三章 潜入
「飴ちゃん、起きて!」
サラちゃんの声に、わたしはのそりと目を開いた。昨日も一昨日もなかなか寝付けなくて、すこぶる寝不足なのだった。どうにも起きる気になれなくて、抵抗の意味を込めて寝返りを打つ。
「作戦が始まるよ!」
学校がある日はなかなか起きないのに、今日のサラちゃんときたら、日曜日の早朝とは思えないほどに目をキラキラと輝かせている。眩しい。
わたしは観念して身体をのそのそと起こした。
「飴雪も新しくメンバーとして加わったことだし、改めて作戦の概要を話すね。」
金曜日の夜、涙は〝宿題のない夏休み作戦〟についてざっくりとした説明をしてくれた。
「これは悠慈が手に入れた、今年のみどり町小学校の夏休みの宿題一覧。」
そう言って、机に一枚の紙を広げて見せた。
そこにはこう書かれていた。
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〈夏休みの宿題リスト〉
[低学年]
・漢字ドリル
・計算ドリル
・自由研究
・絵日記
・読書感想文
[高学年]
右記のものプラス
・国算理社復習ドリル
・家庭科の学習
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「たくさんある…」
宿題の一覧を見ただけで、わたしはうんざりとした気持ちになる。勉強は嫌いじゃないけれど、夏休みの宿題は量が多いせいで、時間がどうにもかかってしまうのだ。
「たくさんあるように見えるけど、宿題は大きく二種類に分けられる。まず一つ目、教材会社に注文しているもの。そして二つ目、先生たちが手作りしているもの。」
わたしは宿題リストをじっと見て言った。
「教材会社に注文しているものっていうと、ドリルとかのこと?」
「そうそう。ドリル全般だね。」涙が頷いた。「これは簡単に言えば、学校にいま届いているものを処分すればいい。これは今日、ゴローがしてくれた。」
ゴローくんはやはり、無言でしかめ面して立っている。わたしはゴローくんがまだ怖くて、そそくさと宿題リストに視線を戻した。
「二つ目は、先生たちが手作りしているものだよね。これは…、ドリル以外の残りの全部ってこと?」
涙がまた、頷いた。
「そうだね。これは先生たちのパソコンに作成済みのデータがある。それを削除するのは、悠慈がやってくれた。悠慈ってIT強くて、なんでも器用にやってくれるんだ。すごいだろ。」
得意げな涙に、悠慈くんは「そんなことないよ」と答えた。わたしと目が合うと、にやりと得意げな表情を向けてくる。
悠慈くんにこの前、ジャンケンをしている時に言われた「何年守ってきてると思ってるんだ。」という言葉の意味が、今やっと分かったような気がした。悠慈くんはこうして、色々な面で涙を助けてきたのだろう。
「じゃあもう、これで作戦はお終いじゃないの?」
わたしの言葉に、甘いなあ、と涙が言う。
「先生たちは月曜日に学校に来て、宿題がないことに気がつくと、きっとどうにかしようと必死に策を凝らしてくる。」
涙に続いて、悠慈くんも言った。
「うん。例えば、ドリルだともう一度発注をかけようとするだろうし、家庭科の学習はもう一度作り直そうとするだろう。」
「二人ともよくそこまで考えられるよね。」
サラちゃんの言葉に、わたしも頷いた。
でも、そうだとすると、無限に宿題が湧いてきてしまって、どうしようもないのではないだろうか。
「だから、先生たちが策すら凝らせないように、徹底的に道を潰す。完璧に盗む。それをこの土曜日と日曜日の間に、オレたちはやるんだ。」
そういう涙の瞳は、まるでイタズラを考えている小さな子どものように、輝いていた。
「どうやって、するの?」
「まあまあ、順を追って説明していくからさ。今回の作戦は、みんなで役割分担してるんだ。
