ロンメル
1940年6月10日、フランス崩壊直前、イタリアが勝ち馬に乗ろうと参戦した。アルプス山脈を越えてフランスを攻撃するも、あえなく撃退される。
しかしフランスはドイツが崩壊させる。フランス崩壊後、イタリアはアフリカの植民地を拡大しようと、エジプトを攻撃した。
当時、アフリカはヨーロッパ諸国により分割されていた。特にイギリス、フランスは多くの植民地、保護領を持っていた。
大戦当時のイギリスは世界中に植民地を持つ大帝国だった。イギリス本国と植民地は海上連絡路によって繋がれ、物質、情報、人員が移動していた。
エジプトはイギリス本国からは離れているが、大英帝国の一部である。それを失うことなど考えられなかった。
エジプトを挟んで東西にはイタリアの植民地であるリビアとエチオピアがあった。当然、リビアにもエチオピアにも、イタリアは軍を置いていた。
1940年7月、エチオピアのイタリア軍はイギリス領に侵入。9月、リビアのイタリア軍六個師団も前進を開始した。
エチオピアは倒せたが、問題はリビアだった。
リビアからのイタリア軍も、当初は問題なく勝てた。英軍はイタリア軍を追い返すだけでなく、リビアに侵入し、イタリア軍を蹴散らした。
英軍はリビアの都市トブルクを占領。さらに追撃し、イタリア軍の残党が籠るトリポリを攻略するための準備にかかる。トリポリさえ落とせばアフリカでの戦いは終わる。
しかし、イギリスの首相チャーチルはトリポリへの攻撃をやめさせた。
このときチャーチルはギリシアの獲得を狙っていた。アフリカには最低限の兵力だけを残して他はすべてギリシアに移動するよう命じる。
もしこのときチャーチルの進軍停止命令がなければ、アフリカでの戦いは終わっていただろう。
英軍が去ったことで、イタリアは救われた。
アフリカでイタリア軍が窮地にあったとき、ヒトラーは同盟国を救うため援軍を送ることを決定していた。支援部隊司令官のロンメルは先に出発し、1941年2月12日トリポリに到着。遅れて彼の部隊も逐次アフリカに上陸する。
若き将軍ロンメルはこの地で戦車戦の天才であることを示す。
3月末、ロンメルは手持ちの兵力だけで侵攻を開始。油断し切っていた英軍は突然の攻撃に不意を打たれて撤退。トブルクに小部隊を残してエジプトまで下がる。
ロンメルはトブルクを包囲。しかし英軍は守りを固めており、ロンメルの兵力ではどうしようもなかった。
ドイツ軍到着の報告を受けたチャーチルはただちにアフリカへ援軍を送る。5月12日、イギリスは地中海を渡ってエジプトに戦車200輌以上を届けた。
イギリスは増強された戦力をもって、トブルクに残された仲間の救援作戦を行う。手始めにイタリア軍が守るハルファヤ峠を攻略。しかしロンメルがこれを取り戻した。
ハルファヤ峠を取り戻したロンメルはここに88ミリ砲を設置。88ミリ砲は、イギリスの最も頑丈な重戦車でも貫通する威力を持っていた。ロンメルはハルファヤ峠と、もう1ヶ所別の経路に88ミリ砲を置いて罠を仕掛けた。
6月、英軍が再びトブルク目指して前進。英軍はまずドイツの戦車部隊を壊滅することを目標とした。
ドイツの主力はなんといっても戦車部隊だったから、これを壊滅させようというのは真っ当な考えだ。しかし、相手はロンメルだった。
戦車は高い機動力を持つ。ロンメルはその特性を理解していた。
ロンメルは逃げた。イギリスはそれを追って部隊は長く伸びる。ロンメルはハルファヤ峠まで敵を誘導。そこにはロンメルが設置しておいた88ミリ砲があった。罠にかかった英軍に88ミリ砲が火を吹いた。戦車部隊を壊滅させられたのはイギリスの方だった。
戦いは三日間続き、イギリスは百輌近い戦車を失う。対してドイツは12輌。しかもドイツはほとんどの戦車を回収し、修理すれば使えるようになった。
敗北の報に接し、チャーチルはさらに戦車と航空機を送る。航空機はドイツとイタリアは合わせて320機だったが、イギリスは700機用意した。戦車もイギリスのほうが多い。
11月、イギリスは三度目の攻勢に出た。それでも結果は同じで、イギリスは攻撃部隊の戦車500輌のうち430輌を失った。ドイツの損失は160輌のうちの70輌。
しかし、イギリスはすぐに増援が送られてくる。
ロンメルはまだ増援を受けていなかった。戦力が不足していたため、ロンメルは一時撤退を決める。12月になってようやく支援が届いたが、戦車たった30輌だけだった。