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第1話 夜を歩く人

四月の終わり。

 夜風はまだ冷たく、山の影が町を覆っていた。


 夜の匂いは、人によって違うという。

 春の夜を花の香りだと思う人もいれば、雨上がりの土の湿りだと感じる人もいる。

 けれど、母にとって夜は――血の匂いがするものだった。


 彼女は人間でありながら、人間ではなかった。

 なぜなら愛した相手が、夜に生きるものだったから。



 母の名はカナ。

 山あいの古い一軒家に、ひとりで暮らしていた。

 灯りは小さなランプひとつ。

 外とのつながりはできるだけ避け、日々をひっそりと送っていた。


 彼女が秘密を抱えていたのは、ただ孤独を好んだからではない。

 理由はひとつ――彼女の腹には、人間と吸血鬼の血を引く子が宿っていたからだ。


 父はもういない。

 ある晩を境に戻らず、夜の闇に溶けて消えた。

 カナの手に残ったのは、ただ未来を約束された二つの命だった。



 その夜は嵐だった。

 強い風が窓を叩き、雨が屋根を打ち続ける。

 カナは何度も気を失いかけながら、必死に息をつき、呻き声を押し殺した。

 助けを呼ぶことはできない。人に知られるわけにはいかなかったからだ。


 長い陣痛の果て――最初の産声が夜を震わせた。



 生まれたのは女の子。

 黒髪は柔らかく、頬は血の温もりを帯びて赤く染まっていた。

 泣き声は澄み、母の腕に抱かれるとすぐに安心したように目を細めた。


 カナはその子に「みお」と名をつけた。

 水の流れのように、人をつなぎ、道を示すように生きてほしいと願って。



 続いて――もうひとりが生まれた。


 彼は静かだった。

 泣き声を上げず、ただ赤い瞳で母を見つめた。

 唇は小さく震え、乳を含むより先に、母の指先からにじむ赤を追い求めるように動いた。


 その姿を見て、カナは胸を締めつけられる。

 けれど腕を離すことはなかった。


 彼には「さく」と名を与えた。

 新月の夜に生まれ、闇の中から始まりを迎えた子だから。



 澪と朔。

 二つの命は同じ日に生まれながら、まるで違う気配をまとっていた。


 澪は光を好み、昼の静けさに微笑む。

 朔は夜を好み、血の匂いにだけ反応する。


 母はその違いに胸を痛めながらも、分け隔てなく抱きしめた。


 「どうか……生きて」


 その言葉を何度も繰り返しながら、カナは眠れぬ夜を越えた。

 やがてこの選択が二人を分かつことになると、まだ知らないまま。



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