まず、自由研究と絵日記はゴロー。読書感想文は悠慈。そして、家庭科の学習はサラ。そして、オレがドリル担当。飴雪にはオレについてきてもらうよ。」
自由研究も絵日記も、読書感想文も家庭科の学習も。どうやって完璧に盗むのか、まるでわたしには想像がつかない。
ドリルも、発注すると何度でも用意できてしまう気がする。一体何をするつもりなのだろう。
「はは、何をするのか想像もつかないって顔だね。」
わたしを見て、涙は見透かしたように笑った。
「オレたちドリル班は日曜日、印刷所に潜入する。」
「印刷所?」
「そう。みどり町は山に囲まれていて交通の便が悪いおかげか、町ひとつで生活が完結できるように発展している。夏休みの宿題のドリルも、町の印刷所に発注されて、刷られて出来ている。だから、この印刷所を止めてしまえば、もうドリルは作られないってこと!」
それが本当だとすると、確かにドリルを再発注する道を潰して、完璧に盗める。
「でも潜入ってどうするの?バレないようにこそこそ入るの?」
「いやいや、入るなら堂々と正面からだろ。」
わたしの言葉に、涙が当然のように言ってのけた。そしてわたしに、一枚の紙を手渡した。そこには見知らぬ女性の顔と名前、そしてプロフィールが載っていた。
「えーと、この人は?」
意図を汲めず、わたしは尋ねた。
「飴雪が明後日、変装する人だよ。」
「え?」
「カトリーナ・ワトソン。印刷所で働く十九歳の女性。彼女は日曜日のシフトに入っているけれど、さっき工場長の声で休みの連絡をしておいた。彼女の代わりに、飴雪が出勤するんだ。」
「え!?」
わたしはもう一度、カトリーナさんのプロフィールを見た。金髪に碧眼の、綺麗なフランス人の女性。対してわたしは、九歳のちんちくりんだ。額を嫌な汗がだらだらと流れ落ちる。恐々と、読み進める。
性格は元気で快活。人に対する好き嫌いが激しく、付き合いは特定の人に偏りがち。敬語は粗雑で、上司にも反抗的な態度が目立つ。…なかなか癖のある人物のようだ。
両親ともにフランス人だが、カトリーナは日本育ち日本生まれ。そのため日本語が堪能…という言葉が、唯一の救いだった。
「あっ、ちなみにこっちは、オレが変装する人ね。一応、目を通しておいて。」
そう言って、もう一枚の紙を渡される。田中贋造、五十八歳、と書かれている。偏屈そうな表情のおじいちゃんの写真が、載っていた。わたしは思わず、涙と写真のおじいちゃんを見比べる。
「じゃ、そういうことで、日曜日は五時集合ね!はい、解散!!」
わたしの戸惑いには触れられないまま、虚しく解散の合図がかかった。ベッドに入っても日曜日のことが気になって、目がぎんぎんと冴えて、なかなか寝付けなかったのだ。
眠い目をこすって、サラちゃんに引きずられるように集合場所へ行くと、もう悠慈くんと涙が来ていた。ゴローくんはまだいないようだ。
「よし、揃ったね!」
ルイが言った。
「揃ったな。」
「うんうん、全員揃ったね。」
悠慈くんもサラちゃんも言った。
「えっ、ゴローくんは?」
わたしの言葉に、三人は目をきょとんとさせた。
「ゴローはほら、自由人だから。」
「集合場所に来ることなんてまずないよ。」
当たり前のように言う三人に、わたしはますます、ゴローくんのことが分からなくなった。
「まあ、やることはやる奴だから、そこは信頼してるしね。」
涙がそう言って、笑った。やっぱり、涙とゴローくんの仲は、悪くないみたいだ。
「それじゃあ、みんな。笑って怒って、人生を楽しむ準備はできた?」
「もちろん。」
「バッチリだよ!」
涙の問いかけに、悠慈くんとサラちゃんが元気よく答えた。
「飴雪は?」
「えっ。」
「飴雪は、準備できた?」
涙がじっと、わたしの目をみつめてくる。
涙は普段、ずっとふざけて笑っているからあまり気がつかないけれど、瞳が丸っこくてきらきらと透けていて、とても綺麗なのだ。その目に見つめられると、何も分からないのに、吸い込まれるように頷いてしまう。
