10話 朔の選択
夜は冷たかった。
山の稜線の向こうに沈んだ夕陽の残光は、わずかに空を朱に染めていたが、それもすぐに黒に飲み込まれていく。
澪が眠りにつく頃、朔は布団から抜け出した。
母は気づいているのだろう。けれど、止めはしない。
――いや、もしかしたら眠ったふりをしているだけかもしれない。
それでも朔は、障子を音を立てぬように開け、夜気の匂いのする外へと歩き出した。
◇
昼の自分は、ひどく窮屈だ。
母も姉も、村の人々も、みな陽の下で笑い合っている。
けれど自分の内側には、そこには混じれない何かが巣食っているのを朔は知っていた。
――血の匂い。
それは決して錯覚ではない。遠くからでも、誰かの小さな怪我の赤が匂い立つ。
澪が転んで膝をすりむいたときのことを思い出す。
その匂いに抗えず、思わず顔を寄せそうになった瞬間、澪が怯えた瞳を見せた。
あの眼差しが忘れられなかった。
「俺は、人間じゃない」
幼い喉から漏れるその言葉は、夜に吸い込まれていく。
◇
川のほとりに立ち、朔は足を止めた。
山から流れ出す水は暗く、月明かりを反射して揺れている。
喉が渇く――。
だが水ではない。欲するのはもっと濃く、熱を帯びた液体。
朔は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
幼い牙がわずかにのぞくのを、自分でも感じた。
そのとき、背後から小さな鳴き声がした。
振り返ると、夜の草むらから兎が飛び出した。
月の下で毛並みが白く浮かび上がる。
本能が告げる。
――捕まえろ。
――噛みつけ。
――血を啜れ。
朔は足を踏み出した。
だが次の瞬間、別の声が胸を突いた。
――澪が、泣く。
姉の泣き顔が脳裏に浮かんだ。
兎はすばやく逃げ、藪の奥に消えた。
朔はその場に立ち尽くし、荒い呼吸を整えようとした。
◇
夜道を戻る途中、星々が瞬いているのが見えた。
朔は顔を上げ、呟く。
「俺は……吸血鬼なんだ」
認めることでしか、もう前に進めない。
昼の世界は澪に任せればいい。
自分は夜に生きる。
それがきっと、母の選んだ「二人を分けて生きさせる」道でもあるのだろう。
幼い胸に宿る決意は、まだ脆い。
けれど確かに、その夜から朔は変わった。
夜を歩くことを恐れなくなったのだ。