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第二次世界大戦 概観  作者: 孫覇
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連合

 1941年12月6日、日本海軍がハワイの真珠湾に停泊中の米艦隊を攻撃。

 同日、日本陸軍はイギリスの支配下にあったマレー半島に上陸。

 日本が参戦したことで、名目上は中立だったアメリが連合に加わり、参戦。同年、ドイツに攻め込まれたソ連も連合に加わっていた。

 ここに英米ソ3カ国が手を結んだ。彼らは自らの同盟をUnited Nations(日本では連合と訳される)と称した。これはのちの国際連合(英語 United Nations)の足がけでもあった。


 41年12月、イギリス首相チャーチルと米大統領ルーズベルトが会談を行った。

 会談では第一の敵はヒトラーであると定められた。日本を倒してもヒトラーは倒せないが、ヒトラーを倒せば日本も必然的に負ける。それゆえ、まずはドイツに対して全力を向ける。

 また、チャーチルは会談でジムナスト作戦について話した。ジムナストはアフリカ北西部に連合軍を上陸させるものだ。

 会談後、内容を知ったスターリンはアフリカではなくフランスに上陸するよう要請した。ヨーロッパ大陸にあるドイツ軍の攻勢はソ連に向けられていたから、西から英米に攻撃してもらうことで負担を軽減したかった。

 アメリカ軍の上層部でも、アフリカよりフランスへの上陸のほうが現実的であると見ていた。ルーズベルトは当初はスターリンの意見に賛成したが、結局はチャーチルとの友情をとった。

 42年7月、公式にアフリカ上陸が決定した。作戦名もジムナストからトーチに変更される。


 1942年、アフリカの主人はロンメルだった。ロンメルは優勢を誇る英軍を翻弄し、手玉に取っていた。

 ロンメルは英軍をエジプトまで追い込んだ。しかしとうとう兵力が尽きる。十月、後退を始めた。英軍はそれを追う。

 ロンメルは背後からも襲われた。11月、トーチ作戦は決行され、アフリカ北西部の海岸に連合軍が上陸したのだ。東西から攻められたロンメルはチュニジアで防御を固めた。

 圧倒的な兵力を前にして、ロンメルはなおも敵に損害を与え続けた。しかしどれだけ損害を与えようが敵は大量に補給を受けている。ようやくチュニジアに援軍が到着したが、劣勢は覆せない。

 ジリ貧だった。

 43年3月、ロンメルはさらに後退、首都のチュニスに籠る。

 5月7日、連合軍がチュニスに突入。ドイツ・アフリカ軍団は降伏した。

 軍は降伏したが、ロンメルは陥落前にドイツに帰っていた。ロンメルはしばらく前から病気にかかっていた。体に鞭打って指揮を続けていたのだが、とうとう力尽きてドイツの病院に送られたのだ。ロンメル不在の間に、アフリカでの戦いは終わった。


 連合国はアフリカでの戦いに勝つと短い海路を渡ってシチリアに上陸した。

 イタリアの独裁者ムッソリーニはシチリア防衛失敗の責任を問われる。7月24日、ムッソリーニは失脚し、幽閉された。新政府が誕生し、連合に降伏した。

 ヒトラーはイタリア政府が降伏しても、イタリア半島を失う気はなかった。ドイツ軍を使って半島を占領。連合国と敵対する。

 連合軍は進行を続けた。ドイツ軍は巧みに地形を利用して戦ったため、前進は困難だったが、44年6月4日には首都ローマを占領する。

 同じ月に、スターリンが催促し続けたフランス上陸作戦が決行された。しかも戦局に決定的な影響を与えるほどの大兵力で。


 フランス上陸の背後には大西洋での勝利があった。アメリカが軍を送るには大西洋を渡る必要があるからだ。

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