一章 日常
太陽がきらきらと空を照らし、青く澄み渡っている。初夏らしい爽やかな陽気を窓越しに受けながら、わたし、春 飴雪は黒板をぼんやりと見つめていた。
そこには「七月十六日(水)」と白いチョークで書かれている。わたしがこのみどり町小学校に転校してから、早くも二週間が経とうとしてた。
もうすぐ夏休みが始まるからか、帰りの会の教室内は、どこか浮き足だっていた。
担任の伊川谷先生は話が長いことで有名らしく、四年一組の会が終わるのは、他のどのクラスよりも遅い。廊下から、帰りの会が終わっただろう他クラスの生徒たちの、楽しげな声が聞こえてくる。そうすると余計に、クラスメイトたちはそわそわと落ち着きがなくなり出す。
そんな生徒たちの様子に、微塵も構わない長話が、やっと終わろうとしていた。
「今週の掃除当番はCグループですよ。忘れないでくださいね。それではみなさん、お気をつけて、さようなら。」
「さようなら!!!」
生徒たちは待ってましたとばかり、元気に挨拶をして一斉に散り散りになった。教室を飛び出す子。友達のもとに駆けていく子。おしゃべりを始める子。
「あめゆき、今週はそうじとうばんー?」
「ううん、今週は違うよ。」
「じゃあ、一緒にかえろー。」
のんびりとした調子で話しかけてきたのは、わたしの前の席の女の子、羽優ちゃん。
羽優ちゃんは転校初日、自己紹介を終えて席についたわたしに「春さんって、春うまれー?冬うまれー?」と突然聞いてきた。「春飴雪って、春だけど、冬だし、どっちなんだろーって気になってー。」おかしな時期の転校生にするにはおかしな質問に、身構えていたわたしは拍子抜けしてしまった。「どこから来たの?」とか「どうして転校してきたの?」とか、他に聞くことはたくさんあったろうに。
「秋生まれだよ。」と答えると、「そんなばかな…」と呆然としていたっけ。そんなおかしな羽優ちゃんと、気がつけばすっかり、仲良くなっていた。
みどり町小学校の教室棟は四階建てで、四年生は一番上の階だ。五年生は三階、六年生は二階…と学年があがるごとに下がっていく。長い長い階段を、ジャンケンしながら降りるのが、わたしと羽優ちゃんの放課後の楽しみだった。
「「じゃんけんぽん!」」
「やったー!」
「うう、またまけたー。」
何度目かのジャンケンは、わたしがチョキで勝った。「チョコレイト」の文字の数と同じだけ、階段を降りられる。弾む足取りで、数えながら階段を降りていく。「ち、よ、こ、れ、い、」「あめゆき、あぶない!!」
羽優ちゃんの声に、ハッとして顔をあげた。ボールが視界いっぱいに迫って、ぎゅっと目を閉じた。
パンッ、という大きな音がした。しかし、予期していた衝撃はこなくて、恐る恐る目をあける。少し背の低い男の子が、わたしの前でボールを受け止めていた。
くるりと振り返って「ごめん!大丈夫?」とこちらを覗き込んでくるのは。
「って、飴雪?」
「ルイ??」
「びびったー!飴雪に学校で会ったの、初めてだよね。あー、キャッチできてよかった。大事な飴雪の顔に傷をつけるところだった!」
早口でまくしたてるルイに面食らっていると、羽優ちゃんが駆けてきて、わたしにぎゅっと後ろから抱きついた。
「あめゆき、だいじょうぶー?」
「ごめんごめん、大丈夫だよ。ルイが受け止めてくれた。」
「急にボールがとんできたから、びっくりしたよー。もしかして知り合い?」
「知り合い、というか……」
なんだろう。ルイとはみどりの家に住んでいて、毎日一緒にご飯を食べている。部屋も違うけれど、同じ家で毎日寝て、起きている。友達、とは少し違うような気がする。
首を傾げる羽優ちゃんに、わたしは首を傾げ返してしまう。
「お兄ちゃんだよ。家族だよ!」
そんな様子を見てか、ルイはわたしの肩に頭をおいて、ピースサインをした。なるほど、家族……。まだ上手く馴染まないその言葉は、それでも心にあたたかく響いた。
「ん、お兄ちゃん?ルイって、何年生?」
