シトリン - 黄水晶 -
背中に回された大きな手が震えている。
私の肩に顔を埋めてきつく抱きしめる王子殿下からは、どこか懐かしい香りがした。
「ルース…会いたかった」
そう言って背中に回された手に力が入る。
少し苦しくて身じろぎすると、慌てたように腕の力が緩まった。
紅い宝石のような瞳が泣き出しそうに細められ、じっと私を見つめている。
「ルース…」
胸が締め付けられるように私を呼ぶ甘い声に顔を上げ、そっと指先で輪郭を辿りながら頬を撫でた。
「リン」
安心させるように微笑んで見せると、皇子殿下はくしゃりと瞳を歪めてもう一度強く私の身体を抱きしめる。
漆黒の柔らかな髪に指を潜らせると私の肩口に顔を埋めたまま、くぐもった声でリンが囁いた。
「俺と結婚して」
「「………は?」」
目を丸くして見ていた皇帝陛下と皇后陛下、そして挨拶の途中で置き去りにされた公爵令嬢が貴族らしからぬ声を同時に上げるのを私は皇子殿下の腕の中で固まったまま聞いていた。
☆ ☆ ☆
「ほんと、バカなの?」
呆れたようにアル様が溜息をつくと、ユス様がクスリと笑う。
「リンらしいじゃないですか」
「出会って3秒で公開プロポーズする奴がいる?」
燃え立つような赤い髪をかき上げながら天を仰ぐアル様の隣で、ユス様も肩を竦めた。
「ルースへのリンの執着は前世から微塵も変わっていないようですね」
「むしろ増し増しになってんだろ」
そんな二人を横目にギリリと奥歯を噛み締めて父様が
「私は絶対に反対だ!」
と低く呻くような声で言う。
「そもそも、これは出来レースだったはずだ」
握りしめたグラスにピシリとヒビが入り、アル様とユス様はその様子を若干引き気味の顔で見つめる。
「皇后の姪であるジェイド国の公爵家、パール・モスアゲート令嬢とのご婚約がすでに水面下で決まっていると言う話だったのに!」
「あー、あの最後までしつこく話しかけてたご令嬢か」
アル様が納得したと頷く。
「なるほど。だからあんなに執拗な態度だったのか。普通なら不敬ですからね」
ユス様も顎に長い指を添えて呟き、貴族たちからの挨拶を憮然とした態度で受けるルベウス皇子殿下へと視線を向けた。
皇子殿下の突然のプロポーズの後、慌ててその場を宥めようとする皇帝陛下や側近達の言葉も空しく頑なにルースを離そうとしないルベウスに、ルースが後でまた話せるからと言い含めて何とか次の令嬢からの挨拶を再開し、今は高位貴族達から順番に挨拶を受けている所である。
ルベウス殿下は皇帝陛下の隣の席で長い足を組み、ひじ掛けに乗せた腕に頬杖をついた不遜な態度で、視線をまっすぐこちらに向け紅い眸でじっと私を見つめている。
いたたまれない思いで父様の影にかくれるように俯く私に、気遣うような声でユス様が「大丈夫?」と声をかけてくれた。
「まったく。自分がどんな顔でルースを見ているのか自覚はあるのでしょうかね」
ユス様が苦笑して言うと、アル様がうんうんと頷く。
「あれは獲物を狙う猛獣の目だ」
「許さん。絶対に許さんぞ」
父様はついに握りしめたグラスを粉々に砕き、怒りで顔を赤くしながら眉を吊り上げた。
「それもこれもアンバーが不甲斐ないのが悪いのだ!」
突然怒りの矛先を向けられ、それまで黙って事の成り行きを傍観していた兄様が驚いたように顔を上げる。
「こうなってはルースの成人を待って、などと悠長な事は言っておれん。分かっているな?アンバー!」
父様の言葉に兄様は蜂蜜色の瞳を歪めて薄い唇を僅かに引き結んだ。
「私はすぐにでもフリントへ戻り王家にこの事を報告してくる。あとの事は頼んだぞ」
父様はそう言って私を優しく抱きしめ頬にキスを落すと、さっと身をひるがえして広間から出て行った。
