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二章 誘い

「行ってくるね、飴雪。」

「誕生日プレゼント、楽しみに待ってて。」

ママとパパが、雨の中、嬉しそうに二人で出掛けていく。行かないで、と言いたいのに、どうしてか声が出ない。お願い、行かないで。事故に遭っちゃうの。誕生日プレゼントなんて、いらないから、だから、お願い、そばにいて…


伸ばした手が掴んだのは、虚空だった。

指の先にはパパとママではなく、二段ベッドの天井があった。

「夢………。」

まだ上手く整わない呼吸の音と、雨の音が混ざり合う。頬をつーっと熱いものが流れていくのを、そのままにしていた。

最近見なくなっていたのに、久しぶりにパパとママの夢を見たのは、きっと、この雨の音のせいだ。

あの日からすっかり、雨が嫌いになった。

よろよろと起き上がって、鏡の前に立った。そこには暗い暗い、表情のわたしがいた。にこっ、と無理矢理笑ってみる。まだぎこちない、もう一度。

「飴雪、可愛い〜!さすが自慢の娘!」

ハッとして、振り返る。そこに、ママの姿がある訳はなく。

ぐらぐらと地面が不安定に揺れているみたいだ。踏み締めるようにゆっくりと歩く。二段ベッドの梯子を登って、上の段でまだいびきをかいて寝ているサラちゃんに「おはよう!」と声をかけた。

サラちゃんは眠そうに目を擦りながら「ん〜…あと地球が三回…いや五回…滅亡するまで…寝る……」と返事をする。

「ほら、五回滅亡したよ。起きて起きて、六回目になっちゃう。朝ごはん食べに行こう。」

「ん〜」

サラちゃんがのそのそと身体を起こす。わたしはそれを見届けると、下に戻って、身支度を始めた。

しばらくして降りてきたサラちゃんが「今日は雨かあ。」と呟いた。「雨の日は髪が膨らんでやだねえ。」

「サラちゃんでも、嫌なの?」

サラちゃんの髪はわたしの癖っ毛と違って、さらりと流れる綺麗な髪だ。

「嫌だよ。でも、飴ちゃんは特に大変そうだね。今日は髪まとめる?」

わたしの髪はただでさえ、ふわふわのくるくるなのだ。雨の日だともうどうにもならないぐらい、ぶわぶわのぐるぐるになってしまう。

「うん、ほんとはね、いつもママが二つにまとめてくれてたんだけど、自分だと上手くできない……」

雨の音が、大きくなる。俯いてそう答えると、サラちゃんがにやりと笑った。

「そういうことなら、お姉さんに任せなさい!」




朝ごはんを食べに食堂へ行くと、ちょうどルイと悠慈くんたちと入り口で出会った。二人も朝ごはんを食べに来たところのようだ。

「サラちゃん、飴雪ちゃん。」

「二人とも、おはよー!」

悠慈くんはともかく、ルイは朝とは思えないほど元気いっぱいだ。

「おはよう。」

「飴雪、今日はまとめてるの?」

ルイが、ツインテールの真似だろうか。両方のこぶしを頭にあてて、首を傾げる。

「うん、サラちゃんがしてくれたの。」

「ふっふっふ。サラ美容室の最高傑作です。いかがですか?」

「いいね、かわいい!」

ルイがにこっと笑って褒めてくれる。

「うん、かわいい。似合ってる。」

悠慈くんも、優しく笑った。

「へへへ。サラちゃんのおかげだ、ありがとう。」

「いぇーい。これからは毎日、サラが髪の毛くくってあげるからね。」

サラちゃんと手を合わせて、ハイタッチをする。嬉しいな、パパとママもよく、可愛いって褒めてくれたっけ。心がぽかぽかと、あたたかくなる。

朝ごはんのメニューは、毎日変わらない。ごはんにお味噌汁、目玉焼きとポテトサラダ。そんな中でも、一つだけ楽しみなことがある。それは、目玉焼きが半熟かどうか、ということだ。