「オレ?五年だよ。あっ、もしかして、オレが小さいからって歳下だと思ってただろー。」
「思ってた!」
「ひど!お兄ちゃんは悲しいです。」
わざとらしく泣き真似をするルイの背中から、先生の怒声が飛んでくる。
「おい!ハシノシタ!お前また掃除中に遊んでただろ!」
「げ、イタちゃんだー。逃げろ逃げろ。じゃあね、飴雪、またあとで!」
ルイは右手にボール、左手に箒を持ったまま、全力で駆けていく。その後を先生が、待て!と追いかけていった。
「わたし、ハシノシタくんってもっと怖いひとかとおもってたー。」
「えっ、羽優ちゃん、ルイのこと知ってるの?」
驚くわたしに、羽優ちゃんは続けた。
「知ってるというか、有名だよー。天井に穴あけたりとか、校長先生の銅像こわしちゃったりとか。」
「あっ、それで校長先生の銅像、歯が何本か欠けてるんだ……。」
「そうそう。よく先生とああやって追いかけっこしてるよ。でも、面白くて優しいおにいちゃんなんだねー。」
「……うん、面白くて、優しい。」
わたしがこうして今、涙を止めて毎日を過ごせているのは、あの日ルイが〝キャラメル〟をくれたおかげだった。あのキャラメルの辛さは、とても許せるものじゃないけれど!
でも、ルイがああやってからかってくれたから、悲しみから抜け出せた。今ではすっかり笑って、怒って、毎日を楽しめるようになったのだ。
「でもわたし、まだみんなのこと、何も知らないんだな……。」
ルイが五年生だってことも、名字がハシノシタってことも、知らなかった。
「帰ったら、色々きいてみたらいいんじゃないー?家族になったんだもん。これからたくさん、時間はあるよ。」
羽優ちゃんの言葉に、わたしは決意を込めて頷いた。そうだ、帰ったら色々、質問してみよう!せっかく家族になったんだから、みんなのこと、ちゃんと知りたい。
「サラちゃん!」
わたしはみどりの家に帰るなり、部屋の扉を勢いよくあけた。
「うおっ、びっくりしたー。どうしたの。おかえり、飴ちゃん。」
そこには、ベッドの上でひっくり返ってマンガを読んでいる、サラちゃんの姿があった。
サラちゃんは、みどりの家でわたしと同室の、六年生の女の子だ。すらっと伸びた背に、さらっと流れる髪がとても綺麗な女の子。
みどりの家にやってきて最初の一週間、わたしがご飯も食べられなかった時に、せっせとご飯を運んでくれていたのはサラちゃんだったらしい。ルイからそう聞いて、はじめてお礼を言った時、サラちゃんは泣いて抱きしめてくれた。
そんなサラちゃんの名前も、わたしはまだちゃんと知らないのだ。
「サラちゃんの名前、教えて!」
「サラちゃんの名前はサラちゃんだよ?」
サラちゃんが不思議そうに、答えた。
「えっ、もしかして今度はショックで記憶失くした?大丈夫?自分の名前わかる??」
「うん、春 飴雪。」
「そうそう、あってるあってる。」
「サラちゃんは?自分の名前わかる?」
「サラちゃんは、山本 サラ。」
「山本 サラちゃん!!」
ようやく名前が聞けて胸いっぱいのわたしを見て、サラちゃんが「そういうことかあ。」と笑った。
「サラはカタカナなんだ。パパが、スヌーピーのサリー・ブラウンが好きで、その影響だって。」
「サリーちゃん!」
「そうそう、パパにはよくそう呼ばれたな。」
「サラちゃんのパパって、どんな人だったの?」
「パパはね、すっごく面白い人だったよ!冗談ばかり言って、ずーっと人を笑わせて、子どもみたいな人だったけど、大好きだった。」
「そうなんだ。なんか、サラちゃんみたいだね。」
「ほんと!嬉しいな。パパはサラの憧れなんだ。」
嬉しそうなサラちゃんを見ていると、わたしも嬉しくなってくる。今はみどりの家で暮らしているみんなにも、ママとパパがいて、前は一緒に暮らしていたんだ。もっともっと、知りたいな。
「でも、あんまりママとパパのことは他の子に聞かない方がいいよ。特に、ユウジとか。飴ちゃんのところみたいに、仲良しの家族ばっかりじゃないからね。」