「ところで」
ユス様が給仕の持つ銀のトレイからグラスを二つ取り、一つを私に差し出しながら問う。
「ルースは前世の記憶が戻ったのですか?」
私は小さく首を振ってきゅっと唇を噛んだ。
「全部を思い出したわけじゃなくて、殿下と目が合った瞬間なぜかリンの事を思い出したの」
「たとえば?」
ユス様の優しい声に、顔を上げて差し出されたグラスを受け取る。
「幼い頃、雷が怖くてリンのベッドに潜り込んだ事とか。いつもリンの後ろを追いかけて私が離れなかった事とか…」
少し考えるように首を傾けて私が答えるとアル様が拗ねたように頬を膨らませた。
「えー、オレの事は思い出さないの?」
「ごめんなさい…」
しょんぼり眉尻を下げるとユス様が「まぁまぁ」とアル様を宥めて微笑んだ。
「ルースの前世の記憶は勇者に選ばれる以前までの記憶って事かもしれないですね」
「なるほどね」
アル様が溜息を吐くと、ユス様は揶揄うように
「次は私とアルのどちらが先に思い出してもらえるか賭けますか?」
とニヤリと笑う。
「そんなのオレに決まってんだろ!」
ムキになって怒るアル様にユス様は面白そうに翡翠の瞳を細めた。
「受けて立ちますよ」
2人のじゃれ合うようなやり取りを見ながら、私はそっと兄様へ視線を向ける。
いつもより元気がない。どこか遠くを見るような目でぼんやりしているように見える。
何か話しかけようかと私が思案している間にも貴族たちの挨拶が終わり、いよいよ最初のダンスが行われるようだ。
皆が壁際に寄り広間の真ん中を大きくあけると、ルベウス殿下が階段をゆったりと降りてくる。
期待に上気した頬を染めて令嬢たちが見つめる中、ルベウス殿下はそれを視界に入れる事なく素通りし、まっすぐ私の前まで歩いてくると右手を胸の上に置いて軽く腰を折り左手を差し出した。
「私と最初のダンスを踊っていただけますか?」
私は青くなりながら助けを求めるように兄様の方を振り返ると、兄様は何かを耐えるように唇を引き結んでじっとこちらを見つめていた。
おろおろする私にユス様が背中をそっと押しながら囁く。
「早く手を取らないと、殿下に恥をかかせてしまいますよ」
周囲からの刺すような視線を受けながらおずおずと右手を預けると、ルベウス殿下は唇の片方だけを引き上げて微笑み指先に口づけを落とした。
そのまま手を引かれ広間の真ん中へとエスコートされる途中、パール令嬢がギリギリと歯ぎしりが聞こえそうな目でこちらを睨んでいるのが見える。
ひぇっと小さく震える私の腰を抱き寄せ、向かい合わせに立ったルベウス殿下は耳元で
「俺だけを見て」
と囁いた。殿下が片手を上げて合図すると壮麗なワルツの調べが流れ始める。
身体を動かす事が好きな私はダンスも比較的得意だけど、殿下はそれ以上に優雅で美しい動きをしていた。
腰に回された手は力強く、ステップは正確で流れるように刻まれる。
体躯がしっかりしているからか、私をリードする動きも軽やかでまるで背中に羽が生えたように伸び伸びと踊れた。
くるくるとドレスの裾を膨らませながらフロアの中を泳ぐように踊る。
いつの間にか周囲の目も緊張も忘れて、私は心底ダンスを楽しんでいた。
「ルース」
優しい声で呼ばれて瞳を見上げると、紅玉の双眸と視線が絡まる。
「あの…」
私は戸惑いながら殿下にだけ聞こえる声で囁いた。
「恐れながら、もしも殿下が私の前世をご存じでしたら、申し訳ございません。私にはその記憶がないのです…」
ルベウス殿下は少し驚いたように紅い眸を揺らして、そしてすぐ優しく微笑んだ。
「良いんだ。ルースが覚えてなくても。こうして出会えただけで…」
「でも、約束したのに…」
私の言葉に殿下は問いかけるように少し首を傾げる。
