2 慎介、想い人を想う
今日、慎介の願いが一つ叶った。
やっと二人で、満開の桜を見ることができたのだ。
「来年は、一緒に桜を見よう」と確かに約束したことを、凛々子はもう憶えていないかもしれない。
たとえそうであったとしても無理はない。
『来年』とは彼女の母親が身罷った翌年の春を指していて「もうお母さまとお花見できない」と泣きじゃくる凛々子を慰めるために言ったのだから。
生憎、その年は、慎介が帝都を離れている僅かばかりの間に時期を逃した。
では、その翌年はというと、花冷えと雨ではっきりとした見頃がないまま季節が過ぎてしまった。
次の年も、その次の年も、そのまた次の年も、なぜか間が悪く約束は果たされないまま。
今年こそはと思っていた。
慎介は、エドヒガンザクラの美観を目の前にしていても、隣にいる幼馴染みが気になっていた。
じっと自分を見つめているのも、髪についた花びらを取ろうと手を伸ばしかけたのもわかっていた。
素知らぬ振りをしていたのだ。
もし見つめ返してしまったら、もう気持ちを抑えきれないような気がして。
慎介が、凛々子が他の男のものになると知ったのは、親から聞くよりも前のことだった。
彼女の弟の辰吉が、話の決まった翌日にわざわざ会いに来たのだ。
辰吉は慎介に懐いていた。
慎介が本心を明かしたことはなかったが、思うところがあったのだろう。
「姉の嫁入りが決まりました。いえ、嫁ではありませんね……妾です。家のために売られたようなものです」
辰吉が悔しそうに顔を歪めた。
借金返済と生活の援助をする代わりにということであった。
中園家が経済的に余裕がないことは周知の事実であったが、それほどまでに切迫していたとは初耳である。
辰吉の話によると、父親が投資詐欺に遭ったのだという。
にっちもさっちもいかない状態に助け船を出したのが、桐生喜一であった。
この国で、急成長を遂げた桐生貿易の名を知らぬ者はいないだろう。
社長の喜一は、既に華族の娘と政略結婚している。その妻が事故の後遺症で車椅子の生活であるのを、慎介は客の噂話で知っていた。
金持ちが妾を持つのはめずらしいことではない。
『男の甲斐性』だと複数の妾を囲う男もいるし、お座敷遊びに興じる者もいる。
そういう世の中であった。
「奥方とは離縁できない。でも跡継ぎが必要だと言うんです。子どもの血筋が良くないとあちらの家も納得しないということらしくて――――」
その瞬間、慎介は頭の中が真っ白になり、辰吉の言葉が耳に入らなくなった。
いつも母に連れられてやって来る凛々子は、特別な存在だ。
幼馴染みで、中園家の令嬢で、店の客でもある。
愛しいという想いが、ずっと慎介の胸の中にあった。
凛々子の父親が、大店でもない呉服屋の息子との結婚を許すとは思えない。しかし、先代が亡くなってからの中園家は零落の一途を辿っていたので、凛々子の縁談が決まらなければ、あるいは――と期待する気持ちが慎介にはあった。
彼女を娶りたいと両親に打ち明けたこともある。
「仕事も半人前なのに、嫁を貰うなど早すぎる。まだ成人もしていないのに」
御尤もな理由で一蹴されてしまった。
この国の男性は十七歳から婚姻できる。しかし、男は三十歳まで、女は二十五歳までは家長の同意が要るので、勝手に入籍はできない。
「望み薄だが、成人したら中園家に釣書を渡すくらいはしてやってもいい」と言われ、慎介は仕事に励んでいた。
「父がよく知りもしない男の投資話に乗せられなければ、こんなことにはならなかったのにっ……」
質素でも不自由のない生活はできたはずだと、迸る怒りを露わにする辰吉のマグマのような熱気で、慎介は我に返った。
成人まで、あと一年。
希望は完全に絶たれたのだった。
無力だ、と慎介は思う。
凛々子にしてやれたのは、一緒に桜を見ることとお守りを渡すことだけだった。
幸せを願うも、「おめでとう」とは言えなかった。
めでたいとは、到底思えなかったからだ。
一度も気持ちを伝えられないまま、慎介は、断腸の思いで凛々子を諦めなければならなかった。
桐生喜一が、新浜の港で暴漢に襲われ命を落とした。
この衝撃的なニュースが世間を騒がせたのは、花見から三日後のことであった。
喜一に騙された商売敵の仕業とのことである。
桟橋を歩いていたところをナイフで数か所刺され、もみ合った弾みに一緒にいた情婦が巻き添えを食った。
その女性が、まだ十七歳の華族令嬢であったことも人々の関心を集めた。
凛々子が死んだ。
あれほど新聞を賑わせたというのに、慎介はまるで夢でも見ているかのような心地がして、まったく現実味がないのだった。
別れたあの日をはっきりと思い出せる。
爛漫の桜も、凛々子の美しい黒髪も、お守りを渡した時に触れた手の温もりも。
もうこの世にいないなどとは信じられない、信じたくない。
機械的に仕事をこなし、食事をする。
その瞳は、何も映さない。
顔に色はない。
淡々とした日々が続いた。
四十九日を過ぎた頃、辰吉が訪れた。
