思い込み
人というのは、実にファジーにできている。
例えば、暑い場所で暮らしていると、その熱に慣れてくる。
例えば、辛いものばかり食べていると、より辛いものが食べられるようになってくる。
例えば、騒音がうるさい場所に住んでいると、喧騒の中でも熟睡できるようになる。
例えば、だらしない人と密接になると、生活が乱れるようになり、それが当たり前に感じるようになっていく。
逆さめがねの実験を知っているだろうか。
上下左右が反転するメガネを掛けて生活を続けると、2週間ほどで反転した景色が正常に感じられ普通に活動できるようになるというものだ。
実に優秀な、人間の脳みそ。
明らかな異常にも、柔軟に対応してしまうできのよさ。
不愉快な状況を、受け入れることができるようになる汎用性の高さ。
稀有な環境を、当たり前と感じるようになる適応能力の高さ。
脳みそは、何度も何度も繰り返し同じ状況を認識すると、それに慣れてしまうのだ。
脳みその学習能力の高さには、恐れ入る。
おそらく…人が人として人の中で生きていくために必要な、ツールの1つなのだろう。
ところが、その有能さゆえに、融通が利かない部分もあるらしい。
脳みそというのは、非常に優秀では有るが、他人と自分を見分けていないらしいのだ。
人が話した言葉も、自分が話した言葉も、脳みそはそのまま言葉として聞いているのだそうだ。
つまり、悪口を言われたときのみならず、悪口を言ったときも、脳みそはその言葉を聞き入れて受け入れてしまうらしい。
そして、何度も何度も聞いているうちに、それが当たり前だと認識するようになってしまうというのだ。
例えば、批判ばかり口にしていると、賛同する人の言葉が信じられなくなってしまう。
例えば、嘲笑ばかり口にしていると、誰かが自分を笑っているのではないかと疑ってしまう。
例えば、自虐ばかり口にしていると、自分はダメな人間なんだと諦めてしまう。
例えば、不幸自慢をしていると、不幸に取り憑かれていると錯覚してしまう。
例えば、不満ばかり訴えていると、不満足な毎日しか送れないと思い込んでしまう。
例えば、不運をひけらかしていると、不運な運命を与えられた悲劇の人と認識してしまう。
「…つまり、不幸な事を口にしてたら、いい事なんて一つもないそうよ?」
久しぶりに会った長年の友人が、随分辛気臭い事ばかり言うので、どこかで小耳にはさんだ話を持ち出し、励ましてみたのだけど…うーん、どうも、表情がいぶかしげなのよね。さて、どうしたものかしら…。
「今日はおいしいものが食べられて幸せだなとか、かわいい犬見てうれしいなとか、そういうことを口にする事から始めたらどう?そんな、目につくものすべてに怒りをぶつけてたら、ナナちゃんの心が休まらないと思うよ?」
久しぶりに高校時代の友人から連絡をもらったのが、先週の日曜日。たまには会いたいよねって話になったので、時間を合わせて県庁所在地まで遠征してきたわけなのだけれども。
会った端から……今すれ違ったババアがネズミ臭いだの、カフェの店員の女子が言葉遣いがなってないから本部にチクるだの、フラペチーノの泡が汚いだの、マズくなっただの、人の顔見てシミだらけだの、会社の人間がクソ過ぎて燃やすしかないと思ってるだの、自分ばかりひどい目に遭うだの、運がないだの、宝くじ買うのは頭の悪い人だけだだの、どうせ私なんか誰も見てくれないだの、周りのレベルが低すぎて合わせるのがバカバカしいだの、出会いがないのは行政が婚活支援をしないせいだのぐちぐちいうので、気が滅入ってしまって。
おもしろい話は無いのかしらって振ってみたところ、予想外に私の大昔の失敗を引っ張り出して、人がわんさかいるフードコートで大声で笑うとか……なんかもう、逃げ出したくなったというか……。
それでも、長年の友人だし、色々と据えかねてるものが多いんだろうなと思って黙って聞いてたんだけど、アンタもなんか言ったらどうなの、相変わらずぼさっとしてるわねえとか言うもんだから…、怒りを感じたこともあって、つい強い調子で説教じみたことを口にしてしまった。
…なんだかなあ、昔から真面目な子だったから、不真面目な世間が許せなくてこんな感じになっちゃったんだろうか、いわゆる更年期でイライラしているんだろうか、ストレスのはけ口がなくて気を許せる私に甘えているんだろうか…、そんなことを考えつつ、黙り込んでしまった友人に向かってさらに言葉を投げかけてみる…。
「そんなにイライラしてないで、たまにはこう、小さな幸せに目を向けてみたら?口にするならいい言葉にかぎるよ!頭に思い浮かべるなら幸せな感情がいいよ!でね、できる事なら満たされていることに感謝する方が…
「…なんかさあ、アンタ変わったね。自己啓発セミナーのいけ好かないババアみたいだよ。思い込みで全部解決しようとしてる馬鹿にしか思えない。長年の親友だし我慢して聞いてたけど、なんかもうそう思えなくなっちゃった。アンタ見てると腹が立ってくる。アンタなんかとは付き合いきれない。もう2度と合わないし、絶交するから!!」」
ばん!!!!!!!!
