五章 告白
朝の八時、わたしたちはいつもどおりの顔で、登校していた。
つい先ほどまで図書館で、先生たちと攻防を繰り広げていたなんて、まるで嘘みたいだ。
攻防のあと、サラちゃんとゴローくんと合流して、作戦成功を喜びあった。涙がことの顛末を面白おかしく話すので、サラちゃんも悠慈くんも大爆笑だ。その隣でゴローくんは、わたしたちが無事に帰ってきたことを泣いて喜んでいた。わたしのゴローくんに対するイメージはガラガラと溶けて崩れた。もちろん、いい意味で。
帰り際、涙に「飴雪もやっとこれで解放されるね。」と言われた。
そうだ、わたしは〝今回に限りKIDSの作戦に同行する〟という約束だった。作戦が終わったということは、もうわたしがKIDSにいる意味も終わったということだ。
「飴雪はオレたちの正体を人に話すような子じゃないだろうし、記憶をなくす薬は打たないでおいてあげるね。」
まだそのつもりだったのかと、わたしは苦い気持ちになる。
「ま、もう共犯者だから誰にも話せないだろうけどね。」
そう言って悪戯っこく笑う涙の口ぶりに。今日が最後で当然という口ぶりに。わたしはどこか、寂しさを覚えてしまったのだった。
朝の会で今年の夏休みの宿題が〝自主学習〟だけになったことを告げられ、生徒たちがわっと歓声をあげた。
「やったね、あめゆきー。さすがKIDSだね。」
羽優ちゃんも振り返って、わたしの手を取って喜んでいた。羽優ちゃんはKIDSの正体を知らない。だから直接わたしたちが褒められているわけではないのに、なんだかとっても嬉しくなる。
『オレはみんなに楽しんでほしい。それだけ。』
涙の言葉がまた、わたしの心に波紋を落とした。みんなの笑顔を見ていると、これが涙の見たかった景色なんだろうな、と嬉しくなる。
夏休みから宿題がなくなればいい、今までどれだけの人が、そう願ってきただろう。どれだけの人が、願うだけで通り過ぎていっただろう。そんなバカみたいな願いを、本気で叶えようなんて、他に誰が思うのだろう。
これからもきっと、涙たちは『楽しそう』という理由ひとつで、バカみたいなことを本気で企んで、そうして実際に叶えていくのだろう。
それが例え、誰かから見て悪いことだったとしても。辿り着く先にこうして笑顔があるなら、それでいいと。
寂しい。
わたしは率直にそう思った。
わたしもその隣に立ちたい。
みんなと、この町を楽しませたい。
そしてなにより、みんなとの時間をわたしが楽しみたい。
もうすっかり、そう思ってしまっていた。
ママとパパが知ったら、怒るかな。わたしを悪い子だと、叱るかな。それとも、わたしが決めたことならそれでいいと、応援してくれるかな。こんなこと、これまでなかったから、分かんないな。いつか話せたらいいな。
今日の放課後、みんなに想いを伝えに行こう、わたしはそう心に決めた。サラちゃんは喜んでくれるだろう。悠慈くんは少し嫌な顔をするだろうか。ゴローくんは…、泣いちゃったりするのかな。涙は、どんな反応をするかな。
わたしはみんなの表情を想像しながら、ふわふわとした気持ちでいた。想像もつかない新しい毎日が始まるという、予感。先が見えなくて、道はふわふわとしていて、でも空は青くて。その未知を心地いいと感じられた。
一時間目の授業は、国語だった。
わたしは引き出しから筆箱を取り出す。この筆箱を金曜日、取りに戻ったところから全てが始まったんだ。ママとパパがくれた、筆箱。
あんなに必死に取りに帰ったものの、結局今まで一度も開かなかったけれど。やっぱり大切なものは、手元にあると安心する。
先生が板書を始めるので、わたしも筆記用具を取り出そうと筆箱を開けた。すると。
中に小さく折り畳まれた紙を見つけた。
なんだろう、こんなの入れたっけ。
