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1 凛々子、初恋に別れを告げる

大正時代をモデルにした架空の街が舞台です。

文中の都市名は実在しません。


春なので桜の話が書きたくなりまして……楽しんでいただけたら幸いです。

 ぽかぽかとした晴天が続き、今年の桜は例年よりも早く開花した。

 氷川神社の境内にあるエドヒガンザクラも、今が見頃だ。

 凛々子(りりこ)は、見かけは立派だが手入れが行き届いているとはお世辞にも言い難い古びた屋敷の玄関を出て、ぽくぽくと歩く。

 路地を曲がり、石畳の参道を抜けると樹齢二百年を超える満開の桜が現れた。

 幼い頃は母親に連れられて、参拝がてらよく花見をした。

 母が病で亡くなってからは独りで。

 それが毎年の習慣になっていた。

 

(わぁ、綺麗……)


 間に合った、と凛々子の感動もひとしおである。

 もう一度だけこの光景を見たくて「女学校を卒業するまでは」と、ごねた甲斐があったというものだ。

 もし一度でも雨が降れば、早々に散ってしまっていただろう。

 あと一日遅くても駄目だった。

 明日、凛々子はこの街を出てゆく。

 そして、もう戻ることはないのだ。



 二週間前、凛々子は、貿易商を営む資産家の男と結ばれることが急に決まった。

 いや、縁談というのは急に決まるものなのかもしれない。

 同級生の久世絢子も北小路美代子も「お父様からは、それらしいお話はございませんのよ、ホホホ」と笑っていたのに、それから間もなくして中退した。

 女学校は良家の令嬢が良妻賢母を目指す、いわば花嫁修業の場だ。

 嫁探しのため、授業参観と称して令嬢たちを直接見極める家もある。また、学校側が紹介する場合もあった。

 器量好しほど早く縁談が纏まり、卒業を待たずして良縁に恵まれれば、家庭を優先させるのは当たり前のことである。

 そうして一人抜け、二人抜けして空席が目立つようになった教室は、誰にも見初められない不美人ばかりだと揶揄する輩もいる。

 凛々子は不美人ではなかったが、なかなか声が掛からなかった。

 癖のない艶々とした黒髪はきめの細かい白肌を際立たせ、長い睫毛に縁どられた大きな瞳を伏せた姿は儚げで庇護欲をそそる。

 成績優秀、素行に問題はなく、是非にと乞われても不思議ではない。

 通常であれば――――。

 しかし、凛々子の家――中園家は没落した。

 華族としての体裁を保てたのは先代が健在だった頃までのことで、事業の失敗と母親の治療費に加え、焦った父親が投資話に騙されたことが止めを刺した。

 売れるものは売った。家屋敷も抵当に入っている。

 使用人も解雇して、残っているのは女中のキヨだけだ。

 そんな状況でも学費の高い女学校に通い続けていたのは、ひとえに父親の見栄のためである。

 結婚ではなく職業婦人となるために退学することが許せなかったのだ。

 凛々子には二歳年下の弟もいるのに、もう銀行からの融資は見込めない。

 切羽詰まっていたところへ、話を持ち掛けてきたのがその男だった。

 多額の借金を肩代わりするだけでなく、生活費や弟の学費などすべて援助しようというのである。


「こちらの条件は一つだけです。それさえ呑んでいただけるのなら助力は惜しみません」

 

 一目で凛々子を気に入ったのだと朗らかに笑う男は、先の戦争で莫大な富を築いた成金だった。

 凛々子より一回りも年上で、名を桐生喜一という。

 和やかな表情で湯呑を持つゆったりとした動作は紳商そのものだが、その眼光は獲物を狙う獰猛な野獣だ。

 凛々子は狙われた子兎(こうさぎ)のような気分になり、ぶるりと肩が震えた。

 渋々ではあるが、中園家は桐生家の申し出を受けた。

 他に生き延びる方法がなかったからである。

 たとえそれが第二夫人、つまり妾であったとしても凛々子に否を言う選択肢はなかった。

 正妻に子が望めないため、妾として跡継ぎを産む。

 ただ一つの条件とはそういうことであった。


 すぐにでもと相手方が望むのを卒業まではと猶予を貰ったのは、凛々子の我が儘である。

 そう、我が儘だ。

 彼がいなければ、今頃、遊郭に売られていてもおかしくはなかったのだから。

 華族の娘が正妻になれなかったことに誇り(プライド)を傷つけられた父親は、明らかに落胆していた。だが、この身一つで弟の面倒まで見て貰えるのならば破格の待遇だと凛々子は思う。

 同級生たちは、皆、親の決めた顔も知らないような相手に嫁いでいった。

 妻だろうが妾だろうが、どちらにせよ、凛々子の恋が叶うことはないのだ。

 


 凛々子は、桜咲き誇る境内を裏側から抜けて近道し、別れの挨拶をするために馴染みの呉服店『大和田屋』へと歩を進めた。

 最後に一目、慎介に会いたかった。

 好きな人に綺麗と思われたかった。

 その一心で、この日、凛々子は唯一売らずに残しておいた母の形見の着物に袖を通したのだ。

 

「そうですか、明日この街を……寂しくなりますわ」


 母親と懇意だった女将が、名残惜しむように肩を落とす。

 それとなく店内を見渡すも、若旦那の慎介の姿はなかった。

 がっかりしたことを彼の母である女将に悟られないように、凛々子はにっこりと微笑む。


「はい。明日帝都を出発して、新浜(しんはま)の港から船で古宇戸(こうべ)へ向かう予定です」

 

