ジェイド -翡翠-
ユークレースは眼下に見える人の群れの中に、青銀の髪の少女を見つけて微かに碧緑の瞳を細めた。
隣で剣を振るう赤い髪の少年はリアン…いや、今世ではアルマンディンと名乗っていたっけ。
騎士科の鍛錬場では的を使って剣の練習が行われているらしい。
赤髪の少年が少女の方に顔を寄せ、何かを話しかけると少女が零れるような笑顔を見せた。
少し黄色味がかったアイボリーのレンガ造りの頑丈に組まれた塔の上、半円に突き出したテラスの手摺に黒い手袋に包まれた両手を乗せてユークレースはそれを見つめていた。
地上よりやや強い風が吹き抜け、藍白の髪をサラリと揺らす。
「私たちがまた、こうして再び巡り合えたことにも何か意味があるのでしょうか」
ユークレースは碧の双眸を眼下に向けたまま背後の気配に向かって呟いた。
こうしてどんな事にも理由を探してしまうのは、前世からの自分の悪い癖だなと思う。
その問いに答える事なく、背後の気配はゆっくりと近づいて来るとユークレースの隣に並んで立ち、琥珀色の蜂蜜のような瞳を塔の下に向ける。
それは以前の自分が知っていた瞳とは色が違っていたけれど、それでもユークレースにはアンバーの事がすぐに分かった。
「たとえ何度繰り返したとしても、私が選ぶ道は一つです」
風に煽られた髪を押さえてそれを左耳にかけると、ユークレースの耳朶に並んだアメジストと翡翠のピアスがキラリと光った。
「君を死なせたりしない」
アンバーがぽつりと零した言葉にユークレースは微かに眉を寄せて顔を上げ、隣に立つ作り物めいた美貌の横顔を見つめた。
「もう二度と、君を一人で死なせはしない」
揺るぎない声音でそう告げるアンバーの瞳は、ただ真っすぐに眼下に見えるルースを捉えていた。
この人は前世の罪を今も悔いているのか。
いや、そもそも罪とは何だろう。と、ユークレースは思う。
私たちはただ世界に選ばれただけだったのに。
それが罪だと言うなら、彼だけでなく私の魂も罪の色に染まっているだろう。
アンバーの琥珀の瞳に一瞬、黒い影が差す。
今は色を変えてしまった蜂蜜色の双眸に、ふと前世の色が重なって見えた気がした。
☆ ☆ ☆
前世のユークレースは名をジェイドと言う。
ペリドットよりも濃く、エメラルドよりも淡い、澄んだ翡翠を意味するその名は、両親から贈られた唯一つの宝物だった。
何も持たないジェイドにとって、名前だけが自分のために用意された唯一の持ち物だったから。
ジェイドは生まれた時から豊富な魔力を持ち、どんな傷もたちまち癒してしまう治癒の魔法が使えた為、幼い頃に教会に引き取られ、その身を神に捧げるよう教えられて育った。
引き取られた、と言えば聞こえが良すぎるなとジェイドは苦い笑みをこぼす。
有り余る魔力を持て余し、貧しい両親は僅かな慰労金と引き換えに我が子を教会へ売ったのだ。
そしてジェイドは寝る時間もないほど、その力を搾取され続けた。
貴族たちは高額な寄付を納める代わりに、ジェイドの癒しを求めて教会へと列を作り、朝から寝る時間が過ぎても尚、休む間もなくひたすら傷を癒し病気を治す日々が続いた。
― 人の命を救うという、これは神聖な正しい行いなのだ ―
と教会からは言われていた。
でも、とジェイドは思う。でも、私が治療するのは貴族や騎士たちばかりだ、と。
その頃の世界は混沌としていて、あちこちで領土を巡り諍いが絶えない時代であった。
戦火の煙が上がる度に、度重なる魔物の襲撃に怯える度に、民草は疲弊し常にどこかで誰かが傷を負い血を流している。
なのに私は平民にこの力を使う事ができない。
町に出て、病気の子どもや傷を負って働けなくなった農夫などを癒してあげる事が出来ない。
毎日ひたすら教会の中で命令されるがままに、でっぷりと突き出たお腹を抱えた貴族たちや、他国を狙って派兵された宮廷騎士たちの傷を癒す日々。