「よし。作戦始動だ!」
「「おー!」」
涙の掛け声に、二人が元気よく拳を突きあげた。
わたしもつられて、拳をのろのろとあげた。
四つのこぶしが、朝の太陽の光を受けて、煌めいた。
「はい、どうぞ。」
そう言って、サラちゃんに渡された鏡を覗いて、わたしは悲鳴をあげてしまった。
「誰、これ!」
そこには、見たこともない人間が映っていた。鏡を覗いて全く別の人間が映るというのは、なんと気持ちの悪いものだろう。
わたしは、ルイとサラちゃんと印刷所の裏手にある古屋の中にいた。そこでサラちゃんに言われるままに服を着せられて、メイクをされたのだが、終わって鏡を手渡されてみて、衝撃を受けた。メイクで別人のようになった、というのとは違う。全くの別人になっていたのだ。
「カトリーナだよー。」
そう言われて、資料に載っていた女性の顔と、鏡の中の女性の顔が重なる。
変装して潜入なんて不安だったけれど、この顔なら大丈夫かもしれない。鏡に向かって、頬をつねったり、笑ったりしてみていると、後ろから背中を叩かれる。
「お前さん、鏡に向かって何をしとるんじゃ。」
嗄れた声に振り返ると、そこには見知らぬおじいちゃんが立っていた。
「ぎゃ…」悲鳴をあげようと口を開くと、おじいちゃんが俊敏にわたしの口を塞いだ。
「しーぃ。オレだよ。」
その声にはっとする。
「涙!?」
だが、目の前にはやっぱり見慣れないおじいちゃんがいて。脳が疑問符でいっぱいの大混乱を起こしてしまう。
「田中贋造だよ。」
そう言われてみると、資料の中のおじいちゃんの顔と重なった。サラちゃんのメイクの技術は、相当なものらしい。でも、声はどうやって変えていたんだろう。
「飴雪もほら、このマスクをつけると、完璧にカトリーナになれるよ。」
涙に手渡されてマスクをつけてみる。あー、と声を出してみると、聞き慣れない声が耳から聞こえた。
「なにこれ!?」
「マスクの中に変声機が入ってるんだ。ほら、ちゃんとカトリーナの声になってるでしょ。」
「うう、なんか、変な感じ。」
自分が話しているはずなのに、違う人の声で聞こえる。今まで体感したことのない気持ち悪さだ。
「いやー、我ながらいい出来だね!」
「サラちゃん!」
サラちゃんが満足げに、わたしと涙の顔を交互に見て頷いた。
「さっすが、サラ!ほんとありがとう!」
「へへ、褒めても靴しか出ませんぞー。」
そう言ってサラちゃんがどこからか靴を取り出す。
「靴?」
「うん。飴ちゃんはカトリーナさんに比べて身長が足りないから、この靴を履いてね。インヒールで一見スニーカーにしか見えない優れものだよ。」
「わたし、ヒールの靴って履いたことない。上手く歩けるかな…。」
「なんとかなるなる!」
サラちゃんに言われて、靴を履いてみる。確かに思ったより普通に歩ける。ヒールの靴ってかかとが棒にのっているから、もっと歩くのが難しいものかと思っていた。
「おっ、そろそろ贋造とカトリーナの出勤時間だ。飴雪、いくよ!」
ルイが突然そう言って、古屋を出ていく。
「いってらっしゃーい!」
サラちゃんがぶんぶんと手を振って、元気に見送ってくれる。
「えっ、もう?作戦会議とかはないの?」
迷いなく工場に向かっていく涙を、わたしは急いで追いかける。
「うーん。飴雪にオレから伝えることはひとつだけだよ。」
「な、なに?」
わたしは乾いた喉が水を求めるように、涙の返事を待つ。
「工場を一週間止めよう。」
「一週間?」
「うん。一週間あれば夏休みに入るから、オレたちの作戦には十分だ。あまり止め過ぎても、工場が可哀想だろ?」
わたしは驚いて返した。
「涙にそんな、人間らしい感情があったんだね。」
「ははっ、ハッキリ言うね〜。オレは別に、人を苦しめたくてKIDSにいる訳じゃないよ。」
そう言って涙は、屈託なく笑った。見た目はおじいちゃんなのに、わたしの目にははっきりと、涙のいつもの、あの悪戯っこい笑顔が見えた。