「必ず覚えてるって」
それを聞いてルベウス殿下は頷いた。
「大切な約束をした事は覚えてるんです。でも、断続的で思い出せない事もたくさんあって」
「良い。ルースが忘れても俺が覚えてるから」
ぐっと抱き寄せる腕に力が入り、腕の筋肉が硬く腰に触れる。
「もう二度と俺から離れないで」
希うような切実な声音でそう言うと、いつの間にか終わってしまった曲に合わせて動きを止める。
少し寂しい気持ちになりながら向かい合ってお辞儀をすると、ルベウス殿下はそのまま私の足元に跪いた。
そして驚いて固まった私の左手を掬い上げるように取ると、手首の脈の上に唇を寄せて誓いの言葉を紡ぐ。
「我が剣は汝の敵を討ち、我が肉は汝の盾となり、我が血は汝の糧となる。決して離れず、恐れず、たゆまず、引かず、下命に背かず、この魂を賭して貴方を護るとここに誓う」
ふわりと手首の上に小さな魔法陣が浮かび上がる。
ルベウス殿下は私を見上げて「許す、と言って」と小さく微笑んだ。
これは刻魄の誓いの言葉だと気づいて私は真っ青になる。
「ダ、ダメです!刻魄の誓いは生涯ただ一度だけ、たった一人に誓う神聖なもの。私になど誓ってはいけません」
ぶんぶんと頭を振る私に殿下は眉尻を下げて悲しそうな顔をする。
「もう誓ってしまった。ルースがこれを拒否するなら俺は生涯、騎士として剣を持つ事は出来ない」
「そんな…」
気が遠くなるような思いでルベウス殿下を見つめると、殿下は「ほら、早く。いつまで俺を跪かせておくの?」と笑った。
はっとして周囲を見渡せば、皆が目を見開いてこちらを見ている。
それも当然の事だろう。
刻魄の誓いは自らの魂に刻む誓いで、絶対の忠誠を命を賭して守るものである。
決して背く事のできない強烈な強制力を持つこの誓いは、一度成立してしまえば違える事は出来ない。
私は泣きたくなった。どうして帝国の皇子が属国の侯爵令嬢にそんな誓いを立てたりするの?
「ルースが許すと言ってくれないと、俺はずっと跪いたままだよ?」
「許します!」
条件反射のように叫ぶと、浮き上がっていた小さな魔法陣がゆっくりと私の手首の上に張り付いて光を放った。
唇の端で笑んだまま、ルベウス殿下は私の手首で輝く魔法陣に口づけを落として立ち上がる。
「これで俺はルースのものだ」
くらりと眩暈を起こしてよろける私の腰を抱いて、殿下は満足そうにその日一番の微笑みを浮かべた。
☆ ☆ ☆
「やってくれる」
ひくりと頬を引きつらせてアルマンディンが呟くと、ユークレースは面白そうに唇に弧を描く。
「あれは誓約魔法ですね。魂に刻まれる誓約なのでもう取り消す事はできません」
「あいつは何を考えてこんな大勢の前で誓約魔法なんて使ってんだ」
「大勢の前だからですよ。あれはわざとです」
「独占欲にもほどがあんだろ」
ふわふわした赤い髪に両手を差し入れてアルマンディンは頭を抱えた。
その二人の横をコツリと靴を鳴らしてアンバーが通りすぎる。
「…え?」
真っすぐに広間の真ん中に向かって歩くアンバーの背中に向かってアルマンディンが金色の瞳を瞬いた。
アンバーはルベウスとルースの前まで来ると、さきほどルベウスがしたのと同じようにその場に跪き、キョトンと自分を見つめるルースの右手を掬い取ると手首に口づけた。
「我が剣は汝の敵を討ち、我が肉は汝の盾となり、我が血は汝の糧となる。決して離れず、恐れず、弛まず、引かず、下命に背かず、この魂を賭して貴方を護るとここに誓う」
ふわりと右手首にさっきと同じような小さな魔法陣が浮かぶ。
「ルース、許すと言ってくれ」
アンバーの言葉にルースは喉の奥で小さく悲鳴をあげた。
何がどうしてこんな事になってるの?