「古宇戸ですか」


「ええ、しばらくの間、あちらを拠点にするのだとか」


「いつかこんな日がやって来ると覚悟していましたけれど、そんなに遠くへお輿入れになるとは思ってもみませんでしたわ。今だから申しますとね、息子と一緒になって欲しいと夢見ていた時期もあったのですよ。しがない呉服屋と華族様とでは、とても釣り合いが取れませんけれど」


 女将が旧知の気安さで言う。


「まあ、奇遇ですね。わたくしも同じことを思っておりましたわ」


 凛々子はくすくすと冗談めかして答えたが、まぎれもなく本心であった。

 この人を義母(はは)と呼び、この家で暮らしたかった。

 あの人を旦那様と呼び、共にこの店を切り盛りして生きてゆきたかった。


「……ご結婚おめでとうございます。お身体に気をつけて。凛々子お嬢様の幸せを心より祈っております」


 女将は、着物の袖の先でそっと涙を拭った。


「ありがとうございます……」


 凛々子は貰い泣きしそうになる。

 母亡き後、何かと気に掛けてくれた女将には、さすがに妾になるとは告げられなかった。

 彼女は資産家と結婚するのだと信じ、純粋に祝いの言葉を口にしているのだ。

 騙したような罪悪感とザワリとした居心地の悪さが凛々子を襲った。


「それにしても、せっかくお嬢様がご挨拶にいらしているのに、慎介ときたら一体何をしているのやら。 少々お待ちくださいませ、呼んで参ります」


「いえ、おかみさ…………」


 しんみりとした雰囲気を払拭するような明るい口調で、女将が店の奥へ行こうとする。それを止めようとしたのと同時に、慎介がのそりと姿を現した。手に風呂敷包みを持っている。


「あれ、凛々子?」


「これっ、慎介。お嬢様を呼び捨てにするなんて! もう子どもじゃないのよ」


 何度叱っても一向に改まることがない息子の態度に、近頃の女将は諦め顔である。だが、こんなやり取りも今日で最後だ。慎介に「凛々子」と呼ばれるのも。

 

「これからご隠居様の屋敷へお届けに上がるところなんだ。ついでだから、そこまで送るよ」


 慎介は母親のお小言を気にするふうでもなく飄々と凛々子を誘い、返事を待たずに店の外へ出て行く。

 凛々子は女将にお辞儀をしてから、慌てて後を追った。


「まったく、(うるさ)いったらありゃしない」


 肩をすくめて苦笑いする慎介の横に並ぶと、凛々子の心はときめいた。

 しばらく無言で歩く。

 ふわりと柔らかな風が頬を撫で、心地が良い。


「明日、この街を出るんだって?」


 正面を向いたまま慎介が問う。


「ええ」


 凛々子が小さく答えた後は、再び沈黙が訪れた。


「…………」


「…………」


 会ったら、あれを言おう、これも話そうと色々と考えていたのに、いざ本人を目の前にすると言葉が出ない。

 好きな人と一緒にいる。

 ただそれだけで、凛々子の胸はいっぱいなのだった。


 ご隠居の屋敷は中園家の近くにある。

 再び氷川神社の前までやって来ると慎介が立ち止まった。


「桜、見て行こうか」


「だめよ。ご隠居様のお屋敷へ行くのでしょう? 遅くなってしまうわ」


「あれは嘘だよ。そうでも言わなきゃ、出て来られなかったから」


「え……」


「帳面なんぞ、後からでもいいだろう。さあ、行こう」


 またしても凛々子の返事を待たず、慎介はさっさと鳥居をくぐった。

 彼はいつもそうなのだ。

 お陰で顔よりも後ろ姿を見るほうが多い。しかし、決して他人(ひと)の意見を聞かないわけでも、自分勝手なわけでもない。

 その証拠に、あと五歩目で振り返る――――四、三、二、一。


(ほら……やっぱり)


 くるりとこちらに顔を向け、ちゃんと()()かどうかを確認する。

 凛々子が追いつくのを待っている。

 目が合う。


「のろのろしてると、日が暮れてしまうよ」


 素っ気なく憎まれ口を叩いていても、その顔は、優しく微笑んでいる。


「待って、慎さん」


 凛々子は、つい小走りになった。


 桜花爛漫。

 薄紅(ピンク)色をした一片(ひとひら)の花びらが、ヒラリと慎介の髪に舞い落ちる。

 取ってあげるわ――そう話しかけるのが躊躇われるほどの静けさの中で、花に魅入られている。

 凛々子は伸ばしかけた腕を下ろした。

 そんな幼馴染みの様子にも気づかない慎介の横顔を目に焼きつけるように、じっと見つめた。

 そうして、どのくらいの時間が経ったのか。


「あ、そうだ」

 

 慎介が、急に思い出したように(たもと)をゴソゴソとまさぐる。

「これ」と差し出されたのは、お守りであった。


「幸せにな」


「ありがとう。慎さんも、元気でね」


「よせよ、今生の別れじゃあるまいし。そろそろ、行こうか」


 遠くの空が薄っすらと茜色に染まっていた。

 凛々子は、参道を歩きながら慎介の温もりが残るお守りを握りしめた。


「綺麗だったわ」


「ああ、綺麗だった。来年も見に来るよ…………凛々子の代わりに、必ず」


 それが二人の最後の会話だった。

 凛々子は、家の者に見つからぬように一つ手前の道で慎介と別れ、少しずつ赤みを増してゆく夕映えの空を仰いだ。


 好き――――――。


 ぽつんと呟く。

 今までずっと、ただ一度も口にできなかった言葉を。


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