ドキドキしながら卵にお箸を差し込む。すると、とろーっとした半熟の黄身が溢れ出してきた。

「ね、ルイ!」

嬉しくなってつい、目の前にいたルイに声をかける。

「ルイ、あのね。今日の卵がね、」「んー。」

ルイがわたしの言葉を遮るように、首を傾げた。

「ルイ??」

「涙でいいよ。」

「へ?」

頭にたくさんのハテナが浮かぶわたしに、ルイは続けた。

「だから、涙でいいよ。飴雪になら、そう呼ばれてもいいかも。むしろ、呼ばれたいかも。だから、涙って呼んで。」

「な、なみだ?」

「うんうん!やっぱりしっくりきた。」

ルイは満足げに頷くと、ポテトサラダをもぐもぐと食べ始めた。

「「えええええええええっ!!!」」

同じ机でご飯を食べていたサラちゃんと悠慈くんが、大声をあげる。

「うるさいなあ、サラ、お箸落としたよ。」

「それどころじゃないよ、涙!」

「ル、イ。」

サラちゃんの言葉に、ルイは訂正を加えた。

「なんで、涙、どうした急に。」

「ルイって呼べって。」

悠慈くんの言葉にも、ルイは不機嫌そうに訂正を入れた。

「お前らには、許可出した覚えないから。ルイって呼べよ。」

「はあ?なんで飴雪だけ……」

悠慈くんがわなわなとわたしを指差す。

「なんでもいいだろ。ごちそうさまー。」

ルイは手を合わせると、面倒くさそうにそそくさと食堂から逃げていった。

「ええ…??」

わたしたちは呆然と、その背中を見送ることしかできなかった。楽しみにしていた半熟卵は、すっかり溶け出して、灰色のお皿を黄色に染めてしまっていた。朝起きた時に感じたモヤモヤも、すっかりどこかに消え失せていた。




にやにやとしているサラちゃんにつつかれながら、ランドセルを背負って部屋を出ると、そこには仁王立ちした悠慈くんがいた。

「え……。どうしたの悠慈くん。」

「飴雪。」

悠慈くんは、それ以上何もいわずに、顎でくいっと廊下の端っこを指した。

「あー。サラ、先行くねー。」

サラちゃんが、飴ちゃんがんばれ、と言い残してそそくさと退散していく。サラちゃん置いていかないで、というわたしの心の声は届かなかった。

そのまま無言の悠慈くんに廊下の隅まで追い詰められる。背後は壁で、どこにも逃げ場がない。

「どうしたの、悠慈くん。」わたしはもう一度、おずおずと聞いてみる。「言ってくれなきゃ分かんないよ。」

「飴雪、お前、ルイに何した。」

「へ?」

いつもの柔和な笑顔を崩さない、物腰の柔らかい悠慈くんはどこに消えたのか。そういえば今まで「飴雪ちゃん」と優しく読んでくれていたのに、いつの間にか「飴雪」と呼び捨てにされている。これはきっと、悪意のこもった呼び捨てだ。