皇子殿下に続いて自分の兄様まで、いったいどうしてしまったと言うのだろうか。
「この誓約魔法は一度誓えば覆す事はできない。ルースに許されなければ僕は魂に傷を負う事になるだろう」
「き、傷を負うって、どうなるの…?」
「この誓約を受け入れることが嫌であれば、僕に死ねと命ずる事と同義であると言う事になる」
「ゆ、許します!!!」
叫ぶようにルースが言葉にすると、右の手首に魔法陣が張り付くように吸い込まれて光を放った。
ルースの前に跪いたままのアンバーを見下ろすルベウスの紅い眸が色を増す。
視線だけで射殺せそうな冷たい光に、ルースはゾクリと身体を震わせた。
それを真正面から受け止めてアンバーも琥珀の瞳に仄暗い光を燈す。
「まてまてまて」
慌てたようにルベウスとアンバーの間にアルマンディンが割り込んで2人を制止した。
「そんな魔力を垂れ流したら耐性ない奴が倒れちまうだろ」
「そうですよ。あなた方の魔力がぶつかれば城どころか国ごと吹っ飛んでしまいます」
ユークレースがアンバーに手を差し伸べ立たせると、その後に今度は自らが流れるように跪きルースの左手を取った。
「我が剣は汝の敵を討ち、我が肉は汝の盾となり、我が血は汝の糧となる。決して離れず、恐れず、たゆまず、引かず、下命に背かず、この魂を賭して貴方を護るとここに誓います」
チュッと音を立ててルースの手のひらに口づける。
「ルース、私にも許しを」
にっこりと微笑むユークレースに握られた手のひらには、やはり小さな魔法陣が浮かんでいた。
ルースはもう息すら出来なくなっていた。
紫の瞳には涙が浮かび、ひくっと小さく喉を鳴らす。
「ほら、早く」
天使の笑顔でユークレースに言われ、ルースは掠れた声で「許します」と呟いた。
もう帰りたい。今すぐ帰ってこれは全部夢だったと思いたい。
「抜け駆け禁止っつっただろーが!」
頬を膨らませてアルマンディンが跪いた時、ルースは思わず自分の両手を背中に回して硬く握りしめた。
いやいやをするように頭を振るルースに、アルマンディンは眉を寄せる。
「え?オレだけ除け者?ひどくね?」
アルマンディンの金の瞳が細く瞳孔を縮めてルースを見つめた。
「良い子だから手出して?」
ぐっと腕を掴まれ前に引き出されると、アルマンディンもその手のひらに唇を寄せる。
「我が剣は汝の敵を討ち、我が肉は汝の盾となり、我が血は汝の糧となる。決して離れず、恐れず、たゆまず、引かず、下命に背かず、この魂を賭して貴方を護るとここに誓おう」
浮かび上がる魔法陣に、ルースは諦めたように「許します」と呟いて項垂れた。
その間もガッチリとルースの腰を抱いて離れないルベウスは、紅い眸でまっすぐにアンバーを見つめていた。
鋭く冷たい眼差しには感情が読み取れない。
「そんな顔しないで下さい。誰のせいでこうなったと思っているんですか」
ユークレースはクスリと笑ってルベウスに言う。
「今の貴方は孤児のリンではないのですよ。帝国唯一の皇子なのです。その貴方が感情のままに暴走すればルースはどうなると思っているのですか」
ルベウスは形の良い眉を僅かに寄せて小さく舌打ちした。
「分かっている」
「それで?この状況をどうすんの?」
アルマンディンが溜息交じりに周囲を見渡すと、それまで黙っていたアンバーが口を開いた。
「4つの守護がついたルースには何人たりと手出しは出来ない。それがたとえ皇家と言えども」
「歴史は繰り返すと言いますが、私はもう同じ轍を踏むのは嫌ですよ」
ユークレースの言葉にアルマンディンも頷く。
「オレもだ。そのための誓約だしな」
何がなにやらさっぱり状況を理解できないルースは、4人の顔をそれぞれ見つめながら自分の両手を握りしめて途方にくれていた。
とりあえず、誰かこの状況を説明して欲しい。
