表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喪失  作者: 田島 学
5/7

五章

訪れると思っていた痛みは、数秒してもやってこなかった。

もしかしたら心臓を貫かれ、痛みを感じずに死んでしまったのかと思った。

だが、意識は確かに変わらずにある。恐れながらゆっくりと目を開ける。

目に飛び込んできたのは、男がもがき苦しむ姿だった。

手にしていたナイフは床に転がり、両手で首を掻きむしりながら倒れこんでいる。

他の2人は、突然の男の変化に戸惑っていた。

ただじっと見ている事しか出来ない。何せ拘束されているのだから。

1分は経っただろうか、男は動かなくなってしまった。

様子から、死んだのだと思われる。僕は生き延びてしまった様だ。

張りつめていた緊張感がとけ、部屋内に不穏な空気が流れる。

なぜ男は死んでしまったのか?

自殺の可能性は無いだろう。

だとすれば殺されたという事か。一体誰に殺されたのか?

先程までの男の様子から、体調の悪さを感じさせるものがあった。

持病を抱えていて、その発作が起きたと考えるのが自然だろう。

苦しみにより歪んでしまった顔を見ていると、いたたまれない気持ちになる。

復讐を果たせなかった無念さが、その表情に現れていた。

どうして、自分は生きながらえる事が出来たのか?

なぜ、男に復讐の時間を与えられなかったのか?

その2つの思いが共存している。

この命に意味があるというのだろうか?

犯罪者の人生にさえも、意味が与えられているというのか。

では、その意味とは一体何なのか?

殺されるべき者が生きて、生きたかった者が死んでいく。

こんな世界に意味なんてあるのか。

考えるほどに混乱してくる。それと同時に、涙で視界がぼやけてくる。

この涙は歓喜のものか、それとも悲しみのものかは分からない。

潜在意識の中にある、犯罪者としての自分が流したものなのかも知れない。

自分の存在の不確かさを改めて実感する。自分は一体何者なのか?


安永が窓の景色を眺めながらつぶやく。

僕の質問に答えずにこちらを向いて微笑み、椅子に座る。

不安に襲われそうになっても、その顔を見ると不思議と落ち着くことが出来た。

安永が、自分の母親かの様な錯覚に陥ることもあった。

それ程に、安永の事を信頼しているのだと思う。

記憶を無くして以来、心情を正直に話せたのは彼女しかいない。

これまでの人生でも、こんな存在はいなかったのかもしれない。

きっと、両親などの同じ血が通った者を合わせたとしても。

それに対し、寂しさとか悲しみは湧いてこなかった。

安永も気にすることでは無いと言った。それで問題無いと思う。

別に、これからの生活に支障をきたすこともないだろう。

「僕はこれからどう生きるべきなんでしょう?」

安永は机に肘をつき、黙ったままこちらを見つめる。

どうしたいのかと聞かれている様だ。

「難しい質問ね」

笑いながら、視線をまた窓の外へと向ける。

答えに困っているのでは無く、今の状況を楽しんでいるみたいだ。

また訳の分からない事を言い出したと、思われているのかもしれない。

「あなたはどんな風に生きていきたい?」

窓から射す陽光が、安永の顔を照らす。眩しさで表情が分からない。

「正直、分かりません。生きている意味を見出せないままです。

このまま、ただ生きていくのは耐えられそうにありません。

ひたすらに長い道を歩き続けるのは辛すぎます」

涙が出るのを必死にこらえる。

女性の前で泣くのを恥ずかしいという感情は残っていた。

どうせなら、こんな感情も記憶と共に消し去ってくれれば良かったのに。

「生きるのに意味なんているのかしら?」

答える事が出来ないまま、黙って下を向くと涙が落ちそうになった。

何もかもが理解できないまま、時間だけが過ぎていった。

まだ、記憶が無くなった現実も受け止めきれていなかった。

前の見えないぬかるんだ道を進もうとするが、足が取られて動けない。

手を差し伸べてくれる、誰かが必要だった。

この状況を変えてくれるのなら、何だって良い。

意味を与えて欲しい。

この人生を進むための目的が欲しい。


「僕には必要なんです。生きる目的が」

顔を上げると、安永は笑っていた。

愚かな人間を、嘲笑している様な顔をしていた。

不信感や怒りは湧いて来なかった。そんな力はもう残っていなかった。

安永という存在は、僕の中で絶対的な物になっていた。

全てを理解してくれる唯一の存在。

だから、安永の言う事なら何だって受け入れた。

それが、自分にとって生きることと同義だった。

「分かりました」

安永が呆れた顔でこちらを見てくる。それから指示を与えてくれた。

生きる目的を。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 「僕には必要なんです。生きる目的が」 顔を上げると、安田は笑っていた。 のところですが、 安永ではないでしょうか?間違っていたらすみません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