「そっか。」
「うんうん。じゃあ、注意事項を踏まえた上で、出発進行ー!」
サラちゃんが突然、拳を突き上げて立ち上がった。「へ?」と驚くわたしの手を掴んで、ぐいぐいと引っ張っていく。
「みんなにインタビューして回るんじゃないの?みどりの家族ツアー案内人を、務めさせていただきます、サラちゃんです。よろしくお願いします。」
戯けて笑うサラちゃんに、わたしは元気よく頷いた。
「お願いします!」
「よし、では改めて、出発進行!」
「おー!!」
「みどりの家族ツアーも、いよいよ残すところ最後の観光名所となりました。右手に見えますのは、ルイとユウジのお部屋です。それでは、レッツゴー!」
サラちゃんは、みどりの家のみんなのお部屋にわたしを連れて回って、お話をたくさん聞いてくれた。最後に辿り着いたのは、ユウジくんとルイのお部屋だった。サラちゃんはためらいなく「たのもー!」と元気に扉を開けた。
「サラちゃん、部屋に入る時はノックしてって何度も言ってるでしょう。」
ユウジくんが本を読みながらこちらを一瞥して、ため息をついた。
「えー、なになに年頃の男の子みたいなこと言って!ナニしてたんですか?」
「年頃の男の子だよ。僕たちもう六年生だからね。」
「まだ六年生、の間違いだよ!ユウジってば大人ぶっちゃってさー。ね、ルイ。」
二段ベッドの上で何かをしていたルイは、名前を呼ばれてぴょんと身軽に飛び降りてきた。
「許してやってよ、サラ。ユウジってば、もし着替え中に覗かれて、ヒョロヒョロの身体をサラに見られたらと思うと、恥ずかしくて夜しか眠れないみたいなんだ。」
「それは大変!ごめんね、ユウジ。次からもノックしないね。」
「だからしろってば。もー…。」
みどりの家の子どもたちの中で、サラちゃんとユウジくん、それからルイは特に仲がいいように見える。サラちゃんとユウジくんが六年生。ルイが五年生。みんな高学年で、歳が近いからだろうか。
「いまね、みどりの家族特急ツアーをしてるの。飴ちゃんに一人一人を案内してるんだ。」
「サラ、特急だと駅を飛ばしちゃうよ。普通電車じゃないと、各駅に停まれない。」
「確かに!それじゃあ、みどりの家族普通ツアーの方がいいね。」
満足そうに頷くルイ。けれどなんだかとっても、普通な響きになってしまった。
「確かに、飴雪、オレのこと今日まで歳下だと思ってたもんね。」
「えっ、飴ちゃん、そうなの?」
「うん、だってルイの背が低いから、つい…。」
「こら、人のことを見た目で判断しないの!」
ルイはわざとらしく怒りながらも、どこか楽しそうだ。
「じゃあ、年長者をたてて、ユウジさんから自己紹介をお願いしようかな。」
ルイの言葉に、ユウジくんは諦めたように本を閉じた。
「はいはい、なんだか改めて自己紹介するのも、変な感じがするね。」
ユウジくんは本を机の上に置くと、こちらに向き直った。
「僕は那谷 悠慈。六年生。勉強も運動も、一通りなんでも得意だから、何か困ったことがあれば声かけてね。」
にこ、と柔らかく微笑む悠慈くんに、サラちゃんは嫌そうな顔をする。
「うわ、なんて嫌みな自己紹介。」
「サラちゃんは、勉強できないもんね。だから嫌みに聞こえるんだよ。」
「わーん、飴ちゃん、こいつは聞いての通り性格が悪いから、気をつけてね。」
「うん、僕、性格悪いから気をつけてね。」
「ほら、そういうこと自分で言うところ!そういうところだよ!本当に信用ならない!」
サラちゃんが猫のようにシャーッと悠慈くんを威嚇する。そういえば、サラちゃんが悠慈くんにはパパとママのことを聞かない方がいいって、言ってたな。仲良くなかったのかな。
悠慈くんのことをじっと見ていると、目があってしまった。
「どうかした?何か僕に聞きたいこと、ある?」
「ううん、なんでもない。」わたしは慌てて、首を振った。「宿題、分からないところがあったら教えて欲しいな。サラちゃんに聞いても、いつも分からないって言われるから。」