わたしはその紙を取り出して、裏返してみた。外側には何も書かれていない。開いてみると、それは手紙のようだった。踊るような元気いっぱいの字体で、始まりにこう書かれていた。
〝飴雪はきっとこの手紙を、月曜日の一時間目の国語の授業で、板書を写すタイミングで読んでいるんじゃないかな。〟
わたしは、ぞっとした。見られているような、感覚。手紙だから今、見られているなんてあるはずないのに。過去に書いたものであるはずなのに。言い当てられている。駆り立てられるように、わたしは続きを読み進めた。
〝オレはこの手紙を、金曜日の夕方に書いているよ。金曜日の夜、飴雪は大事な筆箱がないことに気がついて、教室に取りに帰るだろう。おかしいと思わなかった?ちゃんとランドセルに入れたはずなのにって。
飴雪はちゃんとランドセルに入れてたよ。帰り道、階段で会って一緒にジャンケンをしたことを覚えてる?実はその時に、飴雪のランドセルから抜きとったんだ。気がつかなかったでしょ。
筆箱の中にこの手紙をいれて、これから飴雪の机の引き出しに戻すつもり。一時とはいえ大事なものを盗んで、ごめんね。
飴雪はきっと夜の学校で、ゴローに出会ってオレたちのところに連れてこられるんじゃないかな。ゴローは粗暴なところがあるからちょっと心配だけど、さすがに女の子に乱暴はしないでしょ。
そのあと飴雪は、オレたちについてくる選択をしてくれると思う。脅しに使う予定の注射器は、実はおもちゃの注射器なんだけどね。
そして、オレと作戦を共にする。飴雪はきっと、オレにろくに説明を受けずに印刷所へ連れて行かれて、すごく困ったんじゃないかな。わざとなんだけどね。飴雪がどんな子なのか試したくてさ。
でも、飴雪も楽しかったんじゃないかな。あらすじを聞いてしまうよりも、どうなるか分からない方がワクワクするでしょ
でもきっと、飴雪なら大丈夫。本当に困ったときは、ちゃんとオレが助けるしね。
それから、図書館で職員室のお祭り騒ぎを確認して、宿題のない夏休み作戦は終了。これがオレの予想だけど、その通りになってるかな。〟
最後の一悶着は本当に想定外だったのかもしれない。でもほとんど、描かれたとおりになっている。金曜日の夜に書かれたものだなんて、まるで信じられない。
〝最後に、もうひとつ予想。
飴雪はいま、KIDSの一員になりたいと思ってくれているんじゃないかな。〟
身体中の血管ざわざわと、ざわめいている。持つ手がぎゅぅと縮こまって、手紙に皺をつくった。
〝だって、オレがそうなるように、最初から最後まで全部、仕組んだんだから。そうなるに決まってる。〟
ざわざわ。ざわざわ。教室の音が、遠ざかっていく。
ざわざわ。ざわざわ。自分の血液の流れる音だけが、耳を触る。
ガタンッ。
大きな物音がなって、驚いた。
「どうした、春。」
先生に言われて、気がついた。それはわたしが、椅子から立ち上がった音だった。
「顔が、真っ青だぞ。」
先生は心配そうにそういうと「保健室に行ってこい、誰か付き合ってやれ」と指示を出した。
羽優ちゃんが「わたしが」と言うのを、一人で行けると制して、手紙を握りしめて教室を出た。不思議と足取りはしっかりとしていた。
わたしは保健室に行かずに、学校の中庭のベンチに腰掛けていた。
手紙の差出人なんて、最後まで読まずとも分かっていた。
ただ、上手く現実が、受け止められなかった。
まさか全部、仕組まれたことだったなんて。
筆箱を忘れて、偶然ゴローくんに会ったことも。KIDSと行動を共にするという選択も。工場で何度もピンチに陥ったのも。ぜんぶぜんぶ、手のひらの上で、必然だった。
わたしが連れ去られて怖いと思ったのも。工場ではどきどきしたけれど、楽しかったことも。助けてくれて、嬉しかったことも。ピンチを乗り越えられて、感動したのも。これからも一緒にいたいと願ったのも。あれも。これも。それも。どれも?
