ジェムストーン -原石-
☆ ☆ ☆
揺れる馬車の窓の外を流れるように過ぎて行く木々を眺めながら、ルースはあの日父様が言った言葉を思い返していた。
- 魔力とは呪いなのだ -
まだ幼かった私にはその意味がわからなかった。
父様も兄様も当たり前のように使える魔力が、私にはまったくない。
それは10年がたった今でも変わらず、侯爵家の直系の中で私だけが異質なものであるような疎外感として今も胸の中に燻っている。
もちろん父様も兄様も私を心から愛して…いや、むしろ溺愛しすぎる程に大切にしてくれているのは充分感じてはいるのだけど。
「ルース、もうすぐ着くよ」
向かいの席で長い足を組んだまま柔らかな笑みを浮かべるアンバーの声にハッとして兄様の方に視線を移すと、兄様は額にかかる私より少し暗い灰銀色の髪をサラリと揺らして蜂蜜色の瞳を細めた。
シャープな顎の線に、形の良い鼻梁。薄い唇と、琥珀のような切れ長の瞳。
襟足のあたりで短く切り揃えられた灰銀色の髪は、前髪が少し長めで耳元のピアスの上で緩やかに揺れている。
スラリとした細身の体格ではあるものの、今年17歳の誕生日を迎えるアンバーは近頃は筋肉もついてきて、いつの間にか少年らしい繊細な幼なさが抜け、甘さを残した美しい青年へと成長していた。
「疲れたよね。帝都まで馬車で8日だもん。僕のお尻が悲鳴をあげてるよ」
大袈裟なため息を吐いてアンバーは軽く両手の指を組んだ腕をぐっと上へ伸ばし、身体をほぐすような仕草をして見せる。
侯爵家の馬車は、身体が沈み込むほど柔らかな座席に手触りの良いふかふかなクッションが配置され、身体を横たえても充分な広さを確保出来る大きさもあって、乗り心地は抜群だ。
それでもさすがにこれだけ長距離となると、うんざりしてしまう。
「この森を抜けたら帝都に1番近い街に着くから今夜はそこで一泊して、明日の夜にはオブシディアンにあるベリル侯爵家のタウンハウスに着くよ」
フリント国を出発して1週間、長かった馬車の旅もそろそろ終わりを迎えられそうだ。
やっとゴールが見えてきて、内心ほっとしながら私は「はい」と一つ頷いて、もう一度窓の外に目を向けた。
ここ、オブシディアン帝国は四方を4つの国に囲まれた内陸に位置する比較的気候の穏やかな強国で、魔力のオブシディアンと呼ばれ、かつて数多の魔物が闊歩していた古の時代に勇者を輩出した国でもある。
剣のカーネリアン、盾のフリント、智のシトリン、癒しのジェイドと呼ばれる四つの国の中心に位置し、国境に沿うように深い森に囲まれている。
4つの国の上位貴族の子ども達は15歳になる年に帝都にある学園に必ず入学しなければならない。それは将来、帝国の中枢を担う者として広い視野を持ち、高度な技術や教育を共有するためと言う建前はあるものの、実際はオブシディアンに対する絶対的な忠誠心を叩き込みそれぞれの国同士の結びつきを強固にし、またはパイプを繋ぐための社交の場としての意味も深く根ざしていた。
今年15歳になる私も、例に漏れずこの春からオブシディアンの帝都にあるジェムストーン皇立学園に入学する予定だ。
そのため、ひと足先に学園に通っている2つ年上の兄様が春の長期休暇を終えて領地から学園へと戻る馬車に便乗して、私も帝都にある侯爵家のタウンハウスへと向かっていた。
「予定していたより少し時間がかかってしまっているな」
組んだ膝の上に片肘をついて、手のひらに顎を乗せた姿勢でアンバーがぽつりと呟く。
「近頃、あちこちで魔物が出没しているらしいし、日が落ちる前に街に着くと良いのだけど」
アンバーは馬車の窓の方に顔を向け、道の両脇に広がる深い森へと視線を移した。
青々とした木々が重なるように枝葉を伸ばした森の奥は、昼間だと言うのに日差しが遮られ薄暗く感じる。