― 常に正しくあれ、私利私欲を捨て、清廉な心と高潔な魂を持て ―
幼いジェイドはその教えを必死に守って生きようとしてきたというのに。
夜明け前の藍の空が白く滲んだような藍白の髪に、透き通った碧緑の宝石の瞳。
開いたばかりの薔薇の花を思わせる薄桃色の頬と濡れたように光る瑞々しい唇。
それはまるで天使のようだと、人々は口にする。
しかし、見る者を魅了するその姿とは反するように、ジェイドの心の中にはいつも絶望と仄暗い怒りが絶えず燻っていた。
ジェイドが願うのはただ一つ。
どうかこの地獄から抜け出して、1日も早く神の御元へ逝けますように。
☆ ☆ ☆
ヒュンッと空気を切りながら鞭がしなり次の瞬間、背中に焼けるような痛みが走る。
ジェイドは引き攣れた喉の奥で悲鳴を噛み殺した。
「鳴けよ」
男は獰猛な笑みを浮かべてジェイドの髪を掴み囁くように言う。
「あぁ、せっかくその身を清めてやったのに、もう傷が塞がりやがった」
ヒュンッともう一度鞭をしならせて男は小さな背中にそれを振り下ろす。
背中の肉が引き裂かれ熱い血がぬるりと流れ落ちる感触が皮膚を伝った。
泣くものか。と、ジェイドは唇を噛み締める。
決して泣いたりするものか。
ジェイドが泣いて赦しを乞えば、男の加虐心がさらに煽られもっと酷い折檻が待っている。
「お前が悪いんだぞ。その顔で何人の男を誑かしたんだ?」
男はジェイドの髪を掴んだまま力いっぱい後ろに引き倒し、無理矢理顔を上げさせると、仰け反るように晒された白い喉を下から頬に向かってベロリと舐め上げた。
「穢れた魂を浄化しなければ」
裂けた生成りのシャツの隙間から差し入れられた指が、滑らかな白い肌の上を傍若無人に撫でまわし、ジェイドは激しい嫌悪感と吐き気に顔を歪める。
「どれだけ酷くしても次の日には元通りだ」
下卑た笑いを浮かべた男の口元から熱い吐息が漏れてジェイドの粟立った肌を撫でる。
「侍祭様」
コンコンと静かに扉を叩く音と共に、若い男の声が響いた。
「司祭様がお呼びです」
チッと男は小さく舌打ちしてジェイドを突き飛ばすように離すと、倒れ込んだままの背中を一瞥して冷たい石の床に乱暴な足音を響かせながら部屋から出て行った。
今日は思いのほか早く解放された事にほっと安堵の息を零して、ジェイドは自分の身体を抱きしめ小さく背中を丸めた。
こんな事は日常茶飯だ。今更、傷ついたりしない。
ジェイドはふらつく身体を起こしてゆっくりと立ち上がると、粗末な自分の部屋へ戻るために重たい足を引きずるように廊下を歩いた。
どれほど痛めつけられても、どれほど血を流しても、ジェイドの身体はたちまちその傷を癒してしまう。
殴られても、切られても、骨を折られても、熱した鉄で皮膚を焼かれても、傷跡ひとつ残さず綺麗に治ってしまう。
最初こそ、奇跡の力だと崇められた。
人類に神が遣わした奇跡なのだと。
だけど人は異能に対して、本能的な忌避感を待つものらしい。
あれは神の力などではなく、悪魔の力なのではないか。
いや、ジェイド自身が悪魔なのではないか。
死とは神が与えた安楽であり、神の御元に帰る祝福であるはずなのに、ジェイドはその自然の摂理に逆らって、魂を堕落させる力を持っているのではないか。
殺しても死なない存在など、人に非ず。
悪魔とは人の心につけ入るために、時に天使のように美しい姿をして人間を誘惑するのだと言う。
薄暗い小さな部屋には古びた小さな机と、ギシギシ音を立てるベットの他には何もない。
擦り切れて継ぎはぎのある薄い毛布に潜り込み、ジェイドはギュッと目を瞑った。
泣くもんか。
ギュッと背中を丸めて膝を抱えながらジェイドは薄い唇を噛み締める。
自分は人の形をした人では無いもの。
人ではないが、魔物でもない。