勢いよく座席から立ち上がって…食べていたアイスのカップをすぐ横にあるダストボックスに叩きつけ、こちらをふり返ることなく一目散でどこかに行ってしまった…ええと、元、友人?今どき、絶交って……。
やだなあ…、周りの席の人がみんなこっちを見ている。
一刻も早く立ち去りたいけれど、私のアイスカップにはまだ半分くらいアイスが残っているのよね……。食べ物に罪はないもの、最後までちゃんとおいしく食べたいなあ……。
…気にしないふりをしながら、おさじですくって、なんでもないふりをして食べ続けるものの……ああ、味なんかしやしない。
……うまい事いかないなあ。
……どうも私は空気が読めないというか、会話ができないみたい。
年を取ると、なかなか柔軟な会話ができなくなってくるらしい。
自分の感情を優先してしまって相手の求めてる会話に気が付けないし、顔色が変わり始めても自分の言いたいことを途中でとめられない。昔は人の表情を見て意見をころころ変えてたのに、人というのはなんというか…劣化してしまうものなんだね…。
……まあ、縁を切られてしまったのだから、仕方がない。
もともとそこまで親密だったわけでもないし、いい機会なのかもしれない。
幼いころから私にいろいろとダメ出しをしてくれた人ではあるけれど…正直、苦手な部分はあった。この年になって鼻が低いねとか、痩せてもかわいくなれない人ってってかわいそうとか、ニンニクが食べられないなんてありえないとか、しょうもない事で馬鹿にされるのは、ちょっとね……。
世の中には、優しい人はたくさんいるのだ。
別に、学生時代を共に過ごしだからといって…一生仲良くしなければいけないわけでは、ない。
普段わりと平凡にのほほんと過ごしている自分にとって、なかなかのスリリングなひと時だった。ある意味、貴重?今後様々な人間関係を築くにあたって…スムーズなやり取りをするべく、活かせるものもあるはずだよね。難しそうな人には何も言わないでおくべし的な…。
今日は、人間関係の真髄を学ばせてもらったのだと、思っておこう。ま、こういう日も、あるよね。
賑やかなフードコートで一人アイスを完食し、ゴミを片手に立ち上がる。…もう、私に目を向けている人は一人もいない。
一瞬注目を集めたところで…あっという間に周りに馴染んでしまうものなんだね。誰一人としてこちらを気に留めることなく、各々食事をたのしんでいる。
……その程度の、出来事だったんだよね。
気晴らしに宝くじでも買って帰ろうかな、なんかイヤな雰囲気の反動であたりそうじゃない?
私、わりとこういうとき、くじがよく当たるんだよね!今年はもう3回も購入金額を上回る当せん金があたってて!……よーし、今日は買ったことがないビンゴファイブ、やってみよう!
全く買わない人と比べたら、当たる回数は多いに決まってるよねえと、ちょっぴり当たり前のことを頭の端に思い浮かべつつ。
私は大当たりするはずだと盛大に思い込み…、ニコニコしながら宝くじ売り場の列に並んだのだった。