「そんな、別に、昨日ルイと少し、名前について話しただけ。」

「ちっ。」

いま、舌打ちした。わたしの悠慈くんに対する柔和なイメージが、ガラガラガシャーンと音を立てて崩れていく。

「飴雪が何したか知らねぇけど、これ以上ルイに取り入るようなら、容赦しねぇから。」

吐き捨てるように言って、悠慈くんはわたしの背後の壁を思いっきり殴った。背中からミシッという音がして、冷や汗が滴り落ちる。

「取り入るって…、わたし、悪いことしてない。」

それでも、睨みつけてくる悠慈くんの瞳を、精一杯の力で見つめ返す。

「へえ、びびんないんだ。これから楽しみだな。」

悠慈くんは真っ黒に笑って「僕はルイやサラちゃんと違って、性格悪いよ。」吐き捨てるようにいうと、背を向けて去っていった。

「……びびってるよ。」

悠慈くんの姿が見えなくなると、わたしはその場にへたへたと座り込んだ。




「はあ………」

休み時間。わたしが重いため息をつくと、羽優(わらう)ちゃんがきゅっ、と口の前でこぶしを握った。

「ため息つくと、しあわせがにげるよー。」

返すね、とそのこぶしをわたしにむけて開いてくれる。ありがとう、と言って受け取った。

「どうしたの?」

「羽優ちゃん、聞いて。あのね、」

「しょーちゃんに近づかないで!」

羽優ちゃんに相談しようとしたところ、女の子同士の争う声が聞こえてきた。

「近づくって、私、ちょっと話しただけだよ。」

「うるさい、近づかないで!しょーちゃんは私のなの!」

弁解の声にも耳を貸さず、女の子は顔を真っ赤にして怒っていた。

茫然とそれを見ていると、羽優ちゃんがわたしの視線を辿って「あー」と言った。

「あの子、幼馴染の男の子のことがだいすきなんだよ。だから、その男の子が他の子と話すのがいやみたいで、よくああやって怒ってるんだー。」

「……大好きだと、怒るの?」

「んー。」羽優ちゃんはこてんと首を傾げる。「大好きだから、ひとりじめしたいって、思うんじゃないかな。わたしも、煮込みハンバーグはひとりじめして全部食べたいなーっておもっちゃう。」

「そうなの?わたしは、大好きなキャラメルは、みんなと分けっこしたい。」

「大好きにも、いろんな種類があるよねー。」

なんだ、そういうことか。わたしは一人で、納得していた。悠慈くんはルイのことが大好きなんだ。そして、悠慈くんの大好きは、独り占めしたいの大好きなんだ。

「そういうことかあ。」

そう思うと、悠慈くんの今朝の様子が、なんだか可愛いものに思えてくる。

「あめゆき、げんきでたねー。」

「うん!羽優ちゃんのおかげ。」

「わたし、なにもしてないよー。」

羽優ちゃんと笑い合っているとちょうどチャイムが鳴って、伊川谷先生が教室に入ってきた。クラスメイトたちは、名残惜しそうに自分の席に戻っていく。

みんなが席についたのをしっかり確認してから、伊川谷先生は話し始めた。

「授業を始める前に、夏休みの予定についてお話しします。タブレットのお知らせが更新されているので、開いてください。」

学校から支給されているタブレットのお知らせに、確かに一件、通知が来ていた。いち早くお知らせを開いただろうクラスメイトたちが、ざわついているのを感じながら、わたしもそれを開く。

「え?」

大人しく整列した小さな文字たちが、夏休みの予定を丁寧に教えてくれると思っていた。しかしそこには、子どもの落書きのような字が、踊るように綴られていた。

〝みどり町小学校諸君

 夏休みの宿題、盗みます。

              KIDS〟

「ええっ、あれっ、なんでしょう、これ。おかしいな。」伊川谷先生も驚いたように、何度もタブレットをタップしている。その時。

キンコンカンコーン…「緊急放送。至急、先生方は、職員室にお集まりください。繰り返します。至急、先生方は、職員室にお集まりください。」…キンコンカンコーン

放送が鳴りやむと、教室は一層、ざわめいた。

「すみません、ちょっと職員会議に出てきます。この時間は、自習で。皆さん、静かに勉強しててくださいね。」

伊川谷先生は黒板にチョークで自習、と殴り書きすると、転がるように教室を出ていく。瞬間、わっと教室が沸き立った。

「あめゆき、すごいね、KIDSがきたね!!」

羽優ちゃんもこちらを振り返って、珍しく興奮気味にそう言った。

「KIDSって、なに?」

わたしが訳もわからず尋ねると、羽優ちゃんは驚いたような顔をした。

「そっか、飴雪は知らないんだね。」羽優ちゃんは急に神妙になって、こほん、と一つ咳払いした。「このまちを騒がせる、謎の組織だよ。」

「謎の組織?」

「うん。〝人を笑って怒って楽しませること〟がモットー、KIDSは喜怒哀楽の喜怒のこと。あとはぜんぶが謎の組織で、このまちをほろぼそうとする悪の組織だというひともいれば、救世主となる革命家たちの組織だというひともいるの。でも、いままでのおこないの数々から、ファンもおおいんだ!」