それなら私は何なのだろう。どうしてこの世に生まれてきたのだろう。
あぁ、神様…
と、掠れた声が溢れる。
私はなぜ生まれてきたのですか。
自然の理から外れたこの身で、天国の門を潜る事は出来るのでしょうか。
人々の恐れや嫉妬、妬みをぶつけられジェイドの心はゆっくりと深い沼へと沈むように閉ざされていった。
神様が居るのなら、早く私を迎えに来て下さい。
どれだけ死を願っても、この身には傷一つ付ける事が叶わない。
ジェイドにとって死とは甘美な夢であり、ただ求め焦がれるものであった。
☆ ☆ ☆
15の歳を迎えて、ジェイドは聖騎士の任に着いた。
自分の身を守るために細い手足を鍛え、武器の扱いを覚え、いつの間にか華奢だった身体も背が伸び、頑強な筋肉を纏って、力もついた。
殺しても死なない不屈の戦士として、命じられるまま敵を討ち、魔物を狩り、常に戦場にその身を置いて過ごしていた。
そしていつしか悪魔と呼ばれた少年は、国の英雄と呼ばれるようになる。
どれほど不利な戦いでも、どれほど熾烈な戦場にあっても、ジェイドは必ず勝利の旗をかかげて戻ってきた。
人々がその美貌と癒しの力に心酔し、崇拝するほどジェイドの心は凍りついてゆく。
ジェイドは英雄になりたかったわけではなく、死に場所を探していたにすぎない。
可憐な少年の面影を削ぎ落とし、精悍な青年へと成長しても、ジェイドはただひたすら死のみを望んで戦場に立っていた。
単騎で敵軍に突っ込んだり、魔物の群れに飛び込んだり、誰もが勇猛果敢だと讃えるそれらの行動は全て、ジェイドにとって甘美な死へと誘う誘惑でしかなかった。
どれほど強い治癒の力があっても、傷がつけば痛みはあるし血を流せば苦しくもある。
それでも、どんなに傷ついても、どれだけ血を流しても決して死ぬ事は出来なかった。
それはジェイドにとって祝福などではなく、神から与えられた呪いでしかない。
もしも地獄があるとするなら、この場所こそがそれなのかもしれない。
その時も相変わらずジェイドは戦場に居た。
荒涼とした大地が砂煙に覆われ、空の色さえ霞んで見えない。
ゴツゴツとした岩が地面のあちこちから突き出て、吹き抜ける風が血と火薬の匂いを運んでくる。
この戦いにどのような大義があるのか、ジェイドはそんなものに興味はなかった。
ただ死ぬための場所が欲しかった。
これが守るための戦いであっても、奪うための戦いであっても、そんなのは些末な事だ。
命令されるがまま戦い、あわよくばこの命を終わらせらることができればいい。
なのに、確かにそう願っていると言うのに
ジェイドは肩に深々と刺さった矢を引き抜いて、左手で剣を薙ぎ払うように敵の刃を防ぐ。
皮肉な事に、これほど強く死を望んでいても身体は無意識のうちに生きるための手段を取ろうとする。
喉の渇きを感じれば水を飲むし、腹が減ったら食べ物を口にする。
痛みを避けるために刃を躱し、疲弊すれば眠りにつくのだ。
心臓は鼓動し続ける事を止めてはくれない。
ここは地獄だ。
藻掻いても藻掻いても逃げられない、この世界こそが残酷な地獄なのだ。
誰かの放った火箭が黒い煙を上げて生木を燃やし、地面には幾多の死体が泥濘みの中に折り重なっている。
辺りには濃い血の匂いが充満しそれに誘き寄せられるように魔物の咆哮があちこちで上がっていた。
幾らジェイドに癒しの力があるとは言え、生きたまま魔物に内臓を喰われるのは御免蒙りたい。
いや、それで死ねるのならまだ良い。
喰われた先から再生して、死ぬに死ねないのが1番やっかいだ。
ジェイドが不吉な考えに思わず眉根を寄せたその時、崩れた岩陰に動く小さな影が目に入る。
思わずその影に手を伸ばすと、怯えたように蹲る子猫のような生き物が居た。
「触るな!そいつは魔物だぞ」
近くに居た味方の兵士が声を荒げて叫ぶ。
黒い子猫のような生き物には、額に一本のツノが生えていた。