「ええ、四年生の宿題も分からないの?さすがサラちゃん。ごめんね、この子おバカだから許してあげて。僕に聞きにおいで。」
「そう、サラ、おバカだから!勉強のことはいつでも聞いていいけど、何も答えられないよ!」
サラちゃんが可愛くウィンクをしながら、答えると「うわあ、そういうこと、自分でいうところだよ。ほんとバカ。」と悠慈くんがため息をついた。
「じゃあ、次は待ちに待ったオレの番だね。」
ルイはパンと手を叩くと、わたしの前に進み出てきて、恭しくお辞儀をした。
「オレはハシモト ルイ、五年生!飴雪よりお兄ちゃんだから、困ったことがあったら何でも、頼っていいよ。
好きなものはキャラメル!最近食べておいしかったキャラメルは、肉じゃがキャラメル。あれは最高にまずくて絶品だったな。そういえばちょうどいま持ってるんだけど、飴雪も一粒食べる?」
「い、いらない。」
わたしはかつてルイに食べさせられたキャラメルの味を思い出して、ぞっとしながらぶんぶんと首を振った。
「ルイはほんと、好きだよね。変な味のキャラメル。」
「うん、大好き!どうしてあんな変な食べ物を思いつく人がいるんだろう。人間の発想力もまだまだ捨てたものじゃないなって思うよ。」
ルイは楽しそうにひひひと笑った。
あれ、でもおかしいな。さっきはハシノシタって先生に呼ばれていた気がするけれど、気のせいだろうか。
「はい先生、質問いいですか?」
わたしは右手を高く挙げて尋ねた。ルイがないメガネをあげる素振りをしながら、わたしを差した。
「はい、春さん。いいですよ、なんでしょう。」
「ハシモト ルイって、どんな字で書くんですか?」
「げ。」
突然、ルイのいつもの余裕そうな表情が崩れた。
「そんなこと、どうだって言いだろ。」
「よくないよ、わたし、知りたい!」
たじたじとたじろぐルイを見て、サラちゃんと悠慈くんがにやにやと楽しそうに笑っている。
「いいじゃん、教えてあげなよ、ルイ。」
「飴雪ちゃん、知りたいってさ。ほら。」
「くっ、お前ら、面白がってるだろ。」
真っ赤になって目を泳がせるルイに、わたしは負けじと詰め寄っていく。ルイは諦めたようにはぁあ、とため息をついた。
「橋の下の、涙」
「へ?」
「だから、橋の下に涙って書いて、ハシノシタ ナミダ。それがオレの、本当の名前。」
ルイは耳まで真っ赤にして、吐き捨てるように言った。
「ナミダ??ルイじゃないの?」
「涙って、ルイとも読むじゃん。だから、みんなにそう呼ばせてるの。名前、嫌いだから。」
「なんで嫌いなの?すごく綺麗な名前なのに。」
「だって。」ルイは赤くなった顔を隠すように俯きながら、ぼそぼそと言った。「赤ちゃんのオレが、橋の下で涙を流してたから、橋下 涙って名付けたんだって。オレを拾ったときに、そのまま付けたんだよ、しょうもない名前だろ。赤ちゃんなんてみんな泣くものとはいえ、オレは涙が大っ嫌いなのに、よりによってそれが名前なんてさあ、ほんと、ありえない。」
堪えきれなくなったように笑い出したサラちゃんと悠慈くんに向かって「もー!お前らうるさい!」とルイが飛びかかる。笑いながら逃げる二人。狭い部屋で始まった突然の追いかけっこに、わたしも気づけば笑っていたけれど。
いつだって飄々とした笑顔を崩さないルイのそんな姿をはじめて目にした。わたしの脳裏にそれは残って、離れなかった。
「びっくりした?」
みどりの家族ツアーを終えた帰り道、サラちゃんはわたしに問いかけた。
「ルイがあんな風になるの、珍しいよね。」サラちゃんは思い出してまたおかしくなったのか、あは、と笑った。
「うん、びっくりした。」
「ね!いつも余裕そうなのにさ、名前の話になるとあんな風だから、ついついからかっちゃうんだよ。本人にとっては大事な問題なんだろうけど。」
そうは言っても、サラちゃんも悠慈くんも、涙のことをルイと呼ぶ。そこに二人の気持ちが、表れているような気がした。