「そんな謎の組織に、ファンがいるの?」

驚くわたしに、羽優ちゃんが力強く頷いた。

「KIDSはまいかい予告状をだしては、いろんなことを成し遂げちゃうの。あるときまずい給食ばかり出していた給食屋さんをのっとって高級レストランにしたことがあってね。それから給食がとってもおいしくて、わたし、ファンになっちゃったー。」

「それでうちの給食、こんなに美味しいんだ。」

「そうなの。こんどは夏休みの宿題をぬすんでくれるなんて、たのしみだね。どうやってぬすむんだろー。」

楽しそうに話す羽優ちゃんを見ていると、わたしもわくわくしてきた。なんだか、昔ママに絵本で読んもらった、大怪盗が本当にあらわれたみたい。

思い思いにKIDSについて語り、誰もが自主学習をしないまま、その授業は終わった。




「「じゃんけんぽん!」」

「やったー!勝った!」

「またまけたー。」

帰りはいつものとおり、羽優ちゃんとじゃんけんをしながら、階段を降りていく。わたしはパーで勝ったから、〝パイナップル〟と同じ文字の数だけ階段を降りられる。

「ぱ、い、な、つ、ぷ、る!」

わたしは唱えながら、弾む足取りで降りていく。

「あれ、飴雪?」

声の方に振り返ると、丁度ルイがランドセルを背負って帰るところのようだった。

「ル…涙!」

「るなみだ?」

なにそれ、とおかしそうに吹き出すル…涙。だってまだ、慣れないんだもん。

「また二人でジャンケンしてるの?」

「うん!」

「オレもまぜて!」

「えっ。」

わたしが驚いているうちに、涙は軽い足取りで羽優ちゃんのところへ駆けていく。すれ違いざまにぶつかって、よろけてしまうくらいの勢いだ。あっという間に話を取り付けてしまって、羽優ちゃんの三段後ろから、涙はスタートするようだ。

ジャンケンはそのまま白熱して、涙が一位、羽優ちゃんが二位、わたしが三位と順位が逆転していた。二階に差し掛かったところで、先頭の涙が誰かに気がついて「おーい」と元気に手を振るのが見えた。

「いまちょうど飴雪たちと勝負してるんだ。お前も一緒にどう?」

相手がわたしの方を一瞥し、嫌そうな顔をした。悠慈くんだった。学校ではじめて会う嬉しさより、気まずさが勝つなんて、昨日までは思ってもみなかった。でも。

「わたし、悠慈くんと勝負したい!」

意を決してわたしが叫ぶと、悠慈くんは一瞬面食らったものの「僕も丁度、飴雪ちゃんと勝負したかったんだ。」とすぐに微笑んだ。

羽優ちゃんが快く了承してくれて、四人での勝負が始まった。悠慈くんはわたしの三段後ろからスタートだ。最初のジャンケンは、涙がチョキで勝った。

「涙、強いなあ。」

「その涙って呼ぶの、やめろよ。」

わたしの呟きを、悠慈くんが小声で制した。

突然のブラック悠慈くんに驚いて、思わず涙と羽優ちゃんを見る。しかし、二人には聞こえていないようだ。確かに少し離れているから、今はこっそりお話しするには、丁度いいのかもしれない。

