最終章
ショックによるめまいで、椅子と共に倒れる。
苦しみ、倒れた男の苦悶の顔が目に飛び込んでくる。
今の自分も、こんな顔をしているのでは無いか。
目の前の光景に耐えられなくなり、目を閉じる。
出来ることなら、このまま眠ってしまいたかった。
話の続きに耐えられそうにない。早く殺して欲しい。
その願いは、受け入れられる事は無かった。
起き上がらせられて、先ほどと同じ状態になる。
安永は満足げな表情をしている。
どうすれば、目の前の患者が効果的に苦しむのかを考えているようだ。
彼女は楽しんでいるのだ。絶望した者の顔を見るのを。
「私が嘘を言っていると思っているでしょ?でも、本当なの。
この男の話を聞いていて、不思議に思わなかった?
どうして、自分の事を犯人だと疑っているのかって」
確かに、自分が人殺しなんて信じられなかった。
だが、記憶を無くす前の人格がそうであったと思うことで納得していた。
「それも全て私が仕組んだことなの。この男が、君を疑う様に仕向けたの」
安永が自慢話をするかの様に、誇らしげに話す。
「この男が私の所へ来たのは、娘が殺されて直ぐの頃だった。
疲弊していて、生きる意味を無くしていた。あなたみたいにね。
カウンセリングで事件のことや、彼の人生がどう変わったのかを知った。
私は、彼が哀れで仕方無かった。
他の患者に対しても、そんな気持ちは湧いてくる。
だけど、彼に対しては違っていた。救いようの無い男だった。
だって、彼の人生を壊した張本人は私だもの。
彼の顔を見る度に、笑いを堪えるのに必死だった。
彼は夢にも思わなかったでしょうね。
憎むべき相手に診察されているだなんて。偶然って恐ろしい」
全ての始まりは、安永によって引き起こされた。
男と自分の人生は、モルモットの様に安永の手に操られていたのだ。
そんな事が許されて良いのか?怒りと悔しさの涙込み上げてくる。
「この男は死にたがっていた。まぁ、仕方が無いわよね。
体や心もボロボロだったから。だから、思ったの。
どうせ死ぬんだったら、遊んであげようって。
彼の願いを叶える助けをしてあげようって思ったの。
希望って人間にとって大切なものよね。
それがどんなものであれ、生きる力を与えてくれるのだから。
それからは簡単だったわ。
男に集塵部屋に犯人らしき者がいるんじゃないかって教えたら、
憑りつかれたように復讐にのめり込んで行った。
後は私の代役を探し、自殺志願者達をこの男の前で殺すだけで良かった。
面白いほど、私の思惑通りに動いてくれた。お陰で楽しませて貰ったわ」
安永の言う代役というのが、自分だったというわけか。
最後の言葉は、男と自分に向けられた物だろう。
彼女にとって人の命は、楽しませてくれる要素の一つに過ぎないのだ。
その非道な考えに恐ろしさを感じる。彼女をこんな存在にしたのは一体何なのか?
「どうして、僕を代役に選んだんですか?」
この期に及んでも、敬語が抜けなかった。
あくまで、患者と医師という関係にとらわれていた。
「男と君が同じ顔をしていたからかな。特に意味なんて無いわ。
あえて言えば、死んでも誰も困らないからかな。面倒な事になるのは嫌だから」
男と僕は、安永の欲求を満たすために利用されたのだ。代役は誰でも良かった。
自分の不運さを呪いたくなる。彼女を信じていた自分が愚かだった。
「この男もあなたが殺したのか?」
「変な言いがかりね。元々、彼は心臓が悪くてね。
そんなに長くは生きられなかったの。
だから、わざわざ自分から手を下さなくても良かった。
復讐をきっかけに、処方されていた薬も飲んで無かったみたいね。
死ぬのも時間の問題だった。
復讐を遂げられなかったのは、残念だけどね」
安永が憐れんだ顔で男の顔を見る。
ここまで男を追い込んだという自覚が、微塵も感じられなかった。
良心というものを、彼女は持ち合わせていないのだろうか?
対話を重ねるごとに、彼女の事が分からなくなってくる。
そもそも最初から、彼女の事について何も知らなかったのだ。
盲目的に彼女を信じてしまった自分が馬鹿だった。
「あなたは人の命を何だと思っているんだ?」
力の無い言葉がこぼれ落ちる。疲労感で座っているのもやっとだ。
安永がこちらをみて、怪訝な顔をする。
「その質問は、自殺を願う者が言う言葉では無いわよ。
自殺を決めた者が、命についてあれこれ言う権利はないのよ。
自分の命を軽んじる者が、他人の命について意見することなんて出来ない。
君の言う命とは、人間だけに与えられたものなの?
違うわ。動物たちも同じく持っている。
こうやってあなたが今生きているのも、何千何万という命の犠牲のお陰なの。
そんな事を忘れてしまっている愚か者に、私が罰を与えているの。
確かに私は人を殺している。
でも、生きたいと願っている人を殺した事は一度もない。
全て死を望む者だけを殺してきた。そのどこがいけないと言うの?