「オレはみんなを楽しませたいんだ。それだけ。」
まるで波紋のように、その言葉はわたしの心に響いた。思わず足を止めたわたしの背中を、涙がぽんと叩く。
「ほら、しっかりして。潜入開始だよ。
カトリーナと贋造が一緒に出勤なんておかしいから、カトリーナが先に行くんだ。」
「えっ、一緒に行かないの?」
不安になって尋ねると、涙が言った。
「大丈夫。困った時は助けてやるからさ。」
工場に足を踏み入れてからは、言わずもがな苦難の連続だった。知らない場所に、知らない人、そして知らない仕事なのだ。
まず玄関をくぐったものの、そのあとどこに向かえばいいのか分からない。人の流れに従っていくと、とある部屋に皆が入っていく。扉には「ロッカールーム」と表示が出ているのが見えた。そこで、どうやら作業着に着替えて出てくるようだ。
ここでまず作業着に着替えよう。そう踏んで部屋に入ったはいいが、今度は自分のロッカーの場所が分からない。どぎまぎしながら周りをよく観察すると、ロッカーに名前が記されていることに気がついた。きょろきょろとしながら部屋を回ると、なんとか「ワトソン」の名札がついたロッカーを見つけた。ほっとしてカトリーナさんのロッカーを開けるが、そのあとまたどうすればいいのか分からない。
隣でロッカーを開けている人を覗き見ると、ばっちりと目があった。
「えっ…と?」
「あんた、何してんの?」
心臓が大きく飛び跳ねる。
変装がバレた?きょろきょろしていたから怪しまれた?他の人のロッカーを開けてしまった?
思い当たる節があまりにも多すぎて、どうしたらいいか分からず硬直してしまう。
「気持ち悪いくらい元気ないじゃん。」
「そっ、」わたしは錆びついた脳を必死に回転させる。「そうなの。風邪気味でちょっと、気力が湧かなくて。」わざとらしくゴホゴホと咳をして見せる。
「やっぱり、そうだと思った。なんだかぼーっとしてる。」
「そうかな、熱はなかったんだけど。」
「ロッカー素通りしかけるし、あたし見かけても声もかけてこないなんてさ。」
「はは、確かにボーッとしてるかも。」
この人は、カトリーナさんのお友達さんだろうか。
わたしは会話をしながら、素早くロッカーに目を走らせる。カトリーナさんのロッカーはかなり混沌としていた。つまり、散らかっていた。上下のツナギはハンガーに乱雑にかけてあったのですぐに見つかったが、帽子がどこにも見当たらない。
「じゃ、あたし先行くね。」
「待って!」
わたしは慌ててお友達さんを呼び止める。
「えっ、なに?」
先に行かれてしまうと、このあとどう行動すればいいのか分からなくなってしまう。できたら一緒に行動したい。
「一緒に行こう。話したいし。」
「えー、だってあんた、また適当に片付けて、帽子見当たらないんでしょ。その辺のゴミの下に紛れてんじゃないの?」
よかった、怪しまれずに引き止められた。
「ゴミなんて失礼だな。あっ、あった。」
「ほらね。早く行くよ。朝礼始まる。」
「うっ、うん!」
わたしはお友達さんに、ついて歩いた。まず、第一関門クリアかな。わたしは心の中でガッツポーズをした。なんだ、わたし結構上手く、潜入できてる。
胸を撫で下ろしながらも、ちょっとずつこの状況を楽しみ始めているわたしがいた。
お友達さんはどうやら、話すと止まらないタイプらしい。
「思い出してもほんとありえないんだけど。昨日、彼氏がさあ」
相槌さえ打っていればボロは出なさそうだ。わたしは調子を合わせながら、周囲を観察する。
みんな同じ作業着を纏って、同じ方向へ歩いている。帽子とマスクのせいで目元しか見えないから、人を区別するのは難しそうだが、変装がバレることはまずなさそうだ。
「で、あんたは最近彼氏とどうなの?」
「へ?」
急に話を振られて、心臓が跳ねる。
「とぼけちゃって。秘密の社内恋愛なんて、興奮するわよね〜。」