血の匂いに誘われて来たのだろうか。
仲間の止める声も聞かず、ジェイドはその子猫のような姿をした魔物に手を伸ばした。
黒い毛玉は小さな体をさらに小さく丸めて震えている。
その姿が幼い頃、鞭で打たれて背中を丸めた自分の姿と重なって見えた。
「逃げろ!!」
突如、叫んだ仲間の声にジェイドはハッと顔を上げた。
そこには大型の豹に似た黒い魔物が、食いちぎった兵士の腕を口に咥えたまま、鼻に深い皺を寄せ鋭い牙を覗かせながら低い唸り声を上げていた。。
痛みでのたうち、悲鳴を上げて転がる味方の兵士を横目に、ジェイドは腰に佩いた剣をスラリと抜いて魔物に向かい構えた。
「少し我慢していて下さい。今助けます」
碧緑の瞳で魔物の赤い目を捉え、魔物に剣を向けたまま傷ついた兵士に向かって言った。
その間にも魔物は頭を低く下げ喉を鳴らすような唸りを上げながら真っ赤な2つの目を爛々と輝かせている。
そして、ひたりと前足を折ると勢いをつけてジェイドに向かって飛び掛かってきた。
キンッと剣が牙を弾いて高い音をたてる。魔物は間髪いれずに前足の爪を振り下ろしジェイドの脇腹を抉った。
火傷したような痛みが走り、一瞬眉を顰めたジェイドは魔物の腹を蹴り上げて距離を取ると両手に剣を握り直す。
一つ呼吸をする間に、脇腹の裂けた傷が塞がってゆく。
後ろ足を大きく伸縮させ魔物は高く跳躍するとジェイドの喉を目掛けて頭上から襲い掛かった。
その時、ジェイドが視界の端で動く物を捉えたのと
一瞬、戸惑うように魔物の意識が逸れたのは同時であった。
ぐずり、と剣先が魔物の腹を割く感触にジェイドは素早く力を込めて根本まで剣身を沈み込ませる。
ぎゃんっと断末魔の悲鳴を上げて魔物が地面に倒れると、横たわる黒い毛皮を踏みつけ刺さった剣を引き抜いた。
どす黒い血が吹き上がり地面に染みてゆくのをジェイドは無表情のまま眺める。
その視界にさきほど動いた小さな影が映った。
あの子猫のような魔物だ。
小さな黒い毛玉は倒れたままの豹に似た魔物に近づき、小さな声で呼びかけるように鳴き声をあげる。
ハッハッと浅く息をしながら最期の力を振り絞り、黒い魔物はその小さな毛玉を愛おしそうにひと舐めして、静かに呼吸を止めた。
「お前の子だったのか…」
だからあの一瞬、小さな我が子の姿を見てこの魔物は躊躇したのか。
人間がこの世界を守るように、お前も小さな命を守ろうとしていたのか。
私は何の大義も持たぬまま、この剣を振るってきた。
なぜ戦うのか、その理由さえ持たずに生きてきた。
与えられたものを、与えられるままに。
奪われるものを、奪われるがままに。
人の形をしながら人では無い私と、魔物の姿で生まれ、ただ生きるために人を喰らうこの黒い獣の何が違うと言うのだろう。
何が正義で、何が罪なのか。この世に神が居るのなら、なぜこんな風にしか生きられない命を作りたもうたのだ。
「生まれてきた事が罪だというのか…」
それは魔物の事なのか、それとも自分自身に対しての問いなのかジェイドにも分からない。
ただ一つ確かな事は、やはりここは地獄なのだと言う事だけだ。
絶望という未来しか見えない、果てしない地獄なのだ。
ジェイドの瞳からポロリと涙が溢れて落ちる。
私に泣く資格があるのだろうか。この幼い獣から母を奪ったのは紛れもなくこの私だと言うのに。
母を失った幼い命は、そう長くは生きられないだろう。
「…大丈夫」
戦場には似合わない優し気な声が聞こえ、ジェイドが虚ろな目を上げると息絶えた魔物の横に銀色の天使が立っていた。
☆ ☆ ☆
鳴り響く砲弾の音。誰かの叫ぶ悲鳴。燃え上がる火の粉。むせ返るような血の匂い。
そんなおぞましいほどの地獄の中に、ふわりと立つ青銀の髪の天使は、紫の瞳を柔らかく細めてそこだけ時が止まったように静謐な空気を纏っていた。