今は正午を少し過ぎたくらいで、春とは言え気温は高めでポカポカ陽気なのに森の中はひんやりとして肌寒いくらいだった。
何か考え込むようにじっと昏い森の奥を見つめる、少しだけ憂いを帯びた兄様の横顔は、私が知ってる顔よりずっと大人びて見える。
「魔物は千年も前に勇者様と4人の英雄たちに魔王が倒されてから、南の極地に僅かに残っているだけなのでは?」
少なくとも私の暮らすフリントでは、生まれてこのかた一度も魔物を見たことはなかった。
少し身を乗り出すようにして私が聞くと、兄様は煮詰めた蜂蜜のような瞳を私に向けてにっこりと笑った。
「魔物と言っても下位の小物だと聞くし、そこまで恐れるものではないよ。ただ、極地に居るはずの魔物が人間が暮らすこの帝国の地にまで現れたとなると、極地の方で何かあったのかもしれない」
「まさか、魔王が復活するとか?」
私が眉を顰めてつぶやくと、兄様は唇の片方だけ上げて笑った。
「まさか。そんな訳ないだろ?南には帝国の剣と呼ばれるカーネリアンがある。その辺境では今も極地から這い出てくる魔物を食い止める討伐が定期的に行われているし、何か変わった事があるならカーネリアンから報告があるはずだ」
「お父様なら何か知ってるかも」
ふむ、と頷いて私はふと兄様に問う。
「兄様は建国史の御伽話を信じてる?」
「世界に選ばれた勇者が4人の英雄と共に魔王を倒し、それを封印するために自らも永き眠りについた。その魂が眠る場所がオブシディアンの地であり、遺された英雄達はその地を守る為にオブシディアンを囲むようにそれぞれによって4つの国を建国した。南に剣のカーネリアン、西に盾のフリント、北に智のシトリン、東に癒しのジェイド、4人の英雄の名をそれぞれの国名に冠しそれから千年の永き間、勇者と英雄たちの加護によってこの帝国の地は平和であり続けました」
アンバーはどこか遠くを見るように馬車の窓の外へ視線を向けて呟いた。
「…めでたし、めでたし」
その声音に一瞬、仄暗いものを感じて私は兄様に向かって小首を傾げて見せる。兄様はすぐにいつもの柔らかな口調に戻って私の方へ視線を戻した。
「何でもないよ。この帝国の始祖が勇者様であるなら我が国は安泰だね。それよりルースは本当に騎士科に行くの?」
「もちろん!小さな頃から騎士になるのが夢だったのです。それに、私には一欠片の魔力すらないのだもの」
わざと頬を膨らませて拗ねたように言うと、兄様は私の頭をくしゃりと優しく撫でた。
「うーん。魔術科なら魔力がなくても薬草の勉強や、魔道具の開発なんかの知識を得る事が出来るよ?騎士科は体力勝負の脳筋の集まりだし、可愛いルースが汗臭い野獣の群れの中に入るのは心配だな。魔術科なら僕も居るんだしさ」
「やめてください兄様!私がこの10年どれだけ苦心して父様を説得したと思ってるのですか?宥めすかして、泣き落としにゴマすりに、本当に大変だったんですから!」
「知ってるよ。それだけじゃないだろ?脅したり、暴れたり、騎士になれないなら平民になる!って何度家出された事やら。おかげで僕は世界で1番、隠れてるルースを早く見つける天才になったと思うよ」
クスクスと笑う兄様に釣られて私もふふっと笑がこぼれる。
「そもそも、魔術科はとんでもなく狭き門なのですよ。そこを卒業すれば将来は帝国の宮廷魔術師にもなれるチャンスがあるし、帝国中の精鋭が集まる天才しか居ない所って事くらい私でも知ってるのに」
学園は精鋭ぞろいの魔術科と剣を極める騎士科、そして紳士淑女の社交を身につける一般教養科に分かれている。
ただでさえ貴重な魔力持ちの中でも、特に優秀な人材だけが入れる魔術科は、同じジェムストーン学園の中にあっても別格だ。
私みたいな魔力が皆無な人間にはあまりにも場違い過ぎる。
それに心配性の父様をねじ伏せて掴んだ騎士科への入学に、私は期待で胸を膨らませていた。