「ルイがどうしてお前を許したか知らねぇけど、ルイは優しいから。調子に乗って甘えるな。」

「悠慈くんって、涙のことが大好きなんだね。」

「は?」

悠慈くんは、呆れた顔で返した。次のジャンケンは、羽優ちゃんがグーで勝った。どんどん、二人が遠ざかる。

「当然だろ。僕はルイが大切だし、ルイ以外の人間はみんな嫌いだ。」

「わたしも、涙のこと、大好き。」

「お前の気持ちなんて、どうでもいい。」

「大好きだから、涙の嫌なこと、絶対しないよ。安心していいよ。」

悠慈くんが、わたしの言葉に固まった。そんな悠慈くんを見て、わたしは確信した。

悠慈くんは、涙のことが本当に大切なんだ。わたしが涙、と呼ぶことで、涙が傷つくかもしれないと思うと、居ても立っても居られないんだ。

「わたしだって、過ごした時間は短いけど、涙を笑顔にしたい。それは悠慈くんにだって、負けないよ!」

悠慈くんは、わたしを黙って見つめた。もう涙と羽優ちゃんはゴールしてしまって、次に勝った方が三位で終わりにしよう、ということになった。

「何年一緒にいて、守ってきてると思ってるんだ。お前なんかに、負けねぇよ。」

ジャンケンには、悠慈くんがパーで勝った。わたしを軽々と追い抜かして、悠慈くんは得意げに笑った。




雨は降り止まない。

わたしは傘をさして、夜道を学校へと急いでいた。寝る前に月曜日の用意をしていて、やっと忘れ物をしていることに気がついた。筆箱が、見当たらないのだ。

きっと教室に置いてきたんだと思う。週明けでもいいのだけれど、パパとママに入学祝いに買ってもらったものということもあって、少しでも早く確認したくて出てきてしまった。

やっとたどり着いてから、わたしは後悔した。もうすっかり、校門が閉まっていた。

「そっか、夜は閉まってるよね。」

ぼやきながら、なんとなく校門に手をかけると、ギィ、と音がして開いた。驚きながらも、ついていると思ったわたしは、そのまま中へ入って行った。

教室棟の扉の鍵も、不思議と開いていた。不用心だなあ、と思いながら教室へ急ぐ。机の中をまさぐると、予想どおり筆箱が出てきた。

「よかった…。」

筆箱を抱きしめて、わたしは大事にポケットにしまった。確かにランドセルに入れたと思うのだけれど、と今日の放課後のことを振り返る。でもこうして机の中から出てきたのだから、わたしの記憶違いだろう。

ほっとすると、急に雨の音がうるさく、耳に響き始めた。真っ暗な教室で一人、雨の音を聞いていると、事故の日のことを思い出す。

暗い気持ちを振り払うように、わたしは早足で歩き始めた。いつもはジャンケンをしながらのんびり降りる階段を駆けて、玄関から出ようとすると、どうしてだろう、鍵が閉まっていた。

「あれ、おかしいな…。」

これでは、外に出られない。助けを求めて辺りを見渡していると、職員室から光が見えた。先生たち、まだいるんだ。安堵してわたしは、そちらに足を向けた。

いざやって来てみると、職員室は真っ暗だった。確かに明かりが見えたのに、いったい何が起きているのだろう。試しに扉を引いてみると、ガララ、と音を立てて開いた。鍵が開いている。やはり誰かまだ、中にいるのだ。

そろりと中を見渡すと、暗闇の中に、黒い人影がひとつ、立っていた。

「先生……?」

返事はない。瞬間、人影は暗闇を滑るようにわたしの背後に回り込むと、口を塞いだ。

「ん!んんん!!!」

そのまま押さえ込まれて、目と口、手足をテープのようなもので巻かれた。視界が真っ暗になる。叫びたいのに、声が出せない。息が上手く吸えなくて、頭がチカチカとする。何もわからない中で、担ぎ上げられる感覚があった。どこかへ連れて行かれる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。逃げたい一心で動かす手足は、ただただ無為にテープと擦れるだけだった。