その人が横たわる魔物にそっと触れ、鈍色の長いまつ毛を伏せると、黒い毛皮からキラキラとした光の粒子が立ちのぼり、まるで砂が崩れてゆくように魔物の体が消えていく。
そして今度は、か細い声でミィミィと鳴き声をあげる黒い毛玉を掬いあげるように両手で抱きしめると、子猫に似た魔物の子も眩い光の粒子に包まれて、細い腕の中でその姿がサラサラと空気に溶けるように消えていった。
「浄化の聖魔力持ちか…」
誰にともなく呟いたジェイドの声に、天使の顔を持ったその人は少し悲しそうに紫の瞳を伏せて緩く首を振る。
「僕に魔力はないよ」
澄んだ優しい声だった。
その悲し気な声音を聞きながら、なぜか絶望しかなかった自分の胸の中が何か温かなもので満たされてゆくのを感じる。
初めて会った人なのに、激しい飢えのようにその人を求める自分にジェイドは戸惑った。
月の光のように静かな輝きを放ちサラリとその人の青銀の髪が風に揺れる。
「僕にあるのは、奪う力だ」
瞬きも忘れて全身でその人を見つめる。
そしてジェイドは理解した。
「私は、貴方に会うために生まれてきたのですね」
☆ ☆ ☆
キンッと金属を弾く甲高い音がした。
「ねぇ、いつまでここに居るの?」
拗ねたような声に、ここが戦場である事を思い出したジェイドが顔を向けると、ルビーのような鮮やかな赤い髪の青年が、飛んでくる矢を剣で弾きながら唇の端を持ち上げるように笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「行くぞ、ルース」
そしてもう一人。灰銀の髪に黒い瞳の恐ろしく整った顔の青年が、ルースと呼ぶその人をひょいと片手で縦抱きに抱え上げてジェイドに背を向けて歩き出す。
「待って!」
思わず青年の擦り切れた外套を掴んでいた。
立ち止まって振り返った青年は黒い瞳でジェイドを見つめて、問いかけるように片方の眉を上げる。
「私も一緒に連れて行って」
その時のジェイドの頭の中には、聖騎士としての責務や自分の置かれている立場など何も考えてはいなかった。ただこのまま離れたくない、そばに居たい。その想いだけが強くあった。
「うん、行こう」
青年に抱かれたまま、銀色の天使はふわりと微笑んでジェイドに向かい腕を伸ばす。
その手を取るのに一瞬のためらいもなかった。
握りしめたその人の指先は、思いのほかひんやりと冷たくて、ジェイドはぎゅっと握りしめると、なぜだか泣き出してしまいそうな心地になった。
☆ ☆ ☆
「ほんと、ルースは何でもかんでもすぐ拾ってきちゃうんだから」
呆れたように赤い髪に金の瞳を持つ青年、カーネリアンが言うとルースは眉尻を下げて困ったように笑った。
「お前だって拾われたくせに」
灰銀の髪に黒い瞳のフリントがフンと鼻を鳴らして言う。
「ちょっと、失礼な事いわないでよね?オレは拾われたんじゃなくて、自分から着いて来たの!」
どっちもたいして変わらないだろうとジェイドは思うのだが、ここで敢えて突っ込むほど野暮ではない。
「でも、ジェイドって聖騎士でしょ?オレたちと一緒に来て良かったの?」
「はい。私が生まれて初めて自分で選んで決めたことですから」
ジェイドが答えるとリアンは「ふ~ん?」と分かったような、分かってないような曖昧な相槌をうった。
戦場を離れルースたちに着いて行くと決めた日、ジェイドは傷ついた兵士の傷を癒し簡単な別れの言葉を残してきた。
とはいえ、相手は気を失っていてジェイドの言葉が聞こえていたかは疑問の残る所ではあるのだが。
騎士たる者、いかなる理由があれど命令なく戦いの場から遁走するなど許されるものではない。
間違いなく軍法会議のすえ、処刑される事になるだろう。
ジェイドは自嘲気味な笑みを浮かべて翡翠の瞳を細める。
