六章
右隣の女が、縄を解いて立ち上がる。
そして、ゆっくりと正面を横切り左の男へ近づいていく。
これで助かると安堵した時、男が拘束された椅子と共に倒れこむ。
胸にはナイフが突き刺さっている。女の手が男の血によって赤く染められていた。
状況が呑み込めないまま、恐怖が押し寄せてくる。女がこちらを見ている。
マスクの下から、笑い声が小さく聞こえてくる。
「まだ気づいていないようね。新城くん。」
なぜ自分の名前を知っているのか?
混乱しているのをよそに、女がマスクを取る。
目の前には安永がいた。右隣にいた女は安永だったのだ。
「驚いた?まさかこんな所で会うなんて、夢にも思ってもいなかったでしょ」
親しい友人と街中で会ったかのような、軽い調子で話しかけてくる。
男を刺した事など、気にも留めていない様だ。
「どうしてあなたがここにいるんですか?」
訳が分からず、ありきたりな言葉しか出てこない。
安永が手に着いた血をテーブルクロスで拭って投げ捨てる。
「まだ分かっていないみたいね。まぁ仕方ないか。だって記憶が無いんだもんね」
今までに見た事の無い、見下す顔だった。まるで別人と話しているかのようだ。
「全ては私の思惑通りに君は動いてくれた。そしてこの男も」
監禁していた男の身体を軽く蹴る。男も安永と関係があったという事に驚く。
ただ茫然と、安永を見る事しか出来なかった。
安永はテーブルに座り、天井を見ている。
「君は言ったよね。生きる意味が欲しいって。覚えているかな?」
声の調子が診療の時の様に戻る。だが、表情は変わらず恐ろしい。
あの時の感情が蘇ってくる。望んでいたのは励ましの言葉だった。
これまでと同じように、希望を僕に与えてくれると思っていた。
彼女と会えるからこそ、生きていると言っても良かった。
だが、聞かされた言葉は違った。
「私は無理に生きなくても良いって言ったよね。
生きる事がもし辛いのなら、死を選んでも良いと」
崖に落ちない様に必死に掴んでいた手を踏みにじられたようだった。
堰き止めていた感情が一気に流れだし、死を覚悟したのだ。
「この男も私の患者だったの。そして、あのサイトに向かう様に仕向けた」
血を拭ったナイフをもてあそびながら言う。
安永はこの状況を楽しんでいる。
こちらの反応を伺っては、不敵に笑うのだった。
「あなたは自分の意志で、あのサイトを選んだと思っているでしょう?
でも、違うの」
安永の言っている事が分からなかった。
自殺を決心したのは、安永の言葉であることは事実だ。
だが、集塵部屋での活動は全て自分の意志で行ったはずだ。
「あなたは勘違いしている。
あなた、記憶を無くす前の自分が確かに存在したと思っているでしょ?」
こめかみの辺りに鈍痛が走る。理解不明の言葉を投げかけられている様だ。
安永はこちらの反応をじっくり観察する。
薬が実験体に及ぼす影響を観るかの様に。
「あなたが記憶を無くすのは、これが初めてでは無いの。
あなたはその前にも、記憶を無くしているのよ」