友達の口ぶりからすると、どうやらカトリーナは工場内に恋人がいるらしい。資料には書かれていなかったから、なんて答えたらいいのかわからない。
「えへへ…」
わたしは誤魔化すように笑って、お友達さんの話に付き合った。
お友達さんに連れて行かれたのは、講堂のようなところだった。そこで朝礼のようなものが行われ、工場長からの少し長いお話が終わると、「今日も一日頑張りましょう。」の掛け声で解散になった。
頑張りましょうと言われたところで、わたしは一体どこで頑張ればいいのだろうか。そういえば今更だけれど、資料にはカトリーナさんのプロフィールに関することしか載っておらず、仕事上のことは何も書かれていなかった。みんなが思い思いの持ち場に向かっているみたいだけれど、わたしは自分の持ち場が分からない。
隣を見ると、いつの間にかお友達さんも消えていた。これじゃ、聞くこともできない…。
「ワトソンくん、何をしているんだね。」
途方に暮れていると、後ろから声をかけられる。
「ぼーっとしてないで、早く持ち場へ行きなさい。」
その持ち場が分からないんです……という気持ちで振り返ると、そこには見覚えのあるおじいちゃんがいた。田中贋造さん。つまり、涙だ。
不安でいっぱいだった気持ちが、きらきらと光で溶けていく。思わず縋りつきそうになるのを、ぐっと堪えた。
「あの…。」
「ワトソンくんの持ち場はこのフロアの一番奥にある印刷室、だったね。ついでにこの資料を持っていってくれないか。」
「はっ、はい!」
さすが涙!さりげなく場所を伝えて助けてくれた。
わたしは早足で印刷室へと向かう。
道中、涙に渡された資料を開いて見ると、印刷室への地図と、カトリーナの仕事内容が書かれていた。どおりで仕事内容についての説明が何もされてないと思った。もっと早く渡してくれていたら、ここまでこんなに苦労しなかったのに。
助けてくれたと思って感謝して、なんだか損した気分。わたしはため息をつきながらも仕事内容を頭に叩き込み、よし、と気合を入れて印刷室の扉を開ける。
「遅い!!!」
入るや否や、怒声に刺された。驚いて、思わず肩を縮こめる。
「何をしているんだ、ワトソンくん。どうせ君はまたぺちゃくちゃと無駄話をしていて遅くなったのだろう!」
身体の大きな上司が、今にもわたしに掴みかからんばかりの勢いで怒っていた。確かに少し遅れてしまったけれど、そんなに怒ることだろうか。
咄嗟に謝りかけて……、カトリーナのプロフィールに、〝上司には反抗的〟と書かれていたことを思い出した。
「少し遅れただけじゃないっすか。」
「だからその少しがだな…!」
火に油を注ぐとはまさにこのこと。上司はゴウゴウと燃え盛る勢いで怒っている。上司の怒鳴り声を聞きながら、わたしは印刷室を見渡した。
そこには大きな機械から小さな機械まで、たくさん並んで、それぞれが自分の役割を果たすように動いていた。紙は機械から機械へとどんどん渡され、最後には街で見かけるような完成品となって出てくる。紙は一枚ずつ流れていくところもあれば、上下左右に折り重なって一気に何十枚も流れていくようなところもある。壮観だった。
「聞いてるのか、ワトソンくん!」
その統制された動きに見惚れていたわたしを、上司の声が呼び戻す。そうだ、わたしはこの工場を一週間、止めなければいけないのだ。
「あの。」
「なんだ。」
上司が不満げに答える。
「私、出来が悪いじゃないっすか。」
「君、分かっていたのか。それなら…」
今にもまた長いお説教が始まりそうなのを、わたしは慌てて遮る。
「あの、だから、つまり。私が絶対にやらない方がいいこと、教えてもらえますか。」
「は?」
「例えば…」わたしは緊張で乾いた喉を潤すように、唾を飲み込む「一週間工場を止めちゃうようなことがあると、大変じゃないっすか。」
「ほう。」
上司がじっとわたしを見つめてくる。探るような視線にたじろぎそうになるのを、じっと堪えてその場に立つ。