かつては天使と称され、そして悪魔と蔑まれ、そこから英雄にまで上り詰めたと思ったら、今度は戦場から逃げ出した裏切り者と呼ばれる。
なんとも数奇な人生だ。まぁ、たとえ捕まって処刑される事になったとしても死んだように生きるより今の方がずっと良い。本当に処刑できるものなら、ではあるのだが。
「…それより」
ジェイドはずっと気になっている事を思い切って聞いてみることにする。
「どうしてルースはずっと抱っこされてるんですか…?」
途端にルースは羞恥で顔を赤く染め、自分を抱き上げて歩くリンの肩をポカポカ叩く。
「ほら!だから皆おかしいって思うって言ったじゃない!」
そんなルースの攻撃にもまったく怯む事なく、リンは余計な事を言うなとばかりにジェイドを横目に睨み不機嫌な声で
「暴れるな。仕方ないだろう、お前が怪我なんてするのが悪い」
とルースを抱き上げる腕に力を込めた。
「怪我をしているのですか?」
「そう。3日くらい前に木から落ちたの」
恥ずかしそうにリンの肩に顔を埋めるルースに代わってリアンが答える。
「山桃の木があってさ、ルースが木に登って実を取ろうとして落っこちちゃったんだよ。その時、丁度オレは川に水を汲みに行っててリンはその日のご飯を狩りに出てたからルース1人だったの。寝床の用意をしてたルースが近くで山桃を見つけて、オレとリンを喜ばせようと張り切って木に登った所までは良かったんだけどね」
「蛇が居たんだよ」
唇をとがらせてルースが赤い顔のまま言う。
「木の上に蛇がいたの。それで驚いて落ちちゃったんだよ」
「なるほど」
ジェイドはくすりと笑って、ルースを抱いたリンの袖を少し引いた。
リンが立ち止まってジェイドに向かい首を傾げる。
「私は癒しの魔力持ちなのですが、少しだけルースに触れても良いでしょうか?」
ジェイドの言葉に、リンは黙ったまま黒い瞳を逸らした。
お喋りなリアンもふいっと視線を外して何も言わない。
ジェイドが不思議に思っていると、少しの沈黙のあとルースがあの困った時の顔をして静かに呟く。
「ごめんね、僕に魔法は効かないんだ」
「…え?」
「僕はね、自分が魔力を持たない代わりに、あらゆる魔力を吸収してしまうの。そしてそれを無効化させてしまう。だから、僕にはどんな魔法も効かないんだ」
綺麗な柳眉を下げて、ごめんね、ともう一度ルースが言う。
ジェイドはそれがどういう事なのか、よく理解できないまま頷いた。
リンはそれを見て、また黙ったまま歩き出す。腕にはしっかりとルースを抱いたまま。
それはまるで、あらゆるものからルースを守ろうとしているかのようにジェイドには見えた。
大切な、大切な宝物を、精一杯優しく抱きしめて守るかのようにリンはルースの背中を大きな手でそっと抱きしめていた。
☆ ☆ ☆
ユークレースは青銀の髪の少女を塔の上から見つめながら、緩やかに唇を引き上げて微笑んだ。
赤髪のアルに剣の指導を受け、真剣な顔をして時折頷きながら話を聞いている。
アルの構える剣に向かってルースが剣を振り下ろすと、それを軽々と弾いてアルが笑う。
むぅっと頬を膨らませ、もう一回!と剣を構え直すルースにアルも瞳を細めて剣を持ち直した。
「ルースは変わらないね」
ユークレースの言葉に隣に並ぶアンバーの気配がふっと和らぐのを感じた。
その時、アルがふいに顔を上げこちらに視線を向けてユークレースとアンバーに気が付いた。
一生懸命に剣を振るルースに耳打ちするように何か話かけると、ルースも塔を見上げるように顔を上げ、さっきの失敗を見られていた事に気づくと、照れたような、困ったような複雑な表情をして眉尻を下げた。
変わらないな、ともう一度ユークレースは思う。
そして今世ではもう決して、あの紫の瞳を涙で濡らさないようにしようと心に誓った。
絶対に守ってみせる。
たとえまた、前世の時のようにこの命を落とすことになったとしても。