露子と雪
「露子、露子、起きて。こっちだよ。
ほら、僕たちについてきて。」
このまちで迎える、はじめての冬。
すべてが雪に浸かった。
こんなに降るなんて。
カーテンの隙間を覗いては、座り直すことを繰り返していた露子は、抑えきれずに窓を開けた。
途端に、雪を巻き込んだつよい冷気が剥き出しの肌を覆い、模様をつくった。
痛みはないのに、いつも一瞬、瞼をぎゅっと閉じてしまう。
止めていた呼吸をそっと再開すると、夜空を目指した白い息も、暗闇に舞う雪の光の中に消えてしまった。
静寂の音がして、母を想った。
二十二年前。
その頃の母は、優しすぎるがゆえの孤独を抱え、ひとり慎ましく暮らしていた。
雪深い冬の夜、仕事の帰り道にアパートの横の空き地で、ふわりと白く光るものを見つけた。
目を凝らすと、寒さの中で薄着の幼女がひとり、座って眠そうに、なにか楽しそうに雪と遊んでいた。
その幼女の肌には、白く光る雪の模様が無数に散りばめられていて、消えたり浮かんだりしていた。
「なぜかを考える前に、からだが動いたの。
今思うと、あなたを守る幸運な使命を、神様がくれたのかもしれないね」
後に母はそう話してくれた。
その幼女は、私だった。
母は私を部屋に連れて帰り、温めてくれた。――大人になるまで。
私がどこの子で、どこから来たのか。
いくら調べてもわからなかったこと以上に、冬にだけあらわれる私の不思議に、母はひどく悩んだそうだ。
雪が降らない場所に行けばいいと、南の地に住んでみたけれど、冬になると私は泣いてばかりで、具合もとても悪くなるばかりだった。
結局、雪の降る町に引っ越すしかなかったという。
肌にあらわれる模様は、雪に触れた時にだけ現れるとわかってからは、ずいぶん冬の生活が楽になった。
母とふたり、穏やかに暮らしてきたけれど、大人になった私は、家を出ることにした。
そしていま、このまちにいる。
「雪国で生きてるんだ。冬になったら、そこそこ降ってくれないと調子が出ないんだよ」
――なんて、おかしなアイデンティティを、このまちの人たちは持っている。
もっとも、今回の降り方は予想以上で、皆焦っているようだけれど。
この数日間、誰も外に出てこないことを好都合に、露子は好きなだけ雪とすごして、好きなだけおしゃべりをした。
あの日から、彼らはずっと露子を見守ってくれている。
そしていろんなことを教えてくれる。遠くの国の人や動物の暮らしについてとか、彼らが繋いだ恋の瞬間とか。
そうしているうちに、露子は「どうして」を考えることをやめた。
特別なこの時を大事にする――それだけにした。
久しぶりに青空が見えて、まちがようやく動き出した。
人々の忙しない雰囲気に呑まれて、仕方なく露子も家から出る動線をつくり、埋もれたものたちを救出する。
このまちでは「普通のこと」を守るために働く。
シンプルが、露子にはとても馴染んだ。
今夜はチカが家に来る。
夜ご飯のための買い物に行かなくちゃ。
できる限りの衣服を着込み、大きなリュックを背負った。
眩しい白さの中に、溶けてしまいたくなる衝動。
踏みしめる地面の感触が嬉しくて、
時折バランスを崩す自身の体躯が悔しくて、笑ってしまう。
かじかむ手が言うことを聞いてくれないけれど、
この隙間に入り込むものは、もうない。
「今日はお鍋いっぱいにスープを作ろうと思うの。
玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、キャベツと豆、ベーコン。
味はトマトがいいかな。焼きたてのパンを添えて、柔らかく蒸したお肉にはチーズソースをかけよう。」
真っ白な雪に、美味しい匂いをかいだ。
冷たすぎる空の青と、眩しい白の世界を、また歩き出す。
「そろそろ行くよ。」
「うん。」
鼻の奥がツンとした。
頬に落ちた最後の彼に、
露子は仕方なくお別れを告げた。