「なかなかいい質問をするようになったじゃないか。」
そう言って上司は満足そうに頷いた。
「そうだな。例えば…」そう言って、上司はわたしを指差す。「お前がよくつけてきているその耳飾りや髪飾り。何度言っても外そうとしないが、俺が何度も言うのには理由がある。故障の原因になるからだ。」
「故障?」
「そうだ。例えばお前がそれを落として、機械が巻き込んでしまったとする。すると機械は止まる。そこで異常を確認し、気がつけばうまくとり除いて再稼働できる。しかし、万が一気が付かずに再稼働させてしまったら?機械の中で絡まり、機械を傷つけ、しまいには故障して動かせなくなってしまうだろう。」
それだ!とわたしは心の中で叫んだ。
「どの印刷機が一番壊れるとまずいっすか?」
「全部に決まってるだろ!」
上司が大声を上げる。どうしてこの人はもう少し、穏やかに話せないのだろう。
「だが、そうだな。中央にあるオフセット印刷機三台。あれが実際に印刷をしている機械なのだが、この工場の根幹でもある。あれが壊れるとまずいだろうな。」
わたしは上司の目線の先にある、一際大きな印刷機三台を確認する。
「だから、特に気をつけるように。」
「そうなんすね、ありがとうございます。アクセサリーもちゃんと、外しておきますね。」
「やっと分かってくれたか。」
わたしはサラちゃんのつけてくれたイヤーカフとピン留めを外して、感心する上司の目の前で、ポケットに入れた。
「いい心がけだ。では、仕事に戻るように。」
上司は満足げに、去っていった。わたしはやるべきことが見えた興奮と緊張で、震える手を隠すように後ろで組み、配置についた。
わたしはそろりそろりと、中央の印刷機に近づこうとする。すると。
「ワトソン!何をやっている!」
「何もしてないっすよ。」
「嘘をつくな。お前また、ふらふらと持ち場を離れようとしていただろう。」
「離れてないって。」
少し持ち場を離れようとすると、すぐ上司の怒鳴り声が飛んでくる。どうやらカトリーナさんは上司に、相当目をつけられているらしい。
どうにかしてあの上司をこの部屋から追い出さなければ、作戦決行は難しそうだ。
カトリーナにこれだけ怒るだけあって、上司はかなり真面目そうだ。滅多なことでは席を外しそうにない。
どうしようかな……。
わたしは目の前の仕事に集中するふりをしながら、考えた。
上司がこの部屋を出るとしたら、どういうパターンがあり得るだろう。
トイレに行くとか?でも、上司がいつトイレに行きたくなるかなんて、予想がつかない。最悪、今日はトイレに行かないかもしれない。そんな不確定要素に賭けたくない。
もしくは、誰かに呼び出されるとか…。
あっ!とわたしはその瞬間、閃いた。そうだ、その手があった。機械に反射して、楽しそうに笑っている自分が映った。はっとして、思わず表情を整えた。
気がついた。自覚した。この状況を、わたしは楽しんでいるんだ。笑って、楽しんで、いるんだ。こんな自分がいるなんて、これまで生きてきてずっと、知らなかった。
わたしは深呼吸をして、高揚した息を整える。
そして、上司の方へと歩いていった。わたしが持ち場を離れたことに気がつくと、上司はまた目くじらを立てる。
「ワトソン!」
「違います。さっきそういえば、伝言を頼まれたことを思い出して。」
「伝言?」
上司の怒りが一時停止する。
「っす。」
わたしはすぅと息を吸い込んで、言った。
「田中さんが、呼んでました。」
「田中さん?」上司の眉が、ぴくりと動く。「田中さんって、どの田中さんだ。」
もしかして田中さんって、この工場にたくさんいるのだろうか。
「田中贋造さんです。話があるから来て欲しいって言ってました。」
「お前……!」
上司の声がまた一段と大きくなる。また来る、とわたしは小さく身構えた。
「田中相談役か!どうしてそんな大切なことを早く言わない!」