頭が、ぐるぐると灰色に渦巻く。深い深い穴にゆるゆると堕ちていくみたいだ。
わたしは、目を、開けた。
今日は天気がとてもいい。
緑の葉が陽の光を受けてきらきらと輝き、鳥たちが枝の上で楽しげに囀る。花は風にゆられて、蝶たちがきらきらと飛び回る。
きらきら。きらきら。
『気持ちがざわざわするときはね、深呼吸をするの。ざわざわを口からゆーっくり吐き出して、世界のきらきらを吸い込むの。自分の中を満たしてくれるまで。』
ママはよくそう言って、日向ぼっこに連れ出してくれた。ママはいつもニコニコしていたけれど、何にざわざわしていたのだろう。今ではもう聞くこともできない。
わたしは大きく息を吸って、ゆーっくりと吐いた。それを繰り返していると、少しずつ自分の中のざわざわが、洗い流されていくような気がする。
きらきらで、満たされていくような気がする。
わたしは意を決して、握りしめてしめてぐしゃぐしゃになってしまった手紙を開いた。そうして手紙の最後の文章を、読んだ。
〝ぜんぶ知ったうえで、本当のキミの気持ちを聞かせてよ、飴雪。
涙より〟
読み終えてわたしは、空を仰いだ。どこまでも青く澄んで、輝いている。きらきら。きらきら。雲がひとつもなくて、わたしの心とはまるで正反対だ。
息を吸って、吐いて。心の雲を、吐き出していく。
わたしの本当の気持ちは、どこ?………
「わたしだって、過ごした時間は短いけど、涙を笑顔にしたい。それは悠慈くんにだって、負けないよ!」
はっとした。それは過去の、自分の声だった。
いつかの階段で、悠慈くんとジャンケンをした時。わたしはそう、言ったのだった。
放課後。わたしは校門の花壇に腰掛けて、人を待っていた。転校してから毎日続けていた羽優ちゃんとのジャンケンを、初めて断ってしまった。
初夏とはいえ、まだまだ太陽は急ぎ足だ。夕焼け色に世界は染まって、世界中のものの輪郭が淡く見える。何もかもが曖昧に輝いている。
淡い淡い校舎の影から、待ち望んでいた影が飛び出してきた。
「飴雪、お待たせ!」
涙が息を切らして、そう言った。
「イタちゃんに捕まっちゃってさ。いやー、机って見てるとピラミッド型に積み上げたくなるよね。オレはそう思うんだけどな。飴雪はそう思わない?」
また掃除の時間に遊んでいて、先生に怒られたのだろうか。夕焼けの淡さなんて吹き飛ばすくらいの勢いで、元気いっぱいに白い歯を見せて笑う涙は、いつもと変わらなくて。
「で、下駄箱に手紙なんて入れて呼び出してどうしたの?」
そう言って涙は、わたしの隣に腰掛けた。
「なんてね、分かってるよ。オレからの手紙を読んだんでしょ。」
わたしはこくんと頷いた。
「全部涙が仕組んだものだったんだね。」
「そうだね。予想外なこともあったけど、概ねオレの描いた通りになったかな。」
「なんでわざわざ、ぜんぶ告白したの?」
わたしの疑問に、涙は「んー」と空を仰いだ。
「オレも、よく分かんない。」
予想外の答えに、わたしは戸惑った。涙のことだからなにか、計算や理由がそこにあると思っていたのだ。
「ほんとに、分かんないの?」
「うん。でも一連の作戦を思いついた時に、飴雪には最後、知ってほしいって思ったんだ。ぜんぶ知ったうえで飴雪が出す、答えを知りたいって。言わなければ絶対に最後は〝入りたい〟って言わせる自信はあったんだけどさ。」
涙は「変だよね」と呟いた。
「オレのこと、飴雪は優しいって思ってるかもしれない。けど、本当にそうだと思う?手紙を読んで、よく分かったんじゃない?」
涙のことは、本当によく分からない。