自分を中心に怒涛の勢いで流れてゆく状況の中で、自分だけが何一つ理由が分からない。
大きな広間の真ん中で、沢山の人々の視線が刺さるように注がれる中、ルースはこの場所から救い出してくれる救世主を求めていた。
どうしてこんな時に父様は居てくれないの。
心の中で理不尽に父様を責める言葉を投げかけていると、一人の騎士が近づいてきて恭しく頭を下げた。
「殿下、今宵は帝国のデビュタントを祝う舞踏会です。どうぞ皇子としての責務をお果たし下さい」
「ピーター先生」
ルースは騎士の顔を見てほっと安堵の息を吐く。
ピーター先生は小さく頷いてルースに白い手袋に包まれた手を差し出した。
「殿下。順番を待たれているご令嬢たちのために、デビュタントを飾るファーストダンスのお相手をお願い致します。ルース様はこちらで第一騎士団が責任を持ってお守りしますのでご安心下さい」
先生に促されルースは白い手袋をはめた手を取る。
それを見てルベウスの紅い双眸が微かに細められた。
「だーかーら!そんな凶悪な魔力を垂れ流すなってば」
アルマンディンがさっとピーター先生とルベウスの間に身体を割り込ませる。
「大丈夫だから。ルースはここに居る。オレもちゃんと見てるから、今は自分の責務を果たせ」
「そうですよ。貴方はリンとは違うのです。ルベウス殿下としてしっかりして下さい」
ぐっと奥歯を噛んでルベウスは一呼吸すると指の背でルースの頬をスルリと撫で、令嬢たちのデビュタントを飾る最初のダンスの相手を務める為、白いドレスを着た少女たちの待つ方へ歩いて行った。
☆ ☆ ☆
「先生、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げるルースにピーター先生は優しく微笑んだ。
「大変だったな。社交界はしばらく荒れそうだ」
ポンと軽くルースの頭を撫でて、ピーター先生は困ったように眉尻を下げて見せる。
「先生は騎士団の任務についてるの?」
アルマンディンがコテンと首を傾けて問いかけるとピーター先生は一つ頷いて見せた。
「ルベウス殿下の兄上である皇太子殿下を早くに失ったので、陛下は第二皇子殿下の事が心配で仕方がないらしい。騎士団からすでに退いていた俺にまで招集が来たくらいだからな」
「今までほったらかしにしてたのに?」
アルの言う事はもっともな事だが、そこには色々と事情があるのだろう。
「そう言ってやるな。殿下のお姿をお前も見ただろう」
暗にルベウスの黒髪・紅目の事を言っているのだろう。ピーターは広間の中心で小柄な令嬢とダンスを踊る殿下へと視線を向けた。
「魔王の髪と魔物の目を持って生まれてきたと、殿下がお生まれになった時は大変な騒ぎだったらしい」
「ルベウス殿下も可哀想だな。大人の事情に振り回されて、無視されたり引っ張り出されたり」
「アル、言い過ぎですよ」
ユークレースが苦笑いしながら窘めると、アルはふんっと小さく鼻を鳴らした。
「本当の事だろ」
「アルが『リン』贔屓なのは分かりますが、陛下は陛下なりにルベウス殿下を守っていたのだと思いますよ」
ユスの言葉にアルが眉を寄せるとユスの言葉を引き継ぐようにピーター先生がルベウス殿下を見つめたまま問いかけた。
「たとえ今まで隠された存在の皇子であったとしても、今こうしてお披露目されたのはどうしてだと思う?」
「そんなの第一皇子が死んじゃったからだろ」
不機嫌そうな声でアルが答えるとピーター先生は首を振った。
「本当に忌まわしい子だと邪険に思っていたなら、陛下は迷わず生まれたばかりの殿下を殺していただろう」
「ましてや、ルベウス殿下は生まれた時から莫大な魔力を持っていたらしいですから。邪魔な存在であれば赤子のうちに殺してしまう方が都合が良かったでしょうね」
ピーター先生とユスの言葉にアルもぐっと黙り込む。
