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10話 朔の選択

 夜は冷たかった。

 山の稜線の向こうに沈んだ夕陽の残光は、わずかに空を朱に染めていたが、それもすぐに黒に飲み込まれていく。

 澪が眠りにつく頃、朔は布団から抜け出した。


 母は気づいているのだろう。けれど、止めはしない。

 ――いや、もしかしたら眠ったふりをしているだけかもしれない。

 それでも朔は、障子を音を立てぬように開け、夜気の匂いのする外へと歩き出した。



 昼の自分は、ひどく窮屈だ。

 母も姉も、村の人々も、みな陽の下で笑い合っている。

 けれど自分の内側には、そこには混じれない何かが巣食っているのを朔は知っていた。


 ――血の匂い。

 それは決して錯覚ではない。遠くからでも、誰かの小さな怪我の赤が匂い立つ。

 澪が転んで膝をすりむいたときのことを思い出す。

 その匂いに抗えず、思わず顔を寄せそうになった瞬間、澪が怯えた瞳を見せた。

 あの眼差しが忘れられなかった。


「俺は、人間じゃない」

 幼い喉から漏れるその言葉は、夜に吸い込まれていく。



 川のほとりに立ち、朔は足を止めた。

 山から流れ出す水は暗く、月明かりを反射して揺れている。

 喉が渇く――。

 だが水ではない。欲するのはもっと濃く、熱を帯びた液体。


 朔は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。

 幼い牙がわずかにのぞくのを、自分でも感じた。


 そのとき、背後から小さな鳴き声がした。

 振り返ると、夜の草むらから兎が飛び出した。

 月の下で毛並みが白く浮かび上がる。


 本能が告げる。

 ――捕まえろ。

 ――噛みつけ。

 ――血を啜れ。


 朔は足を踏み出した。

 だが次の瞬間、別の声が胸を突いた。

 ――澪が、泣く。

 姉の泣き顔が脳裏に浮かんだ。


 兎はすばやく逃げ、藪の奥に消えた。

 朔はその場に立ち尽くし、荒い呼吸を整えようとした。



 夜道を戻る途中、星々が瞬いているのが見えた。

 朔は顔を上げ、呟く。


「俺は……吸血鬼なんだ」


 認めることでしか、もう前に進めない。

 昼の世界は澪に任せればいい。

 自分は夜に生きる。

 それがきっと、母の選んだ「二人を分けて生きさせる」道でもあるのだろう。


 幼い胸に宿る決意は、まだ脆い。

 けれど確かに、その夜から朔は変わった。


 夜を歩くことを恐れなくなったのだ。



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