泣いてばかりだったわたしを、もう一度笑えるようにしてくれた。自分の名前を気にしていた。わたしをKIDSに無理矢理巻き込んだ。わざとわたしが大変になるような状況で、工場に潜入させた。でも最後は、助けてくれた。実現不可能な作戦を、成功させてみせた。自分の企みをわたしに、暴露した。
ぜんぶが涙だ。優しいのか、優しくないのか。怖いのか、怖くないのか。
甘いと思ったら辛い、あの時もらったカレー味のキャラメルみたいだ。
「涙はさ、わたしがKIDSに入りたくなったのも、自分がそう仕組んだからだって言うんでしょ。」
「やっぱり、そう思ってくれてたんだ?あーあ、最後に全部告白するなんて、もったいないことしたかな。」
涙はまるで、手紙を出さなければわたしがKIDSに入っていて当然だという口ぶりだ。でも。
「でもね、それは大間違いだよ。」
わたしはベンチから立ち上がると、涙の前に立ちはだかった。
「涙がどんな作戦でわたしを変えようとしたって、わたしの心までは変えられない。だってわたしの気持ちは、最初から最後までひとつも変わってない。」
涙が驚いたように瞳を見開いた。まんまるい瞳が、夕陽を吸い込んで揺らめいた。
「ほんとに?」涙が言う。「ほんとに、最初から最後まで、変わらないの?」
わたしは強く頷いた。
「涙は傲慢なんだよ。自分のこと、神様だとでも思ってるの。」
涙はまんまるい瞳をぱちぱちさせると、突然、お腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしいの。人が真剣に話してるのに。」
「くくっ、ごめんごめん。そんなことはじめて言われた。確かにね、傲慢でした、ごめんなさい。」
涙は、くはははっと堪えきれないように笑いながらそう言った。わたしも最初は怒っていたのに、涙があまりにもきらきらと笑うので、つられて気がつけば、同じように笑いをこぼしていた。夕焼けのなかふたりの笑い声がきらきら、きらきら溶けていく。
「じゃあ、傲慢なオレに教えてよ。飴雪の今の気持ち。」
わたしは笑いながら、涙の手を取った。そんなこと、最初から決まっている。
色々な出来事が起こって、迷ったり戸惑ったりもしたけれど。
この気持ちは出会った時から、ずっと変わらない。
「これからも涙の隣で、涙を笑顔にしたい!」
涙は瞳をまあるく、輝かせた。
「オレが飴雪を笑顔にするんじゃなくて?」
「うん、もうたくさん笑顔にしてもらったから。これからはわたしが、涙を笑顔にするの。」
「何それ。泣き虫だったくせに。飴雪ってほんと、変。」
涙がため息をついて、そっぽを向いた。また冗談を言ってかわされているのかと心配になるけれど、すっかり夕焼け色に染まった横顔に気がついて、わたしは笑った。
「知ってる?涙って照れると、耳が真っ赤になるんだよ。」
「ヘっ?」
涙が慌てて、耳を隠した。いつも余裕そうな涙が、こんなにも慌てている。
これで今回のことは、おあいこかな。わたしはすっかり、満足していた。そしてやっぱり、焦っている涙がおかしくて、きらきら、笑いがこぼれた。
ママとパパがいなくなった時は、こうしてまた笑えるようになるなんて、思っても見なかった。今だってまだ、悲しくて泣きそうになる日もあるけれど。涙といれば、きっとまた笑える。日々を歩いていける。そうしていつかわたしがおばあちゃんになって、ママとパパに会えた時には、きっとたくさん、面白くて時にはらはらするような思い出話が、聞かせてあげられる。
涙といると、これからも毎日、楽しくなる。そんな予感で胸がきらきら、満ちていた。