相談役って、確かすごい偉い役職だった気がする。涙ってそんなに偉い人に変装していたんだ。上司は聞くやいなや、飛び出すように印刷所を出ていった。
やった、成功した!わたしは誰もいなくなった部屋で、頬を緩むままにしていた。
涙なら、このあときっと上手くやってくれる。
お願いね、そう心の中で祈って、わたしは中央の印刷機へと駆け出した。
中央の印刷機は、すごい速度で紙を吸い込んでいっては、吐き出していく。それらは次の機械で乾かされて、コーティングされて…と流れていっている。確かに上司の言うとおり、この印刷機は印刷所の大元のようだ。
これさえ潰せば、一週間は印刷ができなくなりそうだ。完璧に、ドリルを盗める。
わたしはポケットからピン留めひとつと、イヤーカフふたつを取り出すと、それぞれの吸い込み口に勢いよく放り込んだ。
ガガゴン。
大きな音と振動がして、印刷機が止まった。
同時に、エラー音が響き渡る。思ったより大きく、耳をつんざくような触りの悪い音が部屋を揺らす。工場中に響いているのではないだろうか。わたしは想定外の事態に慌てて、点滅しているモニターに駆け寄った。
真っ赤な画面の中に、黄色い三角が点滅していて「異物が詰まっています。取り除いてください。」という表示が出ている。「点検して再稼働」というボタンが出ていて、慌ててそれを押すが、「まだ異物が詰まっています。取り除いてください。」という表示が出てしまう。とにかく音を止めたくて、画面をめちゃくちゃに触っていると、「強制再稼働」というボタンが出てきた。押すと、「本当によろしいですか?」というポップが出て、止まっていた印刷機が動き出した。
ゴゴゴガガガガガガ。
異物を巻き込んで、印刷機が悲鳴を上げた。しばらくその音に耳を塞いでいると、やがてついに動かなくなった。
できた!印刷機を壊せた!
ようやく静かになった印刷室で、わたしは達成感でひとり飛び上がった。
しかし、喜んだのも束の間。止まっていたコピー機たちが凄まじい勢いで紙を吐き出し始めた。床一面がどんどん、白い紙で埋まっていく。
このままでは、部屋中が紙で埋まってしまう……!
わたしは慌てて、印刷室を飛び出した。
廊下は、騒ついていた。わたしが印刷機を壊したのがばれたのだろうか。一瞬身構えるが、急ぐ人々は、廊下の反対側へと向かっているようだ。
「あっ、カトリーナ!」
呼び止められて振り返ると、背のすらっと高い男の人が笑顔で近づいてくる。
「持ち場を離れて大丈夫なの?君のその、元気いっぱいの上司さんは。」
男の人がちらりと、印刷室の扉を見た。
「だ、大丈夫。それより、この騒ぎは?」
わたしは隠すように、印刷室の扉から男の人を離した。いま印刷室に入られるとまずい。
しかし男の人の話ぶりからして、印刷室の騒ぎはバレていないみたいだ。音も、廊下に出るとほとんど聞こえない。部屋が防音になっているのか、この騒ぎのせいでかき消されているのかもしれない。
「制御室が壊れたらしいよ。工場全体の動きが見えなくなってるらしい。それで大騒ぎなんだ。」
「そっ、そうなんだ。」
それで、印刷室の異常が発見されてないんだ。それに確か地図で見た時、制御室は印刷室とちょうど真逆に位置していた。偶然の幸運が重なるものだ。
いや、違うか。涙の仕業な気がする。
涙がきっと、わたしが作戦を遂行しやすいように、裏でサポートしてくれていたのだろう。ありがとう、と念じる。
あとはきっと、わたしたちの変装がバレずに工場から逃げ切れたら、作戦は成功だ。
しかし、ふと気になってしまった。このまま逃げたら、カトリーナさんはどうなるのだろう。印刷機を壊したのはカトリーナさんだと思われて、きっととっても、怒られるのではないだろうか。
思い悩んでいるうちに、男の人がわたしの手を引いて、物陰へと連れていく。意図が組めずにされるがままにされていると、唐突にマスクを外された。
もしかして、変装がバレた!?