わたしこれから、どうなるんだろう。暗闇の中、パパとママに無事を祈った。




暴れ疲れてぐったりとした頃、ようやく肩から下ろされて、地面にごろんと転がされた。

「やばい、どうしよう、見られた!」

わたしを運んできただろう、男の声がする。

「えっうそ!」

「それでお前、どうしたの。」

「連れてきた。口封じしねえとと思って。」

「は?連れてきたって…。」

「お前ってほんと、バカだな。」

奥から、何人かの男と女の声がする。口封じという言葉に、身体が震えた。逃げなければと思うのに、縛られた身体は、やっぱり動かせない。

「まあまあ、みんな落ち着いて。オレにとりあえず、任せてくれない?」

「お前がそういうなら……」

足音がひとつ、近づいてくる。どうしよう、どうしよう。声の主が、わたしのすぐ側にしゃがむ気配がする。パパ、ママ、助けて……

「ごめんね、怖かったよね。もう大丈夫だよ。」

男の手つきは思いのほか優しく、わたしをそっと起こしてくれる。なぜかそこで男の動きがぴたりと止まった。

「……目のテープ剥がすね、少し痛いよ。」

言われると同時に、テープがベリッと剥がされた。目に突然光が差し込んできて、うまく馴染まない。ぼやけた視界の中で、目の前にいる男の輪郭が徐々に定まっていく。

最初、わたしはそれを上手く、認識できなかった。

「やあ、飴雪。怖い目にあわせちゃったね。調子はどう??」

にこにこと楽しげに話しかけてくるのは。

「怖くないよ、大丈夫。突然連れて来られて何も分からないだろうから、今からちゃんと教えてあげる。オレがこれからする質問に、首を縦に振るか横に振るかで答えてくれたら、無事にお家に帰してあげる。お話し、落ち着いて聞ける?」

他でもない、涙だった

わたしは混乱した頭で、それでも必死にこくこくと頷いた。

「よし、いい子だね。

まず、飴雪が見たのは、重大な作戦の一部なんだ。だから人に見られるとまずいんだけど、オレの仲間が見られたことに気が動転して、飴雪を連れてきちゃったみたいだ。

その作戦っていうのは、KIDSの作戦だよ。そして、ここはKIDSの本部。ここまでいうと、賢い飴雪なら分かるよね。」

わたしはひとつ、頷いた。

そうか、わたしはKIDSの〝夏休みを盗む〟作戦に居合わせてしまったのだ。そこで見られたと思った仲間が、わたしをここへ連れて来てしまった。そして涙はKIDSの一員、ということだろうか。

「よしよし。次にどうしてオレがバレたらまずい秘密を、丁寧に飴雪に話しているかというと、このあと全部、忘れてもらうからだよ。」

そう言って涙は、ポケットから注射器を取り出した。冷や水を浴びせられたように、身体中がヒヤリと冷える。

「大丈夫、怖いものじゃない。この数時間の記憶が、なくなるだけ。飴雪は明日の朝いつものベッドで目が覚めて、今日の夜のことなんて何も覚えてないんだ。」

わたしはぶんぶんと首を振った。そんな訳のわからないものを身体にいれられるなんて、とても恐ろしかった。

「とはいえ、怖いよね。だから飴雪に、チャンスをあげるよ。ここでこの薬を打たれて、元の世界に戻るか。オレたちの共犯者になるか。」

それはきっと、わたしの人生を変える、究極の選択だった。よく分からない薬を打たれて、一か八か逃げるに賭けるか。

「オレたちとしては、秘密がバレさえしなければいい。共犯者になれば、嫌でも人に話せないだろ?この作戦が終わるまでだけ。今回の作戦限定で、オレたちと行動を共にするっていうなら、これは使わないでおいてあげる。」

注射器をちらつかせて、人を平気で脅すような組織に飛び込むか。

「決まった?」

わたしは決意を固めるように、ゆっくり頷いた。

「よし、じゃあ口のテープを剥がすから、どっちか教えてね。叫んだりしたら、すぐにこれを刺すからね。」

涙は注射器を手で転がしながらそう言った。少しずつ知りつつあると思っていた涙が、まるで知らない人みたいに思えて、とても怖かった。

「ちょっと痛いよー」なんて呑気にいいながら、涙はわたしの口のテープを剥がした。

わたしは久しぶりに空気の冷たさに触れて、震える唇で声を紡いだ。

「つれてって。」わたしは、言った。「涙についていく。だからつれていって。」

「そういうと思った」と涙は笑った。




晴れて手も足も解放されたわたしは、涙に連れられて奥の部屋へ通された。

「ようこそ、KIDS作戦本部へ!!」

踊るように部屋の中央に立ち、涙は仰々しくお辞儀をした。あとに続いて部屋を見渡して、わたしは目を丸くした。

「悠慈くん?サラちゃん??」

「えっ、飴ちゃん!」

「飴雪ちゃん!」

そこにいたのはサラちゃんに、悠慈くん。それからもう一人、知らない男の子。この人がきっと、わたしをここまで連れてきた人だ。

「こいつはゴロー。一応、みどりの家に住んでるんだけど、普段はこの辺りを喧嘩して渡り歩いてて、家に帰って来ない。だから飴雪も、会うのはじめてだよね。」

「うん、はじめまして……」

わたしはチラリと、ゴローくんを伺った。身体が大きくて、ゴツゴツとしたガタイのいい男の子。ずっと無言で、しかめ面して立っていた。中学生か、高校生くらいだろうか。さっき乱暴されたこともあって恐ろしく、なんとなく距離をとってしまう。