私は彼らの望みを手助けしただけ。感謝されても良いくらいよ」
言い返す言葉が見つからない。安永の行為は許される事では無い。
だが、それと同様に自分の行為も許される事では無かった。
復讐に駆られた男ですらもそうだった。
この与えられた命を浪費してしまっていたのだ。
安永がテーブルから降り、ナイフを握りしめる。
さっきの質問によって、安永の衝動を呼び起こしてしまったのだ。
「最後に一つだけ、教えて欲しいことがある」
必死の思いが伝わり、ナイフを振り上げた安永の腕が止まる。
「僕は一体何者なんだ?
あなたは、僕が二度も記憶を無くしていると言った。
記憶を無くす前、僕はどんな人間だったんだ?」
死ぬ前に、自分がどういう人間だったか確認しておきたかった。
どんな人間だったにせよ、僕という人格が生きていた証が欲しかった。
たとえ取るに足らない平凡な人生だったとしても、何も無いよりはマシだった。
安永が不思議そうな顔をする。
死ぬ間際にそんな事を聞いて、何になるのかと思っているのだろう。
彼女は本当の意味で、記憶喪失の患者の気持ちを理解していないのかもしれない。
「話しても良いけど、あくまで診察中にあなたが語った事よ。
それが、真実という確証は無い。
そもそも、私が本当の事を言うなんて思っているの?」
「それでも良いから聞かせて欲しい」
少し考えた後に安永が話し始める。
「きっと記憶には残っていると思うけど、あなたは売れないバンドマンだったの。
地元を飛び出し、上京してきたけどうまくいかなくて。
何年もバイト暮らし。でも、あなたはあきらめなかった。
何度もオーディションに参加し、チャレンジし続けた。
その努力の甲斐もあって、一つの事務所が声をかけてくれた。
やっとデビュー出来ると、あなたはとても喜んだ。
これで胸を張って地元に帰れるって。
でも、それには一つ条件があったの。
デビューするのはあなただけで、他のメンバーは事務所が用意する。
それが、デビューの条件だった。あなたはとても悩んだ。
他のメンバーもデビュー出来るよう、何度も事務所に頭を下げに行った。
でも、それは叶わなかった。
あなたは他のメンバーを見捨てる事なんて出来なかった。
あきらめずに事務所へ行った。
そのお願いに行った先で揉み合いになり、あなたは階段から落ちたの。
命はとりとめたけど、記憶が無くなってしまった。そして、デビューの話も」
安永が悲しそうな顔をする。診察時に見せる、医師の顔だった。
自分の人生は無駄では無かったのだと思った。
どうしようも無い奴だと思っていたけど、少しはマシな奴だった。
それを知れただけでも良かった。
これで心残りは無かった。自分は生きていたのだ。
人の人生に関わる事が出来ていたのだ。
こんなに心が安らいだのは、記憶が戻ってから初めてだった。
神奈川県厚木市で深夜に山火事が発生した。
出火元は、山中にあったペンションだった。
周りが木々で囲まれていた事もあって、鎮火には時間が掛かった。
消防が到着した時には全てに火が回っており、ペンション内に入っての活動は出来なかった。
鎮火したのは、夜明け頃だった。
数時間後、出火原因の調査のため、消防と警察がペンション内に入った。
室内の全てが炭化しており、原形が何なのか判然としない物ばかりだった。
そんな中で、消防隊の者が3人の遺体を発見した。
炭化が進んでいて、性別も分からない状態だった。
後日警察が調べた所、このペンションの持ち主が沼田和夫である事が分かった。
神奈川県警内に、この名前を記憶している者は少なくなかった。
去年の暮れに起きた、女子高生殺人事件の被害者の父だったからである。
しかも、沼田の行方が分からなくなっていた。
沼田は事件をきっかけに離婚しており、前妻に話を聞いても何も知らなかった。
近所の住民の話では、最近になって様子がおかしくなり始めたのだという。
娘が死んでふさぎこんでしまっていたのが、最近になって明るくなったと。
元々、愛想が良いタイプでは無かったので、不気味がられていた様だ。
検視の結果、ペンションで発見された遺体の一人は、沼田であると判定された。
では、あとの2人は一体誰なのか?
すべての死体には、腹部を刺された跡があった。
捜査にあたった者も、これが殺人事件なのか判断がつかなかった。
そんな中で、沼田が通っていた精神科の医者が捜査線上に浮かんだ。
沼田の様子がおかしくなり始めた時期から、この医師の診察を受けていたのだ。
なかには、この医師も遺体の一人だと見る者もいた。
一人が他の2人を刺殺した後で、放火して自殺したという見方もあった。
そのどれもが憶測の域を出ないものだった。
果たしてあの夜、ペンションで何があったのか?
誰も知ること無く、捜査は打ち切られた。
ただ一つ分かっているのは、多額の保険金が沼田の前妻へ支払われたという事だけだ。
【 完 】