「ふーん?なら、僕もその天才の中にカウントされるのかな?」
兄様がコテンと首を傾けると、片耳でキラリと光を反射してピアスが光った。
兄様の耳にはアメジストと琥珀と黒玉の3つのピアスが輝いている。
左耳に光るピアスは魔術師である証だ。
「あたりまえです。兄様ほど優秀な魔術師を私は他に知りません」
まるで自分の事のように誇らしげに胸を張る私に、兄様は嬉しそうに瞳を細めた。
「本当に僕のルースは可愛いな」
兄様の天使のような微笑みに一瞬見惚れた刹那
突然、ガタンッと大きな音を立てて乗っていた馬車が大きく跳ねた。
「なにごとだ」
素早く私の身体を抱き込むように支えて、兄様は声を張り上げる。
「魔物です!」
馬車の横について走る馬上から護衛の騎士が叫んだ。
兄様に抱きしめられたまま私はぱっと顔を上げて窓の外に視線を向ける。
道を挟むように両脇に並び立つ木々の向こうに、馬車と同じスピードで幾つもの黒い影が飛ぶように並走しているのが見え隠れしていた。
姿かたちは狼のように見えるが大きく裂けた口から覗く黄色い牙は口腔からはみ出すほど大きくびっしりと生えていて、血のように赤い目をぎらつかせ黒い霧のような靄がその身体から立ち上っている。
次の瞬間、道の脇から飛び出してきた魔物が護衛騎士の腕に喰らいつきその勢いのまま馬から滑り落ちた。
その姿を横目に確認して兄様は小さく舌打ちすると、私をギュッと抱きしめて優しく微笑む。
「大丈夫だよ。僕が居るんだから。僕が戻るまで良い子にしてて?動いちゃダメだよ」
私を安心させるように柔らかな声でそう言うと、パチンと指を1つ鳴らして馬車に結界の膜を張る。
「このまま真っすぐ街を目指せ!」
馬車を走らせる御者に短く指示すると、兄様は扉を開けてひらりと外へ飛び出して行った。
「兄様!」
後を追おうとした私の目の前で馬車の扉が閉まる。
「兄様!!」
慌てて窓の外を覗き込むと、馬車の後方からドンッ!と鈍い破裂音のような音が響き、土煙の中に吹き飛ばされた魔物と、倒れた護衛騎士の間に立つ兄様の背中が見えた。
魔物は素早く態勢を立て直すと、護衛騎士を取り上げられた怒りで頭を低く下げて鼻に深い皺を刻みながら鋭い牙をむき出して低い唸りを上げる。
その後ろには無数の赤い目がゾロゾロと群れをなしていた。
護衛のために同行している騎士は3人。
そのうちの一人は馬から落ちた衝撃でいまだ倒れたまま動かない。
もう一人は私を守るために馬車を先導して駆けていて、残りの1人の護衛騎士が兄様を守るように剣を構えて魔物と対峙していた。
魔物の口からは糸を引くように涎が滴り、筋肉質な後ろ足をグッと収縮させものすごい勢いで兄様に飛び掛かる。
「兄様!」
窓ガラスに張り付くようにして、遠ざかる兄様の背中に向かって叫ぶと、兄様は肩越しに少しだけ振り向いて瞳を細め軽く片手を振った。
兄様の灰銀色の髪がふわりと揺れたその刹那、兄様の前に居た魔物が血しぶきを上げて倒れる。
真っ赤な目を怒りに染めて、魔物たちは低い唸り声を上げながら倒れた仲間を踏み越えて兄様たちを取り囲むように両脇の木々の間から次々と姿を現した。
ガラガラと車輪の音が大きく響き、車体が跳ねるように振動を繰り返す。
不安でドクドクと鳴る心臓の音がやけに大きく響いて、私は小さくなる兄様の姿をただ見つめる事しか出来ない自分を歯がゆく思った。
護衛に守られての馬車での移動だったため、私は武器になるようなものを持っていない。
そして私は魔法が使えない。初めて目にする魔物の姿に、ただ震える事しか出来ない。
遠く後方に見えなくなった兄様の背中を想い胸の前でぎゅっと両手を結ぶ。
その時またしても馬車が大きく揺れて甲高い馬の嘶きが響いた。
私がバランスを崩して座席の上に倒れ込んだのと同時に、大きく跳ね上がった馬車が激しい衝撃と共に横倒し、外から御者の悲鳴が聞こえた。