まずい、マスクを外されると、カトリーナさんの声になれない。
「ふふ、どうしたの、戸惑って。」
わたしは口をきつく結んで、男の人を見据えた。どうしよう、どうやってこの場をやり過ごそう。
「ほら、ここなら誰も見てないから、チャンスだよ。」
そう言って、男の人はわたしの顎に手を添えた。えっ、と思う間に、男の人の顔がどんどん近づいてくる。
待って、この人はもしかして、変装に気がついたのではなくて。お友達さんが話していた、カトリーナさんの彼氏さんで。これは噂に聞く、キス…!
新幹線のようにぐんぐんと走る頭とはうらはらに、錆びた三輪車のようにぎこぎこと動かない身体。嫌だ、嫌だ、嫌だ!!
わたしは裁きを待つように、ぎゅっと目を閉じた。これはきっと、カトリーナさんに変装した罰なのかもしれない。でも。
嫌だ。助けて。助けて。涙……!!
「ちょっとちょっとー!」
来ると思っていた感触は、来なかった。かわりに後ろから誰かに引き寄せられて、抱きとめられる。
「涙……!」
「へへ、邪魔しちゃった?」
「そんな訳ないでしょ!」
わたしが怒りをぶつけるように涙の胸を叩くと、楽しそうに笑って、わたしの頭にぽんと手を置いた。
「うそうそ。よく頑張ったね、飴雪。」
涙はそう言って、カトリーナさんの彼氏さんに目を向ける。
「だ、誰だお前。僕はカトリーナと付き合ってるんだ!邪魔をされるいわれはない!」
彼氏さんは取り乱しているのか、早口でまくしたてている。涙は彼氏さんに、にやりと黒い笑顔を向けた。
「自分の彼女を、見間違えるんじゃねーよ。」
「え……」
「これ、工場長に渡しといてくれる?」
そう言って戸惑っている彼氏さんの襟に封筒を突っ込むと、涙はわたしを連れて、そそくさとその場を立ち去ろうとする。
「涙!」
「ん、なーに?」
「このままわたしたちが逃げたら、カトリーナさんが怒られちゃうよ。」
「へ?」涙はぽかんと口を開けて「あー、カトリーナが今回の件で怒られるかもってこと?」
わたしがこくこくと頷くと、涙が大声で笑った。
「ははっ、飴雪そんなこと心配してるの?」
「笑い事じゃないでしょ!」
「真面目だなあ。」
そう言って涙は、笑いを落ち着けるように長い息をついた。
「大丈夫。さっきの男にさ、手紙を渡してただろ。」
「お手紙?」
「うん。あの手紙には〝夏休みの宿題は頂きました。KIDS〟って書いてある。」
「それなら……!」
「そう。カトリーナじゃなくてKIDSがやったんだなって分かるだろ。」
よかった、わたしは胸を撫で下ろした。カトリーナさんは怒られない。それに、わたしたちは無事に、夏休みの宿題を盗めたんだ。
「さ、あとは逃げるだけだよ。」
そういうと涙は、目の前の窓をがらりと開けて外に飛び出した。一階とはいえ驚いて固まっていると、外から手を差し伸べてくる。
「ほら、飴雪もおいでよ。」
わたしはおずおずと手を取って、涙に引かれて外に出た。本当に、涙といると退屈しない。窓に映ったわたしの顔が、楽しそうに笑っていて、不思議な気持ちになる。
金曜日の夜に脅された時は、涙のこと怖いかもって思ったけれど。
やっぱり涙は優しいし、一緒にいると気がついたら楽しい気持ちにさせられている。
わたしは繋がれた手をぎゅっと握り返した。ママとパパとよく、手を繋いで散歩していたことを思い出した。手から伝わってくるぬくもりが心地よくて、あたたかくて、幸せで。ずっと続けばいいと思っていたことを、思い出していた。