〝飴雪〟という名前の由来を聞いたとき、ママはわたしの瞳を優しく覗き込みながら、言ってくれたっけ。
『生まれたばかりのあなたの瞳を見たとき、あまりにも綺麗で、びっくりしたの。透き通ってきらきらと輝いていて、まるで雪の結晶でできた飴玉みたいだなって。だから飴雪って、名付けたの。』
それからパパが、こうも言っていた。
『名前って、人生で一番耳にする音だろう。だから、どうか大好きになってほしいって思ってさ。とびっきり綺麗な名前をつけたんだ。聞こえるたびに、好きだなーって思えたら、人生が明るくなりそうだろう。』
そんな風に考えて、パパとママが付けてくれた名前が、わたしは大好きだった。名前を呼ばれるたびに、嬉しくなる。幸せが募る。
だからルイにも、人生で一番耳にする音を、どうか好きになってほしい。そう思うのは、わたしのわがままだろうか。
次の日の給食は、煮込みハンバーグ、ひじき、野菜スープ、それからキャラメルコッペパン。コッペパンを一口食べると、幸せな味がいっぱいにとろけた。この甘くて甘くて、甘い味がわたしは大好きだった。
そういえば昨日、ルイもキャラメルが好きだって言ってたな。名前を呼ばれて真っ赤になっていたことも、ついつい思い出してしまう。
ルイに、名前を好きになって欲しいな。素敵な名前だよって、どうしたら伝えられるだろう。
「ふわふわ、おいしいー。」
羽優ちゃんが目の前で、幸せそうに煮込みハンバーグを頬張っている。
「羽優ちゃん、煮込みハンバーグ好きなの?」
「うん!給食でにばんめにすきー。」
「一番は??」
「幻食パン!とってもふわふわなんだー。でもね、滅多に現れないの。なぜなら幻だから…」
「そんなものが存在するんだ……」
羽優ちゃんは話しながらも、幸せそうに目を細めて、煮込みハンバーグを味わっていた。そういえば羽優って、珍しい名前だけど、どういう由来があるんだろう。
「ねえ、羽優ちゃんの名前の由来って、なあに?」
羽優ちゃんはごくん、とハンバーグを飲み込んで、わたしを見た。
「とつぜんだねー。」
「うん、突然、気になっちゃった。」
「気になっちゃったかー。」
羽優ちゃんは、んー、と記憶を辿るように視線を宙に向けた。
「わたしの、笑った顔が可愛かったからだって、言ってたかな。だから、わらうって、単純でしょ。」
「わたしも、羽優ちゃんの笑った顔、大好き!」
羽優ちゃんはあまり笑わない…というより、表情筋を最低限しか動かさない印象だ。でも、笑うときはその表情がへにゃ、と崩れてとても可愛い。
「ふふー。でもね、それだけじゃなくて、もっと名前に意味を詰め込みたくて、ひらがなの〝わらう〟じゃなくて、漢字をつけたんだって。」
「漢字?」
「そー。漢字ってね、一文字一文字に、たくさんの意味がこもってるんだって。たとえば、〝羽優〟の〝羽〟っていう字には、〝羽ばたく〟。〝優〟っていう字には、〝優しい〟とか〝強い〟っていう意味があるんだ。だから、強く優しく、未来に向かって羽ばたいてほしいって意味を込めて〝羽優〟にしたんだって言ってた。」
「素敵……」
「すてきでしょー。」
羽優ちゃんは得意げに、ふふふ、と笑った。へにゃ、と崩れる表情が可愛い。優しくて強い、羽優ちゃん……。
「漢字の意味かあ。」
思わず呟くと、羽優ちゃんが言った。
「漢和辞典とか、国語辞典とか、調べてみるとわかるかも。図書室に、あるとおもうー。」
「そっか。放課後ちょっと、寄ってみようかな。ありがとう、羽優ちゃん。」
「いえいえ、どういたしましてー。」
そうだ。ルイの名前は安直につけられたものかもしれないけど、漢字ひとつひとつの意味を調べてみると、隠された意味が見つかるかもしれない。
わたしはそわそわしながらも、わくわくを胸に抱いて、放課後になるのを待った。
少しずつ長くなってきた日も、随分と落ちてしまっていた。薄暗くなった帰り道を、わたしは少しでも早くと駆けていた。