兄様の結界のおかげで傷一つ付かなかったとは言え、横倒しになった馬車では走る事はできない。
「動いてはダメだよ」と言われてはいたものの、御者の様子が気になり何とか外に出ようと、今は頭上の位置にあるドアに手を伸ばしかけて私はギクリと心臓が跳ねた。
ドアにある飾り窓の向こうに赤黒い空洞が見える。それが巨大な蛇の大きく開いた口である事に気づいて、小さな悲鳴が喉から零れた。
巨大な蛇は馬車を噛み砕こうとするように、大きな口でギリギリと車体に牙を突き立てている。
その大きさは頭だけでも馬車と同じくらいあり、胴体の太さは大人の男3人が手を繋いで輪になったくらいは余裕でありそうだ。
「出てはなりません!」
護衛騎士が私に向かって叫びながらその巨体に向けて必死に剣を振り上げて切りつけるが、テラテラと濡れたように光る鱗は騎士の剣では刃が立たないようでキンッと高い音を上げて弾かれた。
巨大な蛇は煩わしそうに首をもたげると騎士に向かい牙をむき出して襲い掛かる。
それを何とか躱して騎士が剣を振るうが、はやり硬い鱗に弾かれて歯が立たない。
再び蛇は騎士に喰らいつこうと攻撃をしかけ、騎士が剣でその牙を受け止める。
ギリギリと押し合うように互いに睨みあっていたが、蛇は突如しっぽをぐるりと騎士に巻き付けて胴体で締め上げるようにとぐろを巻いた。
身体をものすごい力で絞り上げられ、騎士が苦し気なうめきを上げる。
蛇はそれを大きな口でバクリと咥え込み、騎士の断末魔の悲鳴と共にバキバキと噛み砕く音が響くと、降り注ぐ赤い血に交じって、ベチャリと音を立てて馬車の窓ガラスに肉片が落ちた。
私は息をするのも忘れて大きく目を見開いたまま、その光景を見ていた。
恐ろしさにガタガタと身体が震える。
蛇は血で汚れた馬車の窓ガラスの隙間からこちらを覗き込むように赤い目を覘かせると、またしてもチロチロと舌を出し入れする口を裂けるほど大きく開いて喰らいついてきた。
このままでは馬車ごと蛇の胃袋に収まってしまう。
いくら兄様の結界があるとはいえ、そんなのは御免だ。
素早く武器になりそうな物を探して視線を彷徨わせた時、さきほどドアの窓に落ちてきた肉片が護衛騎士の腕である事に気づいた。その手にはいまだ剣が握られている。
私は意を決して頭上のドアを押し開け、その隙間から腕を伸ばすと騎士の手のひらから剣を掴み取った。
帝都に向かうための移動中、楽に着られるようにと父様が仕立ててくれた柔らかなエンパイアドレスの裾を割いて、血で滑らないように握りしめた自分の手ごとしっかりと剣の柄に巻き付ける。
必ず生きて兄様に会う。騎士を目指す私がここで怯えて諦めたら、きっと父様に「だから無理だと言っただろう」と言われてしまうだろう。
私は窓の外に赤黒くうごめく蛇の口腔を見上げて唇を嚙み締めた。先ほどまであんなに激しく胸を打ち付けていた鼓動が凪いだ水面のように静まっていくのを感じる。世界から音が消えて、自分の呼吸するリズムだけが耳の奥に響いている。
私は頭上の扉を開くと、目の前の蛇の口腔に向かって素早く剣を突き立てた。そのまま一気に剣を振りかぶりその肉を引き裂く。巨大な蛇は声にならない悲鳴を上げて馬車から口を離すと大きく首を仰け反らせた。
その間に私は扉から外に飛び出して馬車の上に立つと、間髪入れずに蛇の赤い目に向かって剣を振るう。
瞼のない無防備な蛇の目にズクリと剣が沈み、蛇はその痛みでのたうつように長い胴体をうねらせながら、怒りに全身からどす黒い靄を立ち上らせた。
ブンっと低い唸りを上げて蛇のしっぽが振り下ろされる。私は後方に宙返りするように飛んでそれを躱すと、地面に膝をつくように着地して素早く次の攻撃に備えるために顔を上げた。
