西部戦線
1940年5月10日、ドイツはフランスとの戦いを開始する。
フランスはドイツからの攻撃に備え、マジノ線という大規模な防御施設を構築していた。マジノ線はドイツとの国境沿いに作られたコンクリトート製の地下トンネルで、ところどころ射撃用の建物が突き出ている。
全長322km、十年の歳月をかけて作られてた巨大施設は、いざ戦争がはじまるとまったく約に立たなかった。
フランスの北部、ベルギーとの国境沿いにアルデンヌの森があった。ここは富士の樹海のように木々が密集し、方位磁針が狂うため、戦車での通過は不可能と思われていた。そのため、フランスはアルデンヌ沿いは手薄な兵力しか置いていなかった。ドイツはここに目をつける。
ドイツ軍は弱体なベルギー、オランダを通過し、アルデンヌの森を突破してフランス北部から奇襲をかけた。
不可能と思われていた森の通過をやってのけたのは、戦車の第一人者であるグデーリアン将軍だ。グデーリアンは第一次世界大戦でアルデンヌの森を通過したことがあって地形に通じていた。また、彼は電撃戦の完成者でもある。
電撃戦の雛形はイギリスで生まれた。しかし当初は軍事演習でのみ使われた戦法で、実戦には適用できないとされていた。それを研究、応用し、ポーランド、ついでフランスで電撃戦を行い、大勝利をあげた。
フランス北部は、フランス軍の一部と、イギリスからやってきていた英遠征軍10個師団が守っていた。ドイツ軍は二手に分かれて敵を包囲。
先鋒はグデーリアン将軍が務める。彼は破竹の勢いで進軍し、敵軍を海岸沿いのダンケルクという港町に追い詰めた。しかし突如として進軍停止が命じられる。これはヒトラーがイギリスと講和を結ぶときのことを考えて手加減したとか、グデーリアンの上司であるルントシュテット上級大将が先走りすぎたグデーリアン部隊を引き止めたとか、いろいろな説がある。
ともあれ英遠征軍はグデーリアン部隊の追及がとまったことで命拾いした。イギリス本土から救援の船が出され、ダンケルクに追い詰められていた英遠征軍、フランス軍を回収し、イギリスへ逃した。
この救出劇は、イギリスでダンケルクの奇跡と呼ばれた。もしダンケルクで英遠征軍を壊滅していたらイギリスは陸では丸裸となり、ドイツに攻められたら抵抗するすべを持たなかったであろう。
フランス侵攻はまもなく再開された。
フランス軍は国境を固く守っていたが、国境さえ越えれば国内はすかすかだった。
パリは陥落し、政府は南の都市ボルドーへ逃げる。
ドイツ軍はフランス全土を征服。6月25日、ボルドー政府は降伏を決定した。フランス上層部の一部はイギリスへ逃げたが、国に残った政府はドイツの支配下に入った。国内の政府はヴィシーに置かれたため、ヴィシー政権と呼ばれる。
ポーランド、ついでフランスと、ドイツは負けなしだった。どちらも航空機と戦車を活用した電撃戦を使い、グデーリアンの活躍が大きかった。
しかしフランス陥落後、ドイツは徐々に勢いを失っていく。英本土侵攻、バルバロッサ作戦(ロシア遠征)はどちらも失敗し、連合軍が有利になっていく。
ドイツの凋落の原因は、ひとつは海軍力の不足であり、もうひとつは空軍総司令官ゲーリングが陸海軍への協力を渋ったことだ。
空軍は地上軍の援護、および海軍と協力しての制海権の確保で、その真価を発揮する。しかしゲーリングは空軍だけで行動したがっていた。
英本土作戦が決まると、その手段をどうするかが話し合われた。イギリスは周りを海で囲まれている。攻撃するには海軍が陸軍を輸送する必要があった。海軍は小部隊を一度だけなら輸送できると言った。陸軍はそんなことをされたらイギリスに取り残された部隊が壊滅するだけだといい、大規模な上陸を複数回行うよう要求した。
もしダンケルクで英遠征軍を壊滅していたら陸上の守りは手薄だったが、彼らは帰国し、アメリカから大量の武器を貰い受けている。陸軍とて、無駄死にはしたくなかったのだ。
陸海軍は、現状使える手段では英本土侵攻は不可能だと言う。
ゲーリングの待ち望んでいた瞬間が訪れた。彼は空軍のみでイギリスを攻撃すると主張し、実行した。
英本土作戦は空軍同士の戦いとなる。
ゲーリングはイギリスを過小評価していた。イギリスは戦闘機の準備はもちろん、敵機をいちはやく発見するレーダー、地上から航空機を狙える対空砲までも利用し、緻密な防御網を構築していた。
戦いは半年以上続いたが、結局イギリスは落ちなかった。
ヒトラーはイギリスでの戦いを見限り、東へ活路を見出そうとしていた。
1941年6月、ドイツはソ連へ侵攻。同年12月、太平洋で日本が米軍基地を攻撃。アメリカ、ソ連が参戦し、イギリスと連合を結成。ヨーロッパの大戦に太平洋での戦いが加わり、いよいよ世界大戦の様相を呈してくる。