第1話 夜を歩く人
四月の終わり。
夜風はまだ冷たく、山の影が町を覆っていた。
夜の匂いは、人によって違うという。
春の夜を花の香りだと思う人もいれば、雨上がりの土の湿りだと感じる人もいる。
けれど、母にとって夜は――血の匂いがするものだった。
彼女は人間でありながら、人間ではなかった。
なぜなら愛した相手が、夜に生きるものだったから。
◇
母の名はカナ。
山あいの古い一軒家に、ひとりで暮らしていた。
灯りは小さなランプひとつ。
外とのつながりはできるだけ避け、日々をひっそりと送っていた。
彼女が秘密を抱えていたのは、ただ孤独を好んだからではない。
理由はひとつ――彼女の腹には、人間と吸血鬼の血を引く子が宿っていたからだ。
父はもういない。
ある晩を境に戻らず、夜の闇に溶けて消えた。
カナの手に残ったのは、ただ未来を約束された二つの命だった。
◇
その夜は嵐だった。
強い風が窓を叩き、雨が屋根を打ち続ける。
カナは何度も気を失いかけながら、必死に息をつき、呻き声を押し殺した。
助けを呼ぶことはできない。人に知られるわけにはいかなかったからだ。
長い陣痛の果て――最初の産声が夜を震わせた。
◇
生まれたのは女の子。
黒髪は柔らかく、頬は血の温もりを帯びて赤く染まっていた。
泣き声は澄み、母の腕に抱かれるとすぐに安心したように目を細めた。
カナはその子に「澪」と名をつけた。
水の流れのように、人をつなぎ、道を示すように生きてほしいと願って。
◇
続いて――もうひとりが生まれた。
彼は静かだった。
泣き声を上げず、ただ赤い瞳で母を見つめた。
唇は小さく震え、乳を含むより先に、母の指先からにじむ赤を追い求めるように動いた。
その姿を見て、カナは胸を締めつけられる。
けれど腕を離すことはなかった。
彼には「朔」と名を与えた。
新月の夜に生まれ、闇の中から始まりを迎えた子だから。
◇
澪と朔。
二つの命は同じ日に生まれながら、まるで違う気配をまとっていた。
澪は光を好み、昼の静けさに微笑む。
朔は夜を好み、血の匂いにだけ反応する。
母はその違いに胸を痛めながらも、分け隔てなく抱きしめた。
「どうか……生きて」
その言葉を何度も繰り返しながら、カナは眠れぬ夜を越えた。
やがてこの選択が二人を分かつことになると、まだ知らないまま。