その視線の先に、驚いたように金色の瞳を見開いて私を見つめる燃え立つような赤い髪をした少年が居た。
☆ ☆ ☆
ルビーを溶かしたような鮮やかな赤い髪が緩やかに額の上で波うち、それよりやや深い色をした眉の下には黄金を流し込んだような金色の瞳が見開かれている。
小ぶりな鼻と、少し生意気そうな薄い唇。鋭角な顎のラインに長い手足。
細身ではあるが、その身体は程よく筋肉が付いていて決して華奢には見えない。
その人は、つかの間、息を止めたように私を見つめた後、甘さを含んだ少し掠れた声を震わせた。
「…やっと見つけた」
蛇の頭上で少年は金色の瞳を嬉しそうに細める。
真っ白な手袋をはめた手にはスラリとした大振りの剣を持ち、白地に金の刺繍が入った騎士服を着て、緋色の肩掛けマントを纏っている。
少年が軽く首を傾けると、少し癖のある赤い髪の下でアイオライトの小さな石に止められた金の細い飾り細工の付いたピアスがシャラリと揺れて光をはじいた。
「夢…じゃないよね?」
蛇の額をトンと蹴って私の目の前に降りてくると、少年は頭一つ分くらい高い身長から私を覗き込むように顔を近づけてきた。
「久しぶりだね、ルース」
状況を飲み込めないまま私は少年の金色の瞳を見つめ返す。
彼はまるで旧知の仲のように気安く話しかけてくるが、私は彼の事を知らない。
生まれてからこれまで、自分の国どころか領地から出た事すらない私が、こんな場所で知り合いに会う事なんてまずありえない。
ましてや、こんな綺麗な顔をした人なら一度会えば忘れる事はないだろう。
訝し気に私が眉を寄せるのを見て一瞬、少年が泣きそうに瞳を揺らしたように見えた。
長い指が私に向かってそっと伸ばされる。その指先が微かに震えていた。
そこでふと視界に影が差し、視線を少年の後ろに向けると巨大な蛇が鎌首をもたげて威嚇するように尻尾の先を震わせているのが目に入った。
とっさに私は少年の手を掴んで引き寄せる。
すると、少年は少し驚いて後ろを振り返り蛇の姿を捉えると「待ってて」と言って、するりと指先で羽のように柔らかく私の頬を撫で剣を持つ手を蛇に向けて構えた。
たちまち剣が陽炎のようにゆらりと青白い炎を纏う。
「お前を追いかけてここに来たのを忘れてたよ」
少年は軽く地面を蹴って飛び上がると、ヒラリと剣を一振りした。
剣が纏う炎がその軌跡を辿るように帯状にひらめく。
私は息をするのも忘れてその光景を見つめた。青く、青く輝く炎がベールのように揺らめいて、幻想的にすら感じてしまう。
「本当はめんどくさいって思ってたんだけど、ルースに会わせてくれた事には感謝するよ。だから、苦しまないように逝かせてあげるね?」
巨大な蛇はもたげた頭を大きく振りかぶって少年に向かって牙をむく。
それは本当にあっけないほど一瞬の事だった。
舞うように軽やかに少年はそれを躱し、蛇の頭上から剣を振り下ろすと声を上げる間もなく蛇の頭がボトリと落ち、瞬きする間にその胴体が内側から炎に包まれて消炭になり崩れ落ちていく。
鋼よりも硬い鱗に覆われていると言うのに、それを感じさせない程いとも簡単に切断までしてしまったのだ。
少年は剣に付いた血を払うように大きく腕を振るとそのまま鞘に納め、軽やかにトンっと私の目の前に降りてくる。
その光景を目を丸くして見つめる私に向き直り、にっこりと微笑みを浮かべると、あろうことか私を力いっぱい抱きしめた。
「会いたかった!」
息が出来ないくらいきつく抱きすくめられて、私は彼の胸を押し返そうともがいた。
「まって…」
「どれだけ探したと思ってるの?もう絶対に離さないから!」
「まって、苦しい…息ができない!」
ドンドンと彼の胸を叩いて抗議するが、さらに強く抱きしめられて、これ以上力を込められたら窒息する!と思った時、ふいに私の身体がふわりと別の腕に捕らわれて少年の腕から引き離された。