「姉の形見です」
渡された風呂敷の中身は、最後に会った日に凛々子が着ていた若草色の袷だった。
「これは……」
慎介は、受け取ってしまっていいのかわからず戸惑った。
凛々子の母親が遺した着物である。辰吉にとっても思い出の品に違いなかった。
「貰ってやってください。姉はあなたを慕っておりました。きっと喜ぶでしょう」
辰吉が、やつれた顔で笑顔を作った。
「桐生の金で借金だけは返せましたが、先々のことを考えて屋敷を売ることにしました。今後は、親戚の家で世話になるつもりです。最初からこうすればよかったんです。いつまでも中園の家名に縋りついてさえいなければ、姉もあんな奴に目をつけられずに済んだのかもしれない」
その沈んだ口調からは、先日のような憤慨は感じられず、深い悲しみだけが伝わってきた。
話しながら必死に泣くのを堪えているのか、時折、涙声になる。
「桐生は……あの男は、最初から姉が狙いだったんです。妾にするために、わざと父を罠に嵌めて借金を背負わせ、援助を持ちかけました。刺した男が白状しました。『俺も騙されたんだ』と…………」
辰吉の声が詰まった。
慎介は堪らず、辰吉の肩に手を置いた。
「世間はもう姉のことなど気にも留めません。私たちも直にあの屋敷から去ります。だけど、慎介さん、どうか姉のことを忘れないでください」
「忘れない……忘れられるものか」
肩を掴む慎介の手に力がこもった瞬間、辰吉が堰を切ったように涙を流し嗚咽した。
その晩、慎介は形見の着物を手に取り、初めて泣いた。
今頃になってようやく、凛々子の死というものを実感できたのだ。
(こんなことなら駆け落ちでもすればよかったんだ……!)
慎介は、両親の説教を真に受けて、馬鹿正直に二十歳になるのを待っていた己の悠長さを悔いた。
しかし、凛々子は駆け落ちなど承知しなかっただろう。
彼女は弟の辰吉を可愛がっていたし、父親に逆らって家族を見捨てられるような性格ではなかった。
結局、成す術がなかったのだ。そう思うと、今度は運命を呪いたくなり苦悶するのだった。
「ん……?」
しばらくの間、悲嘆に暮れながら着物を撫でていると、滑らせる指に何かが当たる感触があった。
慎介は、右側の袂に手を入れ、小さな巾着袋を取り出す。
凛々子に渡したお守りと白いハンカチが入っていた。
ハンカチには、桜の花が丁寧に挟まれていた。
あの日の――――。
あとで押し花にするつもりだったのかもしれない。
慎介は、萎れてしまった花びらを壊さないように、そっとハンカチを畳んだ。
翌日、慎介は久しぶりに氷川神社へ足を運んだ。
一人だというのに、参道の途中でつい振り向いてしまう。
『待って、慎さん』
そう言って小走りに駆け寄る。
揺れる簪。
白い肌。
頬がスッと赤らむ。
楽しげな笑み。
そんな凛々子の面影が浮かび上がった。
境内のエドヒガンザクラは、とっくに葉桜になっている。
だけど、無性にここへ来たくなったのだ。
「ニャン」
短い鳴き声がして視線を巡らせると、拝殿の前に白い猫を見つけた。
慎介は懐かしくなり、ゆっくりと近づいていった。
「シロ、おまえか」
よしよしと頭を撫でる。白猫は逃げるでもなく気持ち良さそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。
初めて会った時は、まだ子猫だった。
その頃は凛々子の母も健在で、凛々子と辰吉は母親に連れられてよく参拝していた。彼らが店に寄った折りには、慎介も誘われてついて行った。
子どもたちにとって、お参りというよりは遊びの感覚である。
蝶を追いかけたり、まつぼっくりやドングリを拾ったり。
凛々子のお気に入りは猫だった。
「この神社には、昔から白猫がいるんですって! 神様の使いだとお母さまがおっしゃるの。ね? お母さま」
ゴロンと寝そべった白い子猫の腹を撫でながら、弾んだ声で凛々子が言う。
凛々子の母が優しく微笑み「そうよ」と頷く。
慎介たちは、勝手にシロと命名して可愛がった。
「大きくなったなぁ」と慎介がシロを抱き上げると大人しく懐に収まった。
「ニャン」
返事をするように鳴く。
「ずっと姿を見せなかったじゃないか。元気だったか?」
「ニャン」
「あのな、凛々子は、もういないんだ」
「ニャン」
「もう……いないんだよ」
シロが慰めるようにペロペロと慎介の手を舐めた。
「シロは神様の使いなんだろう? 来世で凛々子が幸せになれるように、おまえから神様に頼んでくれないか」
慎介は、懐から凛々子のお守りを取り出す。
「僕が祈っても駄目だったから」と独りごちた。
するとシロは、慎介の腕から勢いよく飛び出して行ってしまった。
「ニャン」
最後の鳴き声が、応か否かもわからない。
そもそも猫に返事を期待する方が馬鹿げている。
(何をやってるんだか)
慎介は苦笑した。
幸せにしてやりたかった――――。
帰り道、あの日と同じ赤い夕焼けの空を見上げながら、慎介はもう二度と会えない人を想った。