五章
訪れると思っていた痛みは、数秒してもやってこなかった。
もしかしたら心臓を貫かれ、痛みを感じずに死んでしまったのかと思った。
だが、意識は確かに変わらずにある。恐れながらゆっくりと目を開ける。
目に飛び込んできたのは、男がもがき苦しむ姿だった。
手にしていたナイフは床に転がり、両手で首を掻きむしりながら倒れこんでいる。
他の2人は、突然の男の変化に戸惑っていた。
ただじっと見ている事しか出来ない。何せ拘束されているのだから。
1分は経っただろうか、男は動かなくなってしまった。
様子から、死んだのだと思われる。僕は生き延びてしまった様だ。
張りつめていた緊張感がとけ、部屋内に不穏な空気が流れる。
なぜ男は死んでしまったのか?
自殺の可能性は無いだろう。
だとすれば殺されたという事か。一体誰に殺されたのか?
先程までの男の様子から、体調の悪さを感じさせるものがあった。
持病を抱えていて、その発作が起きたと考えるのが自然だろう。
苦しみにより歪んでしまった顔を見ていると、いたたまれない気持ちになる。
復讐を果たせなかった無念さが、その表情に現れていた。
どうして、自分は生きながらえる事が出来たのか?
なぜ、男に復讐の時間を与えられなかったのか?
その2つの思いが共存している。
この命に意味があるというのだろうか?
犯罪者の人生にさえも、意味が与えられているというのか。
では、その意味とは一体何なのか?
殺されるべき者が生きて、生きたかった者が死んでいく。
こんな世界に意味なんてあるのか。
考えるほどに混乱してくる。それと同時に、涙で視界がぼやけてくる。
この涙は歓喜のものか、それとも悲しみのものかは分からない。
潜在意識の中にある、犯罪者としての自分が流したものなのかも知れない。
自分の存在の不確かさを改めて実感する。自分は一体何者なのか?
安永が窓の景色を眺めながらつぶやく。
僕の質問に答えずにこちらを向いて微笑み、椅子に座る。
不安に襲われそうになっても、その顔を見ると不思議と落ち着くことが出来た。
安永が、自分の母親かの様な錯覚に陥ることもあった。
それ程に、安永の事を信頼しているのだと思う。
記憶を無くして以来、心情を正直に話せたのは彼女しかいない。
これまでの人生でも、こんな存在はいなかったのかもしれない。
きっと、両親などの同じ血が通った者を合わせたとしても。
それに対し、寂しさとか悲しみは湧いてこなかった。
安永も気にすることでは無いと言った。それで問題無いと思う。
別に、これからの生活に支障をきたすこともないだろう。
「僕はこれからどう生きるべきなんでしょう?」
安永は机に肘をつき、黙ったままこちらを見つめる。
どうしたいのかと聞かれている様だ。
「難しい質問ね」
笑いながら、視線をまた窓の外へと向ける。
答えに困っているのでは無く、今の状況を楽しんでいるみたいだ。
また訳の分からない事を言い出したと、思われているのかもしれない。
「あなたはどんな風に生きていきたい?」
窓から射す陽光が、安永の顔を照らす。眩しさで表情が分からない。
「正直、分かりません。生きている意味を見出せないままです。
このまま、ただ生きていくのは耐えられそうにありません。
ひたすらに長い道を歩き続けるのは辛すぎます」
涙が出るのを必死にこらえる。
女性の前で泣くのを恥ずかしいという感情は残っていた。
どうせなら、こんな感情も記憶と共に消し去ってくれれば良かったのに。
「生きるのに意味なんているのかしら?」
答える事が出来ないまま、黙って下を向くと涙が落ちそうになった。
何もかもが理解できないまま、時間だけが過ぎていった。
まだ、記憶が無くなった現実も受け止めきれていなかった。
前の見えないぬかるんだ道を進もうとするが、足が取られて動けない。
手を差し伸べてくれる、誰かが必要だった。
この状況を変えてくれるのなら、何だって良い。
意味を与えて欲しい。
この人生を進むための目的が欲しい。
「僕には必要なんです。生きる目的が」
顔を上げると、安永は笑っていた。
愚かな人間を、嘲笑している様な顔をしていた。
不信感や怒りは湧いて来なかった。そんな力はもう残っていなかった。
安永という存在は、僕の中で絶対的な物になっていた。
全てを理解してくれる唯一の存在。
だから、安永の言う事なら何だって受け入れた。
それが、自分にとって生きることと同義だった。
「分かりました」
安永が呆れた顔でこちらを見てくる。それから指示を与えてくれた。
生きる目的を。