「何をしている」
私のよく知るその声の主の腕の中で、やっと肺に新鮮な空気を吸い込みケホケホと咳き込むと、優しく背中を撫でて兄様が言った。
「ルース、大丈夫か?」
コクコクと頷く私に兄様はほっとしたように微笑した。
「なんでお前がいるの?」
少年は形の良い眉を顰めて兄様を睨みつける。
兄様は何も答えず無表情のまま私と少年の間を塞ぐように前に立って私を自分の背中に隠した。
「ねぇ、何でお前がルースと一緒に居るの?」
苛立ったようなその声にも兄様は反応しない。
ただ静かにお互いに睨みあうように視線を絡ませている。
この二人は知り合いなのだろうか?だから少年が私の事を知っていたのかもしれない。
そんな事を考える私の目の前で、凍りつきそうな空気を纏う2人は見えない火花を散らせている。
知り合い、と言うよりかなり険悪な仲らしい。
私は慌てて兄様の袖を摘まんで引いた。
「兄様」
私の声に兄様は私の方へ視線を移して蜂蜜色の瞳を優しく細めた。
「怪我はない?」
私は兄様の問いかけに首肯くと、兄様の袖をギュッと握って言った。
「兄様、この方は先ほど魔物に襲われていた所を助けて下さったのですが、兄様のお知り合いでしょうか?」
「いや、それよりルースどうして馬車の外に出たの?」
少年の事に関しては答える気がないらしい。兄様は短く否定の言葉を口にしただけで、私の身体に傷がないか目視で確認しながら窘めるように片方だけ眉を上げる。
「僕は馬車から動かず良い子にしてて、って言ったよね?」
「とても大きな蛇に襲われて馬車が横転してしまったのです」
慌てて言い訳する私から、切断されて転がった蛇の頭の残骸に顔を向け兄様が小さく「なるほど」と呟いた。
「僕の想定ミスだね。まさかこの帝国の森で大型の魔物が出るなんて予想してなかったからな」
ふむ、と一つ頷いて兄様は不機嫌そうに少年に向かって
「で?カーネリアンは帝国の剣の名を返上しに来たの?」
と冷ややかな声で言う。
途端に少年は金色の瞳を光らせて、怒りで目元を赤くさせながら兄様にぴしっと右手の人差し指を突きつけて怒鳴った。
「こっちだって想定外だったんだよ!まさかこの森で魔素が発生するなんて思わないじゃないか」
魔素とは魔力溜まりの事で、不浄な気が集まって魔素となりそこから魔物が発生する。
南の極地ではこの魔素の塊が幾つもあって、そこから這い出てくる魔物を駆除するのが帝国の剣と呼ばれるカーネリアンの重要な役割だ。
「軽いスタンピードが起こったんだよ。ランクとしてはそこまで強い魔物は居なかったけど、数が多くてうちの連中が幾らか取り逃がしちゃったの!それでオレが駆り出されたってわけ」
少年は忌々しそうに長い指で前髪をかき上げてため息をついた。
そして兄様を横目に睨みながら「それで?」と続ける
「どうしてお前がルースと一緒にいるわけ?ここ最近の魔物の騒がしさの理由も説明してくれる?」
「僕に聞かないでよ」
兄様も不機嫌さを隠しもせずに少年に向かって冷たい声で言う。
「ルースは僕の妹で、今は帝都に向かってる所だ。その途中で魔物の群れに襲われて、僕が無能なカーネリアンに代わってそれを片付けてる間にルースがそいつと出くわしたみたいだ」
今は炭となって崩れ落ちた蛇の残骸に向かって顎を向けて兄様がそう言うと、少年はむっとした顔をした。
「無能じゃねーよ。オレ達だからこの程度で済んでんだろ。だいたい、どうしてこんな所で魔素が発生するんだよ。本当にお前、何も知らないの?」
「僕は何も知らない。もし何か原因があるなら、僕より君の方が詳しいと思うけど?」
「あの!」
むむっと睨みあう二人の間に割り込むように私が声をかける。
「あの、さきほどは助けて下さりありがとうございました」
少年に向かって頭を下げると、彼は一瞬で剣呑な雰囲気を霧散させ兄様を押し退けるように私の前に立つ。