みどりの家に、門限はない。ただ、一緒に食べる晩ご飯が六時からだから、なんとなくみんな六時までには帰っているようだ。もちろん、わたしもこれまで、六時より遅くなったことはない。けれど夢中になっていたせいで、図書室で時計を見たとき、既に六時を過ぎていた。
みどりの家の門がようやく見えた、というところで、花壇に腰掛けて空を見上げる姿があった。
「あれ、ルイ!どうしてこんなところに。」
「おっ、飴雪。おかえりー。」
ルイは戯けて笑いながら、手をひらひらとさせた。駆け寄ってきたわたしの瞳をじっと見つめたかと思うと、ふっと気が抜けたように笑った。
「泣いてたって訳じゃなさそうだね。」
「うっ、ごめん。心配かけた?」
「オレは心配してないよ。今日は夕焼けが綺麗だったから、散歩に出てただけ。あっ、ただ、サラたちが心配してたから、用事があるって言ってたよーって嘘ついといてあげたよ。あいつらに根掘り葉掘り聞かれるのは、面倒でしょ。」
「ほんと?ありがとう。」
「オレに嘘をつかせた代償は重いよ。何してもらおうかな。そうだ、今度オレがイタちゃんに怒られる時の身代わりになってもらおう。すべて飴雪に命令されてやったんです、ってさ。」
「いいけど、きっと信じてもらえないし、ルイが余計怒られるだけだよ。」
「ははっ、その通りだ。飴雪って、ふわふわして見えるのに、結構率直に物言うよね。」
ルイを前にしていると、わたしは居ても立っても居られなくなってしまう。ルイの袖を掴んで「ねえ」と話を切り出す。
「漢字ってね、一文字一文字に、いろんな意味があるんだって。」
突然のことに、ルイはきょとん、としてわたしを見つめた。わたしは構わず、一気にまくしたてた。
「だからね、調べてみたの。ルイの名前。
〝橋〟には、繋ぐ。
〝下〟には、物事を行う。
〝涙〟には、人間らしい感情、愛情、っていう意味があるんだって。
だからね、繋げて考えると、ルイの名前って、人と人を繋いで感情を引き出すっていう意味に取れると思うの。」
袖を握る手に、ぎゅっと力がこもる。
「わたしね、ここへ来たとき、悲しいっていう気持ちでいっぱいで、あとはなにも感じる余裕がなかった。頭がぐしゃぐしゃで、ただ毎日泣くことしかできなかった。だけどルイと出会って、やっと人間らしく怒ったり笑ったり、できるようになったよ。だから。」
わたしは、ルイの瞳をまっすぐ見つめた。
「橋下涙って、ルイらしい、素敵な名前だと、わたしは思う!」
ルイはしばらく、呆然としていた。意外にまるっこい、あどけない瞳が、月の光を受けてきらりと瞬いた。それから突然、目を細めて吹き出した。
「な、なんで笑うの。」
戸惑うわたしに、ルイは涙を拭って言った。
「もしかして、それ調べてて今日、遅くなったの。」
「うん。」
「はー、面白い。飴雪って本当に、真っ直ぐだよね。昨日もみんなのこと知りたいって、一人一人のところ回ってさ。見てて飽きないや。」
「なんで笑うの。人が真剣に話してるのに。」
わたしが睨みつけるのもお構いなしに、ルイはひとしきり笑ったあとで「ごめんごめん」と言った。ふー、と呼吸を落ち着けるように吐き出して、ルイはわたしに向き直った。
「オレ、正直自分の名前嫌いでさ。呼ばれるたびにすげー嫌な気持ちになってたんだよね。
でも、これからは飴雪がオレの名前について真剣に考えてくれたこと、思い出すんだと思う。はじめてご飯の時間に遅れてまでさ。」
「からかってる?」
「違う違う、本当のこと。」
ルイって、冗談ばかりで掴めないし、どこまでわたしの言葉が伝わってるのかわからない。怪訝に思って見つめる視線が、月に照らされてほんのり赤く染まったルイの耳を捉えた。
「……ほんとだよ、ありがと。」
ルイがぼそりと、呟いた。今度はわたしがおかしくなって、ふふふ、と笑った。少しでも、ほんの少しでも、ルイが自分の名前を好きになれていたらいいな。