バルバロッサ
バルバロッサはドイツによるソ連侵攻作戦の名だ。
ドイツとソ連は不可侵条約を結び、ポーランド戦では共闘して勝利を得た。しかしヒトラーとスターリンは互いに不信感を抱いていた。
スターリンは、ドイツがフランスとイギリスを降伏させたら、次はソ連に攻めてくると思っていた。そのための防衛策としてバルト三国を占領したのだ。
ヒトラーもまた、本能的にソ連を嫌っていた。彼はソ連のバルト三国占領を見て、ドイツへの侵攻準備をしているのだと恐れを抱く。
続いて、ソ連はルーマニアを攻撃。ドイツはルーマニアの油田に依存していたため、ソ連に抗議した。
その後両国は会談を行い、表面上は同盟関係を再確認したが、不信は拭えなかった。
ヒトラーはソ連侵攻計画について陸軍に検討させる。陸軍上層部は兵力、とくに戦車の数で劣っていることを理由に反対したが、ヒトラーは譲らなかった。40年12月、バルバロッサ作戦が発令された。
1941年6月22日、ドイツはソ連に侵攻を開始。
ドイツ侵攻軍は三つに分けられた。北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団である。最大の兵力が置かれたのは中央軍集団で、最強のグデーリアン装甲集団もここに属していた。
中央軍集団の計画は古典的な包囲殲滅戦だった。まず機甲部隊が先行し、敵の背後に回り込んで包囲する。あとは包囲されたソ連軍を殲滅する。
グデーリアンは一週間で150km以上も前進し、1939年時点でのソ連国境を越える。重要都市のミンスクを攻略して迂回行動を始めた。しかし雨で地面がぬかるみ、自動車部隊が動かなくなったため、包囲に失敗。ソ連軍は後方に下がって防衛体制を整える。包囲作戦が失敗したことで、ドイツ軍の短期勝利の可能性は失われた。
一度は失敗しても、モスクワへの前進は続けられた。ドイツ軍が勝つためには冬が来る前にモスクワを占領する必要があった。それさえできれば、まだ勝ち目はあった。
しかし、その勝ち目も完全に潰される。
8月21日、ヒトラーがモスクワへの前進をやめ、南へ方向転換するよう命じたのだ。
南ではすでに南方軍集団が進撃していた。ヒトラーは中央軍集団に対し、南方軍集団を支援するよう命じたのだ。
軍部はこの自殺行為に猛反対したが、ヒトラーは聞く耳を持たなかった。グデーリアン装甲集団をはじめとする戦車部隊は南へ転じた。
南方軍集団は重要都市のキエフを攻略し、大勝利を得た。しかしこの局部的な勝利を求めたことが、対ソ連戦全体での勝利を失わせた。
10月、グデーリアンは中央に戻り、モスクワへの進撃を再開。しかしドイツ軍が南へ向かっている間にソ連はモスクワ周辺の守りを固めていた。
ソ連は兵を大量に増員する。ドイツ軍は次々に現れる敵兵に疲弊し、進軍は思うようにいかなかった。極寒の冬が到来し、12月、ついにドイツ軍は完全に停止する。
司令官たちはもはや勝ち目はないとし、これ以上の被害を出さないために撤退を申し出た。ヒトラーは一歩たりとも撤退を許さなかった。さらには撤退を口にした指揮官たち、三つの軍集団の指揮官三人と、グデーリアンを罷免した。さらに陸軍総司令官のブラウヒッチュも病気のため辞職。ヒトラーは自ら陸軍総司令官に就任する。これで陸軍は完全にヒトラーのものとなった。
疲弊し、前線の指揮官を失ってもドイツ軍は一年以上も持ち堪えた。しかし、独ソ戦に転換点が訪れる。
ソ連南部に、時の為政者スターリンの名を冠した都市スターリングラードがある。ここでは1942年6月から熾烈な戦いが続いていたが、1943年2月2日、ついにドイツ軍は敗れた。スターリングラードのドイツ軍はことごとく捕虜となる。
スターリングラードでの敗北が、ドイツ軍を崩壊させた。
後退するドイツ軍を、ソ連軍が追い立てる。1945年3月には、ソ連はポーランドとドイツの国境を流れるオーデル川まで前進。4月、オーデル川を渡り、ベルリンへ到達した。