「ルースを守るのは当たり前でしょ?約束したよね、絶対に守るって」
「えーと…、誰が?」
「オレが!」
「…誰と?」
「ルースと!」
「…いつ?」
「前世で!!」
しばしの沈黙の後、思わず私は
「…は?」
と、礼儀も忘れて少年の顔を凝視してしまった。
「あれ?もしかして覚えてないの?オレの事も?」
ショックを受けたように少年は目を見開いて呆然とした声を上げる。
「オレだよ?リアンだよ…?本当に思い出せない?」
「今の君の名前はアルマンディンだろ」
兄様が呆れたように言うと、少年は赤い髪に両手の指を突っ込んでしゃがみ込んだ。
「嘘だ…。ルースがオレを忘れるわけない。」
ごめんなさい、と私は小さくつぶやく。
リアンと言う名前にも、アルマンディンの名前にも記憶がない。私が眉尻を下げて途方にくれていると、兄様が私の肩を抱いてポンポンと慰めるように軽く叩いてくれた。
「ルース。気にしなくて良いよ。知らなくて当たり前なんだから」
「何でだよ!?」
少年はキッと兄様を睨んで大きく息を吐く。
「…って言うか、うっかり聞き流す所だったけど、兄妹?ルースとお前が?」
「だからそうだと言っているだろ」
兄様の言葉に少年は「嘘だろ?」と呟いて赤い前髪を長い指でクシャリとかき上げた。
「お前の事は覚えてるの?」
「…いや」
兄様はじっと少年を見つめた後、少しだけまつ毛を伏せて蜂蜜色の瞳に影を落とすとゆっくり首を振った。
「…ルースには前世の記憶、全てがないんだ」
「お前が何かしたの!?」
「僕は何もしてないよ。出来るわけがないだろ?」
「それなら、どうして…」
「それを今考えても仕方ないだろ。ルースは何も悪くないし、そんな風に責め立てられても困惑させるだけだ」
「それは、そう…だけど」
少年はハァと大きく息を吐く。
「まさかルースが忘れてるなんて…」
「僕は忘れて良かったと思ってるよ」
兄様はきっぱりと言い切って一瞬だけその蜂蜜色の瞳に苦痛の色を滲ませた。
「そして、思い出さなければ良いと思ってる」
「…それは、そう…かもしれない…けどさ…」
少年は泣きだしそうに揺れる金色の瞳を細めて私を見た。
「わかった。とりあえず、ルースは何も覚えてないって事は理解した。それならオレがする事は一つだ」
少年はパチっと瞬きすると、瞳に揺れていた切なげな影を消して私に微笑みかける。
「オレは帝国の剣カーネリアンの辺境伯、ルベライト家次男。アルマンディン・ルベライトだ。そして…」
そこで一度言葉を切ると、右手を心臓の上に乗せ左手を背中に回して腰を折り騎士の礼を取る。
「4人の英雄がうちの一人、カーネリアンの魂を持つもの。そして、あなたに永遠の忠誠を誓う者。以後、よろしくお願い致します」
人懐っこい笑顔に押されて私も慌てて淑女の礼を取る。
「わ、私は帝国の盾フリントの、ベリル侯爵家が長女ルース・ベリルと申します」
ドレスの脇を摘まみ片足を引き膝を折ってカーテシーをしようとして、さっきドレスの裾を引き裂いたのを思い出して頬が赤くなった。
しかもその切れ端は今も私の左手に剣と一緒に巻き付いている。
上目遣いにそっとアルマンディン様を見上げると、彼は金の瞳を猫のように細めて私を見ていた。
「ではルース。最初からやり直しだね。知り合う所までは済ませたから、今からはお互いを知って行く事から始めよう。オレの事はアルって呼んで?前世のようにリアンでも良いけど」
私はどうすれば良いか助けを求めて兄様の方を向くと、兄様は少し苦し気に切れ長の瞳を伏せて俯いていた。その姿がひどく胸をざわつかせる。
いつも冷静で落ち着いていて、包容力があって、穏やかで優しい、そんな兄様が初めて見せる不安げな姿は、私の胸のどこかずっと遠くの方で微かな懐かしさと共にチクリとした痛みとなって棘を刺した。