「私はジェイドの王家の身なので、帝国の元老院で当時どれだけ揉めたか耳にした事があります。皇太子殿下に年の離れた弟が生まれたがとても身体が弱く、長くは生きられないだろうと表には出さず隠されたと言うのが貴族の間で知られている話でしたが、本当は元老院で魔王の再来だとか不吉の予兆だとかで赤子のうちに始末した方が良いと言う意見が多くあったと。ただ、産後の肥立ちが悪く皇后様が二度とお子を産めない身体になってしまった事もあって、皇子が一人しか居ないのでは心許ないと陛下が説得してルベウス殿下を匿われたらしいですよ」
「陛下はルベウス殿下を匿って、表に出さない事で守ろうとしていたのだと思う」
ピーターの言葉にユスも頷いた。
「陛下は第一皇子殿下とルベウス皇子殿下、どちらも等しく愛しておいでだと私は思います」
「人生とはままならないものだ。時として大切なものを諦めなければならない事もある。愛していてもそれを伝える術がない事も。守ろうとして逆に傷つけてしまう事もあるだろう」
ルースは広間で踊るルベウスを見つめて胸が痛んだ。
彼はどんな思いで今ここに居るのだろう。
そして、そんな彼を陛下と皇后様はどんな気持ちで見つめているのだろう。
「まぁ、それでも愛しているからってルベウスに辛い思いをさせて良いわけじゃねーから」
アルの言葉にユスがクスリと笑った。
「そうですね。でもルベウス殿下にとってそんな事は些末な事だと思いますよ」
…はぁっ、とアルが大きく溜息を吐く。
「だろうな。どれだけ辛い時を過ごしても、寂しい思いをしてきたとしても、生きていたからこそルースに巡り合えたわけだし。それだけで『リン』にとっては意味のある事だろーよ」
私はぐっと唇を噛んで踊るルベウス殿下へと視線を戻す。
うっとりと頬を染めて殿下を見上げながら踊る令嬢は、控えの間で「恐ろしくて踊れない」と言っていたあの子だ。
サラリと揺れる漆黒の前髪の下で、輝くような紅い二つの眸が無表情に令嬢を見下ろしている。
そんな酷薄な様子ですら、溜息が出るほどに美しい。
ルースはぴったりと寄りそいステップを踏む2人を見つめていると、ツキリと胸が痛む気がした。
「俺が騎士団に呼ばれたもう一つの理由なんだが…」
同じように殿下の方を見つめたまま、ピーター先生が言った。
「皇家主催のこの舞踏会の警備と共に、俺は今日から殿下の専属護衛騎士になる。一度は騎士団から退いた身なんだがな。陛下に是非にと申しつけられたんだ。俺も最初は恐れ多くて断るつもりでいたんだよ。だが、ルベウス殿下に初めてお会いして気持ちが変わった。俺は殿下の騎士になる」
だから学園には戻れない、と頭を掻きながら先生は笑った。
私は頷いてそれに答え、そしてふと、あの指輪の事を思い出した。
「先生、あの…一つお聞きしたいことがあるのですが…」
ピーター先生は「どうした?」と言うように片方の眉を上げて私を見つめる。
「不躾な事なのですが、先生のご婚約者様のラリマー様は、もしかして左手を失われておいででしょうか」
ピーター先生は少し驚いた顔をして銀色の瞳を瞬いたあとゆっくりと頷いた。
「ああ、俺のせいで彼女は左手首から先を失った」
やっぱり音楽堂の彼女はラリマー様で間違いないようだ。
「それでは、彼女が伝えて欲しいと言った言葉は先生宛で間違いないようですね」
私は胸元から細い鎖を引き出して首から外すと、先生の手に指輪をそっと握らせる。
「先生、ラリマー様からご伝言です」
じっと手のひらの指輪を見つめていた先生の瞳が私に向けられた。
「約束を守れなくてごめんなさい、と。先生に伝えて欲しいと何度も彼女が言っていました」
ピーター先生の瞳が揺れる。
「ちゃんと伝えられて良かった」
私が微笑むと先生は手のひらの指輪をギュッと握りしめて自分の拳に唇を寄せた。
先生の指の間から零れた細い鎖がシャラリと揺れる。