「こう見えてこいつ、オレと同い年なんだ。」

「えっ。」

涙の言葉にわたしは、声を出して驚いてしまった。

涙と同じ年ってことは、五年生。ひとつ年が上なだけなんて、とても思えなかった。わたしも一年後にはぐんと伸びて、こんな風になれるのだろうか。

「それにしても、ゴロー。こんな風にすることなかったでしょ。決定的な場面を見られたわけでもないのに。」

悠慈くんがため息をついた。

「そうだよ、サラだったら『飴ちゃんも忘れ物取りに来たの?サラも。偶然だねー!』とか言って適当に誤魔化すよ。可哀想に、こんなゴリラみたいなのに連れ去られて、怖かったでしょ。」

サラちゃんが駆けてきて、優しくわたしを抱きしめてくれる。いつものサラちゃんと変わらない様子に、初めて知人と会えたような心地がして、凍った身体があたたまっていく。

「うるせぇな、オレは考えるより先に手が出ちまうんだ。しょうがねぇだろ!」

「それ、威張ることじゃないからね。」

「はいはい、みんな!終わったこと話してもしょうがないよ。」涙が手を叩いて、みんなを静めた。「ゴローがおバカなのは今に始まったことじゃないし、オレはそれも込みで作戦立ててるからね。」

「なんだと……」

ゴローくんがずんずんと涙に向かっていく。小柄な涙にゴローくんが向かっていく様は、見ているだけで恐ろしい。が、当の涙は怯む様子もなく、楽しそうに悪戯っこい笑顔を浮かべている。ゴローくんは涙の間近に迫り、今にも掴み掛かりそうな距離で、こう言った。

「お前、さすがだな。」

「だろー?」

ゴローくんがうんうん、と感心したように頷く。一見険悪なムードにも思えたが、もしかして二人は、案外仲良しなのかもしれない。

「オレが頼んだこと、ちゃんと出来たでしょ。」

「出来た。夏休みの宿題に関係するものは、全部学校から処分してきた。それから、先公のPCに頼まれたUSBを五分間差して、抜いてきた。」

「やるね!さすがゴロー。悠慈の方はどう?」

「ゴローが差してくれたUSBから侵入して、先生たちのパソコンから、夏休みの宿題関連のデータは全部消去した。ついでに監視カメラにも潜って、ゴローと飴雪ちゃんの映り込みを消しておいたよ。」

「さすが悠慈。頼りになる!」

悠慈くんは涙の言葉に、こちらを見てにやりと得意気に笑った。そんな様子もいつものブック悠慈くんらしくて、わたしの呼吸が少しずつ、少しずつ落ち着いていくのがわかる。

わたしはどきどきと鳴る心臓を落ち着けるように、そろそろと口を開いた。

「もしかして、もう、夏休みの宿題をぜんぶ盗んじゃったの?」

みんなが一斉にこちらを見た。

「そう。とりあえずはね。」涙はそう答えて、見たこともないような悪い笑顔を浮かべた。「でも、やるなら徹底的に、だよ。」

悠慈くんもサラちゃんも知っている二人のままなのに、涙だけが知らない人のようだった。怖い。静まりかけていた心音がまた、どきん、どきんと鳴り出す。でも。

「さあ、世界を面白くする準備は整った。笑って怒って、人生を楽しむ準備は出来た?」

ちょっぴり、わくわく、する。

「作戦始動だ!」

知らない世界への扉が、音を立てて開いていくのを感じる。わたしの忘れられない夏が、始まろうとしていた。


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