本当が何かなんて知らなくていい。
ただ、雪を見ながら何かを囁く露子の横顔を見て、
この先も一緒にいたいと、思う。
今夜、伝える。