「あぁ、ちゃんと受け取ったよ。ばかだな、ラリマー。この指輪はお前の物なのに」
くしゃりと瞳を歪めてピーター先生はもう一度「ばかだな」と小さく呟いて瞳を閉じた。
そして私の手を取り頭を下げる。
「ありがとう」
私が小さく首を振ると先生は嬉しそうに微笑んだ。
「ルースを離せ」
突然、先生に握られていた手が解かれ背中から誰かに抱きしめられて私は驚いて振り返った。
紅い眸がピーター先生を睨んで光る。
「ルベウス殿下」
私の背後から正面のピーター先生の腕を掴んで振り払うと、殿下は自分の胸に囲い込むように私を引き寄せた。
「殿下、心配しなくても私には心に決めた人が居ます。ルースは私の教え子なのですよ」
ピーター先生はクスリと笑って言った。
「そうそう。オレ達もご学友ってやつなんだぞ」
アル様が横から割り込んで私に「ね」っと微笑むと、ルベウス殿下は少し考えるように首を傾けて頷いた。
「そうか。なら、俺も学園に行く」
「は?」
ユス様が翡翠の瞳をパチパチと瞬くとアル様はパッと顔を輝かせる。
「騎士科!絶対、騎士科に来いよな!オレもルースも騎士科だからな!」
ルベウス殿下はコクリと頷いて「分かった」と答えた。
ピーター先生はやれやれと肩を竦め苦笑いする。
数歩離れた位置ではユス様が兄様の肩をぽんぽんと叩いて2人並んで立っていた。
「私は一番最初に舞台を降りてしまったので、貴方たちの確執については知らない事もありますが、前世の業を今世でまで引きずる必要はないと思いますよ」
ピクリと肩を震わせるアンバーにユスは小さく溜息を落とした。
「気持ちは分かります。だけどアルも言っていたでしょう。私たちの中で一番辛い思いをしたは、リンでも貴方でもなく、死んで逝く私たち全てを見送ったアルとシトリンだったのかもしれませんね」
ギリッと奥歯を喰い占めアンバーは首を振った。
「アルはそうかもしれない。だけど、シトリンは違う」
ルースを抱きしめて離さない漆黒の髪を持つ長身の皇子を見つめてアンバーは言った。
「きっとリンはこの世の誰よりもシトリンを憎んでいる。そして、それは僕も同じだ」
ふいに紅い双眸と視線が絡む。
燃えるような紅玉の眸は、その色と相反するように冷たく無感情に仄暗い光を湛えていた。
心の底まで見透かすようなその視線に、アンバーの心臓がズクリと痛む。
あいつは変わらないな、とユスが呟くのを聞いてアンバーもふっと苦く微笑した。
ルースはルベウスの腕の中で、誰かからの視線を強く感じて周囲を見回した。
それは皇帝陛下の座る玉座の後ろに控える従者らしき者から発せられているようだった。
腰まで伸ばした長い金の髪に、雪のように白い肌。サファイアのように青く澄んだ瞳。
ルースはその人から視線を外すことができなかった。
まるで自分の魂の半分を見つけたように惹きつけられ、胸を締め付けるような焦燥感に襲われる。
その人の赤い唇が小さく何かを呟く。
「…ルース」
彼は確かにそう言った。
声が聞こえた訳ではない。それでもルースはその人の紡ぐ声がどれほど柔らかく自分の名を呼ぶのか知っている。
頬を撫でる風のように柔らかく、春の日差しのように暖かく、まるで大切な宝物を呼ぶように優しく、その人はルースの名を呼ぶ。
「…シトリン」
震える声でその人の名を呼ぶとシトリンは青い瞳を優しく細めて小さく微笑んだ。
グラリと世界が回り、ルースは酷い眩暈のような感覚に膝から頽れる。
ルースを抱きしめていたルベウスの腕がぐっとそれを支えるように力を込めた。
「ルース?」
すぐ側からアルの声が聞こえる。
「大丈夫か!?」
心配そうなアルの声と慌てて駆け寄るアンバーの気配。
そしてじっと自分を見つめる紅い二つの眸。
沈むようにゆっくりとルースは意識を手放した。
「おかえり、ルース」
シトリンの優しい声が聞こえた気がした。